今回も長野県長野市の善光寺本堂について。
前回(その1)は、善光寺本堂がいかに特異で個性的な建築であるかについて語りました。
今回はその2ということで、間取り図を見ながら建物の外観と照らし合わせたり、類似の構造をもった寺院建築と比較したりしながら、なぜ撞木造という奇妙な建築様式が生まれたのかを考えていきます。
なお、当記事は「撞木造」「裳階」などといったワード(寺社建築用語)を読者の皆様が理解できていることを前提に語って行きますので、できていない方はその1(以下のリンク)をご一読願います。
善光寺本堂は名建築? 迷建築?
建築というものは先人たちの知見の蓄積であり、建築物の意匠(デザイン)はたいてい何かしらの役に立つ合理性・機能性があって採用されているものです。例えば“切妻”が時代や国を問わず採用されているのはシンプルで造りやすい合理的な様式だからですし、“寄棟”は雨の流れを四方に分散させつつ妻側の壁に雨が当たりにくくした機能的なデザインと言えます。
(東側、右側面から見た本堂)
では、善光寺本堂の撞木造はどうでしょう。こんなT字型の屋根がなんの役に立つのでしょう? 少なくとも、私には思いつけません… というか、他の建築物で撞木造が採用されないのは、そもそも合理性も機能性もなく、大して役に立たないデザインだからではないでしょうか?
そうなると、「どうしてこんなデザインにした?!」と設計者や棟梁を問い詰めたくなりますね。現在の善光寺本堂は1707(宝永4)年に、棟梁・甲良宗賀(こうら むねよし)の設計で完成したものです。しかし、彼を問い詰めるのはお門違い。そして、この本堂を迷建築呼ばわりするのも早計です。
part3で述べますが、歴史資料を参照すると、撞木造の起源は江戸期どころか鎌倉期にまでさかのぼることができ、決して思い付きで造られたものではありません。それどころか、往古の信仰形態のなごりを今に留める、貴重な様式でもあることが分かってきます。
撞木造はなぜ生まれたか
第一の手掛かりは間取り図
なぜ撞木造が誕生・成立したのか、その理由ははっきりと判っていません。ですが、間取りや他の寺院建築と比較することで、どのようにして成立したのかを推測することならできます。
撞木造の誕生の秘密を探る最初の手掛かりになるのが、本堂内部の間取りです。内部は外陣(げじん)・内陣(ないじん)・内々陣(ないないじん)の3つの区間に分けられています。
現在の本堂の間取り図と、各区間の概略は以下のとおりです。
(図はWikipediaより引用 赤の四角は本尊が安置されている位置を示す)
- 外陣(土足で入れる。賽銭箱があり、たいていの参拝者はここで礼拝する)
- 内陣(有料で入れる畳敷きの広間。僧侶が読経を行う。戒壇の順番待ちの控え所にもなる)
-
内々陣(本尊や本田善光らの像が安置されている。戒壇巡りはこの床下を通る。床上は内陣から遠目に拝むだけで、参拝者が踏み入ることは原則不可)
そして間取り図と現物を照らし合わせ、本堂右側面(東側)後方のうち、内々陣部分を示したのが下の図になります。
背面側の平入屋根の部分に内々陣が、それ以外(内陣と外陣)は正面側の妻入屋根の部分にあることがお解りいただけるかと思います。
別の言いかたをすると、本尊や戒壇など、善光寺の中枢となるものは平入の部分にあるということです。そして、参拝者のための空間である内陣と外陣は妻入の部分にあります。
これと似た構造の建築を見つけ、その成り立ちを知ることができれば、善光寺本堂の撞木造の成り立ちも見えてくることでしょう。
東大寺三月堂と善光寺本堂の類似性
part1では言及しませんでしたが、実は善光寺本堂と非常によく似た構造を持つ仏堂が存在します。
それは、奈良市の東大寺三月堂です。国宝・東大寺三月堂(とうだいじ さんがつどう)は、正式名称を法華堂(ほっけどう)といいます。ですが、通称の三月堂のほうが通りがいいため、当記事でも通称で呼ぶことにします。
この三月堂の成り立ちを知ることで、善光寺の撞木造の成り立ちもおのずと見えてくるので、当該項目ではまず三月堂についての解説から始めさせて頂きます。
(三月堂の左側面(西面))
三月堂の正面側(写真右のほう)は妻入の入母屋で、参拝者が礼拝するための礼堂。背面側(写真左のほう)は平入の寄棟で、仏像が安置されている正堂になります。正面側は妻入、背面側は平入で、両者が一体化してT字の棟を形作っています。
屋根の様式や素材こそ異なりますが、これは善光寺本堂とそっくりな構造ではないでしょうか?
善光寺はさておき、三月堂の正堂の部分は奈良時代から現存する建物で、礼堂の部分は鎌倉時代(1199年説と1264年説がある)に付加されて現在の形になっています*1。上の写真ではちょっと見づらいですが、正堂と礼堂の屋根がくっつく箇所の軒下には、不要になったはずの雨樋がそのまま残っており、この奇妙な建物の成り立ちを物語っています。
三月堂が現在の形になった理由は、正堂の外で礼拝するために設けた礼堂を、参拝者の便を考えて正堂と一体化したためです。もともと、平安期あたりの寺院の本堂(正堂)は神社本殿のように信仰対象(仏像)を安置するだけで、参拝者は立ち入りできない空間でした。なので庇の下や屋外の露天で礼拝が行われていたわけですが、雨の日に不便なので礼堂が設けられ、鎌倉時代に正堂と一体化して現在に至ります。
一方、善光寺は遅くとも鎌倉末期には三月堂と似た構造の撞木造になっていることが確認でき(part3にて詳述します)、成立した年代も三月堂に近いと思われます。そして、参拝者が内々陣に立ち入れないという点も、三月堂と共通しています。
先述のとおり、善光寺本堂が撞木造になった理由について各種の資料には明記されていません。とはいえ、三月堂はよく似た構造をしていて成立年代も近いと思われるため、同様の理由で現在の形になった可能性が高いです。
よって、善光寺本堂は、当初は背面側の平入の部分(内々陣)だけが存在し、妻入の礼堂が付加されて一体化した結果、撞木造が誕生したのではないでしょうか。そして、本堂は何度か炎上・焼失しますが、そのたびに独特な様式を維持したまま再建され、撞木造の堂々たる姿を現在に留めているのです。
当記事のまとめ
以上に長々と述べた、撞木造の誕生の経緯を要約すると、
- もともと、背面側の平入屋根の部分(内々陣)だけの建物だった
- 参拝者のための礼堂(屋根は妻入)が後付けで加えられ、撞木造が成立
- 以降、何度も炎上・焼失したが、撞木造で再建され続けて現在に至る
撞木造が生まれた経緯については、よく似た構造である東大寺三月堂と同様の経緯とするのが妥当と思われます。
ただし、三月堂は一体化した正堂・礼堂がほぼ当時の姿のままであるのに対し、現在の善光寺本堂は江戸中期の再建によるものなので、撞木造の成立当時の姿を留めているとは限らない点に留意が必要でしょう。
善光寺の代名詞である「撞木造」がなぜ誕生したかについての考察は以上。
その3では、善光寺の火災の歴史や、本堂が描かれた絵巻物を参照しつつ、撞木造がいつ誕生したかについて考えていきます。
(訪問日:2019/09/13)
*1:Wikipedia 東大寺法華堂 2019/09/15閲覧