甲信寺社宝鑑

甲信地方の寺院・神社建築を語る雑記。

【長野市】善光寺 その3 本堂

今回も長野県長野市の善光寺について。

 

その1では仁王門と釈迦堂について

その2では山門と経蔵について述べました。

当記事では国宝の本堂について述べます。

 

本堂の概観

山門をくぐって境内の中心部へ行くと、圧倒的な貫禄と風格を漂わせる本堂が鎮座しています。

 

梁間5間・桁行14間、一重、裳階付、撞木造、正面向拝3間 軒唐破風付、両側面向拝1間、総檜皮葺。

正面24m、側面54m、棟高26m*1

1707年(宝永四年)再建国宝

棟梁は、江戸幕府作事方の3代目大棟梁・甲良宗賀。

本尊は絶対秘仏の善光寺式阿弥陀三尊像*2。寺伝によると、国内では現存最古の仏像とされます*3

 

県内に6件ある国宝建造物のひとつで、松本城とともに長野県を象徴する名建築です。国宝重文の建造物の中でも十指に入るほど大規模なもので、檜皮葺の建物として日本最大とのこと。

屋根は二重に見えますが、内部は天井の高い平屋になっており、下の屋根は裳階(もこし)という庇です。また、屋根は妻面(山型に見える面)が正面に来る「妻入」です。妻入で裳階付きという建築様式は類例がきわめて少なく、ほかの寺社では見られない独特なシルエットとなっています。

 

正面のシルエットが個性的な善光寺本堂ですが、側面もまた独特な構造をしています。

たいていの寺社建築は、奥行きよりも横幅を広く取って大きく見せようとしますが、この本堂は横幅に対して奥行きが異様なまでに長いです。

 

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(赤の四角は本尊が安置される位置 ※画像はWikipediaより引用)

上の図は、堂内の間取り図になります。

Aは、一般の参拝者が土足で入れる外陣。Bは、僧侶や戒壇巡りをする参拝者が靴を脱いであがる内陣。Cは、この本堂の中枢で、僧侶だけが立ち入りできる内々陣です。

外陣・内陣・内々陣の3区画に分けられた仏堂は、大型の仏堂ではさほどめずらしくないですが、各陣の奥行きをこれほど広く取った堂は類例が見当たりません。

本堂が大型化した理由としては、本来は内陣と内々陣だけだったのが、多くの参拝者を収容するために広い外陣を設けたためです。そして、参拝者がさらに増えると、それにあわせて外陣も大型化し、現在の規模に至ったと考えられます。

 

善光寺の東側にある城山公園から本堂側面を見下ろした図(夏季に撮影したもの)。

後方(写真右)には破風(屋根の妻面)が付いているのが見え、複雑な屋根形状となっていることがわかります。

 

背面。上の写真2枚は冬季の訪問時のもののため、屋根に雪が積もっています。

正面は山型のシルエットの妻入屋根だったのに対し、背面は棟が左右に伸びる平入屋根となっています。

こちら側から見ると、禅宗様建築の「一重、裳階付、入母屋」*4に似たシルエットに見えます。

 

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(善光寺本堂を上空から俯瞰した図*5 撮影年不明)

本堂を上空から見ると、このような形状になっています。

前方は棟が前後に伸びた妻入屋根、後方は棟が左右に伸びた平入屋根で、2つの棟がまじわってT字型の棟を形成しています。この屋根形状は撞木造(しゅもくづくり)と呼ばれます。撞木とは、小さな鐘を叩くときに使う木槌のことです。

撞木造は善光寺に特有の建築様式で、この本堂をのぞくと国宝重文のものは甲斐善光寺(山梨県甲府市)しか例がありません。国宝重文でないものならば、北向観音(上田市)や善光寺東海別院(愛知県稲沢市)がありますが、いずれも善光寺と関連の深い寺院です。

 

なぜこのような建築様式になったのか、この撞木造が成立した年代がいつなのかについては、以下の記事で考察しているため、当記事では割愛いたします。

www.hineriman.work

www.hineriman.work

本堂の概観については以上。

 

本堂の細部

つづいて、本堂の細部意匠の紹介に移ります。

正面(南面)には柱間3間の向拝があります。

 

向拝柱は几帳面取り角柱。

柱の根元は銅板の飾り金具でカバーされ、唐獅子の彫金がついています。

 

向拝柱のあいだにわたされた虹梁は、渦状の絵様が小さく彫られています。

虹梁中備えは蟇股。金網がかかっていて、題材がよく見えません。

 

隅の柱の木鼻。正面は唐獅子、側面は獏。

柱上の組物は連三斗で、獏の頭に巻斗を乗せて持ち送りしています。

 

向拝の中央の柱間。蟇股には竜の彫刻が入っています。

金網でほとんど見えないですが、蟇股の上には虹梁と笈形付き大瓶束が置かれています。

 

正面の軒唐破風。

破風板は黒く塗られ、飾り金具には寺紋があしらわれています。

 

向拝柱(写真左端)と母屋柱(右)のあいだには繋ぎ虹梁がわたされ、その上には笈形付き大瓶束が立てられています。

大瓶束の上は、向拝側はまっすぐな虹梁、母屋側は海老虹梁でつながれています。

 

繋ぎ虹梁の向拝側。

虹梁の下面は、獅子の木鼻で持ち送りされています。

 

反対側。母屋側も持ち送りの木鼻があり、こちらはたてがみの生えた唐獅子です。

大瓶束の上の海老虹梁は、母屋の軒桁の下の位置に取り付いています。

 

向拝の縋破風。

桁隠しには、猪目懸魚がついています。

 

軒裏は、平行の二軒繁垂木。

 

母屋柱はいずれも円柱。

全面の1間通りは裳階の軒下で、母屋ではないため、縁側とひとつづきの空間となっています。

なお、左右や背面の1間通りも裳階の軒下となっていて、下層(裳階の軒下)が正面7間・側面16間であるのに対し、上層(屋根の軒下)は正面5間・側面14間です。

 

母屋柱は円柱。上端はわずかに絞られています。

柱の上部には頭貫と台輪が通り、頭貫には拳鼻。

柱上の組物は出組。

 

飛貫と頭貫のあいだの欄間には、菱形の木組みが入っています。

台輪の上の中備えには蟇股があり、彫刻が入っているのですが、金網がかかっていてよく見えません。

 

外陣の正面の建具は、2つ折れの桟唐戸。

内部は縁側より1段高い板敷きで、土足で進入して参拝することができます。

堂内については、撮影禁止のため割愛。

 

左側面(西面)。

前述のとおり、奥行きが非常に長いです。

柱間は、連子窓が使われています。

 

前方から数えて5間目の柱間には、側面向拝が設けられています。正面と両側面をあわせて、つごう3か所の出入口があります。

訪問時は参拝者の数が少なかったため扉が閉まっていましたが、初詣などの混雑時に正面から外に出るのは困難で、こちらの出入口が役に立ちます。

 

正面向拝が3間だったのに対し、こちらは1間となっています。

虹梁中備えには蟇股。

 

垂れ幕がかかっていて見えませんが、向拝柱は几帳面取り角柱。

向拝正面(写真左)は唐獅子、側面(右)は獏の木鼻。柱上は出三斗。

本堂正面(南面)の向拝を縮小したような造りです。

 

向拝柱と母屋柱のあいだには繋ぎ虹梁がわたされ、笈形付き大瓶束が立てられています。こちらも南面の向拝と似た造り。

写真左端には、向拝柱の上で軒裏を受ける手挟が見え、ここは南面の向拝と異なる箇所です。

 

繋ぎ虹梁の母屋側。

象と思しき獣の彫刻が、繋ぎ虹梁を持ち送りしています。

 

母屋の、向拝がある部分の柱間。

扉の上には梁がわたされ、大瓶束が使われています。

組物のあいだの中備えは間斗束。

 

左側面の後方。

柱間は、連子窓、桟唐戸、横板壁が使われています。

写真中央の桟唐戸と横板壁の柱間が内陣、その後方が内々陣です。

 

母屋の、側面向拝と内陣のあたりの柱間。

窓の上下には長押が打たれ、台輪の上の中備えは間斗束です。

 

後方の内々陣の部分。

写真左から3間目は舞良戸で、僧侶や寺の関係者がここから出入りしていました。

縁側は切目縁が4面にまわされ、欄干は擬宝珠付き。脇障子はありませんが、内陣より奥の縁側は、一般の参拝者は立ち入り禁止です。

 

縁側は切目縁。床板を、母屋を直行する向きに張っています。

縁の下は角柱の縁束。束にささった斗栱で床下の桁を受けています。

 

下層の背面は7間。

柱間は、左右各2間が連子窓、中央の3間が桟唐戸。

階段がありますが、こちらから堂内に出入りすることはできません。

 

背面の軒下。

側面と同様、組物は出組で、中備えは間斗束。

 

余談になりますが、右側面(東面)の向拝は、向かって左の向拝柱がねじれ、柱が礎石から若干ずれています。

この本堂を再建する際、木材の調達に苦労したようで、さらに工期が短かったため、乾燥しきっていない材を使わざるを得ず、施工後に乾燥が進んでねじれてしまったと考えられます。

ほかにも、近くの山林だけではこの本堂に使えるような大材がそろわず、各地からさまざまな樹種の材をかき集めたという話もあります。詳細は割愛しますが、現在の善光寺本堂の再建には、さまざまな困難や障害があったようです。

 

つづいて上層。

正面の入母屋破風は、金色に彩色され、飾り金具がついています。破風板の拝みと桁隠しには、鰭付きの懸魚。

妻飾りは二重虹梁で、笈形付き大瓶束が2つ並んでいるのが見えます。

 

上層正面の軒下。

母屋柱は円柱。上部に頭貫と台輪が通り、頭貫には拳鼻。下層と同じ造りです。

組物は尾垂木二手先。中備えは間斗束。

 

側面および背面の軒下。

正面と同様、組物は尾垂木二手先で、中備えは間斗束です。

軒裏は平行の二軒繁垂木。裳階のついた建物は上層を扇垂木にすることが多いですが、この本堂は上層下層ともに平行垂木です。

 

左側面の入母屋破風。

正面の破風と同様に二重虹梁で、大瓶束が使われています。ただし、こちらの破風は正面よりも小さいためか、大瓶束に笈形がありません。

 

本堂の細部については以上。

その4では、本堂周辺にある鐘楼、忠霊殿などについて述べます。

*1:数値はWikipediaより引用

*2:阿弥陀、薬師、勢至の三尊がひとつの光背を共有した形式の仏像のことを、善光寺式という

*3:絶対秘仏のため創建以来公開されたことがなく、住職であっても本尊を見ることは許されないという。詳細な調査が行われたこともないため、現存最古という伝承が事実かどうかは不明。

*4:円覚寺舎利殿(神奈川県鎌倉市)、正福寺地蔵堂(東京都東村山市)、永保寺観音堂(岐阜県多治見市)などが代表例

*5:小林計一郎 著『善光寺史研究』2000年 信濃毎日新聞社 より引用

【上田市】高仙寺(小泉大日堂)

今回は長野県上田市の高仙寺(こうせんじ)について。

 

高仙寺は市の北端の山中に鎮座する真言宗智山派の寺院です。山号は驚覚山。

創建は寺伝によると806年(大同元年)。坂上田村麻呂が蝦夷征伐の折に当地に堂宇を建立したのがはじまりで、当寺は大日堂の別当として開かれたとのこと。当初の伽藍は“方十二間四面の伽藍及朱門十二坊仁王門”*1の立ち並ぶ大規模なものだったらしいです。室町時代に現在の大日堂が再建され、1548年(天文十七年)に武田氏の侵攻(上田原の戦い)で諸堂を焼失したものの、大日堂は延焼を免れました。

現在の高仙寺の境内伽藍は戦後のものと思われますが、境内の裏手に建つ大日堂は室町時代の造営とされる大規模な堂宇であり、市の文化財に指定されています。

 

現地情報

所在地 〒386-1106長野県上田市小泉2075(地図)
アクセス 西上田駅から徒歩1時間
坂城ICから車で20分
駐車場 20台(無料)
営業時間 随時
入場料 無料
寺務所 なし
公式サイト なし
所要時間 20分程度

 

境内

本堂など

高仙寺の境内は南東向き。境内は丘陵の斜面に立つ集落の最奥部にあります。

山門などはとくにありません。

 

本堂入口の塀。

壁はかまぼこ状に盛られ、屋根は垂木のない化粧屋根裏の切妻。

 

本堂は、入母屋、向拝1間 向唐破風、銅板葺。

本尊は大日如来。

 

向拝の中備えは板蟇股。

唐破風の妻飾りは大瓶束。

破風板の兎毛通には猪目懸魚が下がっています。

 

向拝柱は几帳面取り。正面と側面には象鼻。

柱上の組物は出三斗で、実肘木を使わずに妻虹梁の眉欠きの部分を受けています。

 

向拝と母屋の柱のあいだには、まっすぐな梁が渡されています。中備えには間斗束が立てられ、こちらも実肘木を使っていません。

向拝の軒下には格天井が張られています。

 

母屋前面には、桟唐戸や舞良戸のデザインの引き戸が使われています。

扁額は寺号「高仙寺」。

 

母屋柱は角柱で、柱上は舟肘木。

妻壁には束が立ち、豕扠首のような三角形になっています。

破風板の拝みは猪目懸魚。

 

本堂の手前、参道右手には鐘楼。

入母屋、銅板葺。

 

柱は面取り角柱。頭貫と台輪には禅宗様木鼻。

柱上は出三斗。

 

飛貫虹梁の上の中備えは蟇股。台輪の上の中備えは平三斗。

内部は格天井。

 

参道

本堂の西側には並木の参道が伸び、大日堂へとつづいています。

趣のある並木道がふもとから伸びていて、本来はそちらが表参道なのですが、それとは別に車道や駐車場が整備されているため、表参道で登ってくる人は少数かと思われます。

参道および並木は「高仙寺参道並木」として市指定記念物。参道の全長は350メートル、樹種はスギが主で、樹齢300年程度とのこと。

 

参道右脇にはこのような小屋があり、内部に化石が保存されています。

化石は「小泉のシナノイルカ」として県指定天然記念物。

当地は海からかなり距離のある場所ですが、1000万年前の長野県周辺は海面下にあったようで、長野市や松本市の山中でもクジラの化石が見つかっています。

 

大日堂(小泉大日堂)

境内の最奥部には大日堂が鎮座しています。

桁行5間・梁間5間、宝形、銅板葺。

室町時代中期の造営と考えられています*2。市指定有形文化財。

 

宝形(ピラミッドのような四角錐の屋根形状)の堂として、県内最大規模とのこと。宝形は小規模な開山堂などでよく採用される様式のため、これだけの規模のあるものは国内でもそう多くないと思います。

 

右側面(東面)。

正面側面ともに5間ですが、前方2間は吹き放ちの外陣です。そして左右両側面(脇陣)と背面の1間通りも、外陣とひとつづきの空間となっています。内陣は正面3間・側面2間だけです。

平面構造は中世の密教本堂の典型と言ってよさそうですが、壁や建具が内陣周辺にしかなく、きわめて開放的な造りとなっている点は、密教本堂として特異だと思います。

 

大規模かつ特異な構造をしているため、もし成立の過程や造営年がわかる史料が見つかれば、国指定かそれに準ずる文化財になれるのではないでしょうか。

 

正面は5間。中央の柱間には、大きな鰐口が吊るされています。

前面と側面背面を吹き放ちの外陣としていますが、見かたを変えれば「屋根を大きくして縁側にも柱を立てた」*3とも解釈できるかもしれません。

 

柱は円柱。頭貫には繰型のついた木鼻。

柱上の組物は出三斗と平三斗。中備えは間斗束。

 

正面中央の部分だけ、中備えは特別に蓑束が使われています。

 

外陣内部の柱も円柱。こちらも頭貫木鼻、間斗束があります。

正面側面5間のうち、周囲1間通りは庇というあつかいのようで、その部分は天井がなく化粧屋根裏です。

 

内陣部分の柱間には、縦板壁が張られています。

扁額は「遍照閣」。

頭貫の上の中備えは透かし蟇股。

 

当然ながら内陣にも円柱が使われています。

頭貫に木鼻が付き、中備えに間斗束がある点も同様。

 

背面。こちらは目立った意匠がなく簡素。

 

大日堂の北西の隅の軒下には、回向柱が立てかけられていました。写真中央手前の回向柱には1981年(昭和五十六年)の墨書があります。

当寺の檀家のかたの話によると、御開帳が30年に一度あり、善光寺のように堂の前に回向柱が立てられるとのこと。

 

以上、高仙寺でした。

(訪問日2022/12/02)

*1:案内板(信州小泉大日堂 別当高仙寺の設置)より

*2:案内板(上田市教育委員会の設置)より

*3:長野県内だと盛蓮寺観音堂(大町市)や松尾寺本堂(安曇野市)が代表例

【松本市】宝輪寺

今回は長野県松本市の宝輪寺(ほうりんじ)について。

 

宝輪寺は農地に囲まれた集落に鎮座する高野山真言宗の寺院です。山号は平城山。

創建は不明。寺伝によると、空海が当地を訪れた際に開かれたとのこと。その後は荒廃したらしく、平安後期に今井兼平(今井四郎)が中興したと伝わります。慶長年間(1596-1615)に再興され、江戸後期は僧侶の学問所として隆盛しました。

現在の境内は近現代のもののようで、楼門や本堂など多数の伽藍があります。近隣の今井神社(兼平神社)とともに今井兼平ゆかりの旧跡であり、ボタンの寺としても知られます。

 

現地情報

所在地 〒390-1131長野県松本市今井1333(地図)
アクセス 広丘駅から徒歩1時間
塩尻北ICから車で15分
駐車場 なし
営業時間 随時
入場料 無料
寺務所 あり(要予約)
公式サイト 宝輪寺ホームページ
所要時間 15分程度

 

境内

総門(仁王門)

宝輪寺の境内は西向き。めずらしい方角を向いています。

入口は集落の生活道路に面し、道路から少し奥まった場所に総門があります。

総門は牌楼門、切妻、桟瓦葺。

左右には仁王像が安置されています。

 

中央の通路部分の屋根の軒下。

梁の上から腕木を持ち出し、組物を介して軒桁を受けています。薬医門に近い造り。

腕木の先端には繰型。腕木と腕木のあいだには桁がわたされています。

 

通路中央部分の腕木の上には蟇股。波状の意匠の彫刻が入っています。

 

向かって左側の内部の妻面。

中備えは蟇股。

妻虹梁の上には角柱の束。

内部に天井はなく、化粧屋根裏。軒裏は二軒繁垂木。

 

鐘楼門

総門の先には鐘楼門。参道の左右にはお砂踏みがあります。

鐘楼門は、三間一戸、楼門、入母屋、銅板葺。

 

下層。

左右の柱間には貫が通され、通行できるのは中央のみ。3間のうち1間が通路のため、三間一戸。

 

下層の柱は面取り角柱。頭貫には拳鼻。

柱上の組物は出三斗。通し肘木が使われ、組物が肘木を共有しています。

 

上層。内部には梵鐘が吊るされています。

軒裏は二軒まばら垂木。

 

柱は円柱。軸部の固定には、長押が多用されています。頭貫木鼻はありません。

組物は木鼻のついた出組。桁下には軒支輪。

 

中央の柱間のみ、中備えに蟇股があります。

 

本堂

鐘楼門の先には本堂。

入母屋、向拝1間 向唐破風、銅板葺。

本尊は不動明王。

 

向拝柱は面取り角柱。前面と側面には象鼻。大仏様木鼻とも禅宗様木鼻ともつかない意匠。

柱上の組物は出組。実肘木を介さずに、妻虹梁を受けています。

 

向拝柱のあいだには無地の虹梁がわたされ、中備えは透かし蟇股。古風な意匠の蟇股です。

唐破風の妻飾りは大瓶束、兎毛通は猪目懸魚。

 

向拝部分の造りは、近くにある今井神社の拝殿と酷似しています。

 

向拝と母屋のあいだにはまっすぐな梁がわたされ、中備えは間斗束。

向拝の軒下に天井はありません。軒裏はまばらな茨垂木。

母屋部分に掲げられた扁額は、山号「平城山」。

 

正面の軒下。

母屋柱は円柱。柱間は舞良戸や火灯窓。

母屋の軒裏は二軒繁垂木でした。

 

妻飾りは、笈形付き大瓶束が2つ並べられ、その上に梁と束が置かれています。

破風板の拝みには、若葉状の鰭が付いた蕪懸魚。

 

その他の伽藍

本堂のほかにも、境内の各所にいくつかの伽藍が点在しています。

こちらは参道左手(境内北側)に南面する歓喜院。

入母屋(妻入)、向拝1間、銅板葺。

 

向拝柱は几帳面取り。正面と側面は象鼻。柱上は出三斗。

扁額は「歓喜院」。兀の字を2つ重ねたような、あまり見かけない字体です。

 

本堂のはす向かいには、開山堂(あるいは大師堂?)が東面しています。

入母屋、向拝1間、桟瓦葺。

 

向拝は1間。虹梁中備えは透かし蟇股。

向拝柱は角面取り。正面には唐獅子、側面には象の頭の木鼻。

柱上の組物は連三斗。象の頭の上の巻斗で持ち送りされています。

 

海老虹梁はわずかにカーブした形状。向拝柱の虹梁や木鼻の高さから出て、母屋の頭貫の少し下に取り付いています。

向拝柱の上の手挟は、雲と波の意匠。

 

母屋柱は円柱。軸部は長押と頭貫で固定され、柱上に台輪が通っています。

台輪の上の中備えは蟇股。

 

柱は上端が絞られた粽。

頭貫と台輪には禅宗様木鼻。

組物は出組。持ち出された桁の下には支輪板があり、雲の彫刻が入っています。

 

側面。軒下の意匠は正面とほぼ同じ。

柱間は、正面側面ともに舞良戸。

妻飾りや懸魚はありません。

 

開山堂のとなりには奉安殿。当地(旧今井村)から出征した戦没者を祀った境内社です。

石造の一間社流造。

 

以上、宝輪寺でした。

(訪問日2022/12/07)

【松本市】今井神社(績麻神社・兼平神社)

今回は長野県松本市の今井神社(いまい-)について。

 

今井神社は市南西の上今井地区の集落に鎮座しています。

創建は不明。今井神社は別名を兼平神社(かねひら-)といい、応永年間(1394-1428)に当地の住人が今井兼平*1を祀ったのがはじまりとされます。その後、江戸時代から明治時代にかけて、周辺の神社を合祀して今に至ります。

績麻神社(つうそ-、續麻神社)は今井神社境内の200メートルほど北に鎮座していた神社です。創建や沿革については、1784(天明四年)に火災で社記を消失したため不明。1947年に本殿と神楽殿を現在地へ遷座し、今井神社の一部となっています。

現在の境内は戦後に整備されたもので、伝承によると今井兼平の館の跡地といわれます。社殿は今井神社・績麻神社ともに江戸後期のもので、計4棟で国の登録有形文化財となっています。

 

現地情報

所在地 〒390-1131長野県松本市今井上新田1077(地図)
アクセス 広丘駅から徒歩1時間
塩尻北ICから車で15分
駐車場 なし
営業時間 随時
入場料 無料
社務所 なし
公式サイト なし
所要時間 10分程度

 

境内

神楽殿と拝殿

今井神社の境内は南東向き。入口は集落の生活道路に面しており、伝承によるとこの道は、西洗馬薬師堂(朝日村の光輪寺のこと)へつづく道だったとのこと*2

入口の鳥居は木造の両部鳥居。扁額は「今井神社 績麻神社」。

績麻は「つうそ」と読むようです。長野県民ならば「おみ(麻績)」と読みたくなると思います。

 

奥に見える神楽殿は切妻、桟瓦葺。1853年(嘉永六年)造営。国登録有形文化財。

訪問時は鳥居周辺の改修工事の最中でした。

 

境内は鳥居、神楽殿、拝殿が一直線に並んでいます。

拝殿は、入母屋、向拝1間 向唐破風、銅板葺。

 

向拝は、母屋から唐破風が突き出て庇としています。

向拝の軒裏は、まばらな茨垂木。

破風板の兎毛通には猪目懸魚。

 

向拝柱は角柱。大きめに面取りされています。

正面と側面には象鼻。大仏様木鼻とも禅宗様木鼻ともつかない中間的な造形。

柱上の組物は出三斗。実肘木は使われていません。

 

向拝柱のあいだには貫がわたされ、中備えは透かし蟇股。やや古風な造形。

妻虹梁の上にも蟇股。こちらはさらに古風な人の字型のもの。

 

績麻神社本殿

拝殿の後方には2棟の本殿が鎮座しています。

向かって右が績麻神社本殿。祭神は天棚機姫命(栲幡千千姫命)。

一間社流造、銅板葺。

1859年(安政六年)造営*3。前述の神楽殿と同様に、「續麻・今井(兼平)神社」として国登録有形文化財です*4

 

一間社のため、向拝は1間。

中備えは竜の彫刻。

軒裏は二軒繁垂木で、飛檐垂木(軒先に近いほうの垂木)だけ木口が銅板でカバーされています。

 

向拝柱は几帳面取り角柱。正面には唐獅子、側面には象の木鼻。

柱上の組物は出三斗と連三斗を組み合わせたもの。

海老虹梁は向拝の虹梁の高さから出て、母屋の頭貫の位置に取り付いています。

 

母屋の前面には引き戸。戸板は波状の透かし彫りで、あまり見かけない独特な意匠。

 

母屋柱は円柱。軸部は長押と頭貫で固定。

縁側は3面にまわされ、欄干は擬宝珠付き。背面をふさぐ脇障子の彫刻は、竹林の七賢。

 

柱の上部には頭貫と台輪が通っています。頭貫には拳鼻。

組物は出組。妻虹梁の下の支輪板には、波の彫刻。

妻飾りは笈形付き大瓶束。笈形は渦巻く雲の意匠。

破風板の拝みには、雲状の鰭のついた蕪懸魚。

 

背面。

羽目板や中備えなどの意匠はありません。

 

今井神社本殿(兼平神社本殿)

向かって左は今井神社本殿(兼平神社本殿)。祭神は今井兼平と誉田別命。

一間社流造、正面千鳥破風付、向拝1間 軒唐破風付、銅板葺。

1833年(天保四年)造営*5。前述の績麻神社本殿と同様、国登録有形文化財

 

向拝は1間。

こちらは正面に軒唐破風が付き、屋根の上には千鳥破風があり、績麻神社よりも凝った造り。

虹梁中備えは竜の彫刻。唐破風の兎毛通には菊の彫刻。

軒裏は二軒繁垂木で、飛檐垂木だけ銅板でカバーされているのも績麻神社と同様。

 

向拝柱は几帳面取り角柱。正面には唐獅子、側面には象の木鼻。

組物は、出三斗と連三斗を組み合わせたものを2つ並べて連結しています。

 

海老虹梁には、波に亀の彫刻。母屋側は、頭貫の位置に取り付いています。

向拝柱の組物の上の手挟は、菊の葉の意匠の籠彫り。

 

母屋の正面には、縦格子の扉。これもあまり見かけない意匠。

扉の両脇の羽目板には、雲の彫刻。

 

向拝の下の階段は5段。

階段の下には浜床。

 

母屋柱は円柱。柱間は横板壁。

縁側は3面にまわされ、欄干は擬宝珠付き。背面をふさぐ脇障子の羽目板には竹と老人の彫刻。

 

縁の下は、縁束と腰組。腰組には木鼻がついています。

組物のあいだの羽目板には渦に紅葉の彫刻。ここに彫刻を入れるのはめずらしいと思います。

 

破風板の拝みには雲状の懸魚。

 

妻飾りは二重虹梁となっています。

大虹梁の上には鶴の彫刻。その上には、大きな唐獅子の彫刻が配されています。派手な彫刻を多用した、江戸後期らしい作風です。

 

妻虹梁の下の部分。

軸部は長押と頭貫で固定。頭貫木鼻は波の意匠。

組物は二手先で、一手先だった績麻神社よりも明らかに格上の造り。

中備えや支輪板には、波の彫刻。

 

神明社

2棟の本殿の左には神明社。切妻、鉄板葺。

1780年(安永九年)の造営と考えられます。国登録有形文化財

祭神はとくにいないようです。社名から推察するに当初はアマテラスが祀られていたと思われますが、かつては浅間社(コノハナノサクヤビメ)や疱瘡社も祀られていたとのこと。

神明社のとなりには「兼平塚」なる石。こちらは詳細不明。

 

以上、今井神社でした。

(訪問日2022/12/07)

*1:源義仲(木曽義仲)の筆頭家臣として仕えた武将。粟津の戦いで主君とともに討死した。『平家物語』の「木曽の最期」の段で語られる今井兼平は、忠臣の鑑として名高い。

*2:境内入口の案内板(設置者不明)より

*3:棟札より

*4:2022年10月31日登録

*5:棟札より

【朝日村】五社神社

今回は長野県朝日村の五社神社(ごしゃ-)について。

 

五社神社は村南部の西洗馬地区の山際に鎮座しています。

創建は寛永年間(1624-1644)。当初は諏訪大社下社を勧請した諏訪神社だったようです。1878年に近在の神社が合祀され、そのときに現在の社名になったと思われます。

現在の境内は江戸中期以降のもので、本殿は諏訪の宮大工の作です。また、由緒は不明ですが、社宝に奈良時代のものとされる鉄鐸があるようです。

 

現地情報

所在地 〒390-1101長野県東筑摩郡朝日村西洗馬1704(地図)
アクセス 塩尻北ICまたは塩尻南ICから車で20分
駐車場 なし
営業時間 随時
入場料 無料
社務所 あり(要予約)
公式サイト なし
所要時間 10分程度

 

境内

拝殿

五社神社の境内は東向き。すぐ南に山があるため、境内は昼間でも薄暗いです。

入口の鳥居は木造の明神鳥居。扁額は「五社大明神」。

 

参道左手には手水舎。山の湧水を、竹の樋でひいています。

たしかに手水舎ですが、どちらかというと東屋のような外観。

 

参道右手には神楽殿と思しき社殿。

切妻、鉄板葺。

 

拝殿は、入母屋、向拝1間、銅板葺。

 

拝殿の大棟には5つの紋が描かれています。社名のとおり、5つの神社が合祀されているのでしょう。

紋は左から、橘、上り藤、五三の桐、三つ巴、諏訪梶。

当社の祭神は、金山彦などの南宮明神、天香山命などの弥彦明神、ニニギとのこと。紋や創建の経緯から察するに、タケミナカタ(諏訪明神)も祀られているはずです。あとの1柱は不明。

 

向拝柱は糸面取りで、軒裏まで伸びています。

虹梁に中備えはなく、側面に象鼻が使われています。

母屋柱は角柱。組物はありません。

 

本殿

拝殿の後方の一段高い区画には、塀に囲われた本殿が鎮座しています。

一間社流造、銅板葺。

1745年(延享二年)造営

宮大工の棟梁は諏訪郡柴宮(現 岡谷市東堀)の渡辺元右衛門。岡谷市天竜町の津島社宝殿(1755年頃)や、松本市の神田千鹿頭神社本殿(1715年)を造営した人物。大隅流や立川流といった派閥には属していなかったようです。

 

縁側には随神像が置かれています。

おそらく本来は彩色され玉眼がはめ込まれていたと思われますが、風化によって即身仏のような顔つきになってしまっています。

 

向拝は1間。

虹梁中備えには蟇股。蟇股には植物と思しき彫刻があります。

蟇股の左右の欄間には、唐草と牡丹と思しき花の彫刻が入っています。半分以上が欠損してしまっているのが惜しまれますが、あまり見かけない独創的でおもしろい意匠だと思います。

 

向拝柱は、糸面取りされた角柱。柱上の組物は出三斗。

柱の側面には象鼻が付き、巻斗を介して組物を持ち送りしています。象鼻は大仏様木鼻のような平板な造形ですが、象の目や牙などを表現する線が彫られています。

 

海老虹梁は母屋の手前で急カーブして、頭貫木鼻の上に取り付いています。

母屋柱は円柱。

 

頭貫には木鼻がついています。

組物は出組。

 

反対側、左側面(南面)の妻面。

中備えは蟇股、妻飾りは大瓶束、破風板の拝みには鰭付きの蕪懸魚。

 

中備えの蟇股。はらわたには鹿と思しき獣の彫刻。

正面や右側面にも、彫刻の入った蟇股がありました。

 

背面。

こちらは縁側がありません。中備えは蟇股のかわりに間斗束を置き、簡素化されています。

 

母屋の手前には角材の階段が5段。階段の下には浜床。

縁側は切目縁が3面にまわされ、欄干は擬宝珠付き。背面は脇障子でふさがれています。

 

以上、五社神社でした。

(訪問日2022/12/07)