世をひねる

甲信地方(山梨県と長野県)の寺院・神社建築を語る雑記。

善光寺本堂を徹底解説 part3~歴史資料から「撞木造」の誕生年代に迫る~

今回も長野県の超メジャー観光地ということで、長野市の善光寺について。

 

前回(part2)は、善光寺本堂の撞木造の誕生の経緯を語りました。

今回はpart3ということで、歴史資料に残された再建工事と火災の記録や、絵巻物に描かれた本堂の姿を見つつ、撞木造が誕生した年代がいつなのかについて考えていこうと思います。

今回は歴史資料がメインで建築用語は少なめとなっていますが、「撞木造ってなに?」という方は、最初にpart1(下記リンク)だけでもご一読願います。

www.hineriman.work

 

 

善光寺の再建と焼失

まず絵巻物に描かれた善光寺本堂を見る前に、善光寺の再建の歴史について知っておく必要があります。

part2で述べたように、現在ある本堂は1707年に再建されたものです。しかし、それ以前にも善光寺は幾度となく火災に遭っており、そのたびに再建を繰り返しています。言ってしまえば、善光寺の歴史は火災の歴史でもあるのです。

(善光寺本堂 再建と焼失の歴史*1 )

再建回数

再建年

焼失年
1 不明 1179年
2 1191年 1268年
3 1271年の秋 1313年
4 1314年再建開始 1370年
5 1413年 1425年?
6 1426年 仮堂建立? 1427年
7 1465年 1474年
8 不明 1477年
9 1599年 1615年
10 1624年 仮堂建立 1642年
11 1650,1666年 仮堂建立 1700年
12 1707年 (現存)

 

善光寺本堂の再建と焼失の歴史をまとめたのが上の表になります。ご覧のとおり、資料にあるだけで10回以上も炎上・焼失しています。

なお、この表の“再建回数”は記録にある再建のみをカウントした値なので、実際に再建された回数は12回よりも多いと見て良いです。

また、この表は本堂の焼失だけをまとめたものなので、焼失に至らない程度の出火や、他の堂や門前町の焼失もカウントすると、火災の回数は軽く20・30を超えることでしょう。

善光寺本堂の再建と焼失の年代は、絵巻物を読み解くうえで重要になってくるので、以下の絵巻物は上の表を参照しつつご覧になってください。

 

絵巻物から「いつ撞木造が生まれたか」を考える

まず、いきなり結論から言いますと、撞木造がいつ成立したかは判りません

とはいえ、遅くとも1314年頃(鎌倉中期)にはすでに成立していたと見て間違いないです。そして諸説ありますが、それ以前の本堂は現在と異なる平入の建物だった可能性があります。

結論はともかく、年代推定の根拠となる絵巻物はどれも非常に歴史的・文化的価値の高い資料ですので、それについての考察を語りつつ往時の善光寺の姿を見て行くとしましょう。

 

一遍聖絵(一遍上人絵伝)

善光寺の建築様式について確認できる資料のうち、もっとも古いものが1299年に完成した絵巻「一遍聖絵」(いっぺんひじりえ)です。文は聖戒、絵は円伊という僧侶が作りました。

時宗という宗派を開き、踊念仏を広めた一遍の布教活動を描いた“宗教画”ではありますが、人物や風景や建物を俯瞰的(見下ろした視点)に描いていて、この時代にしては非常に写実的であるのが特徴です。また、一遍の死から10年後、弟子であった聖戒が師の足跡をたどって作ったものなので、当時の仏閣の姿をかなり正確に伝えているとされます。

その一遍聖絵のうち、善光寺の場面を抜粋したのが以下。

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(1271年春の仮堂? ※一遍聖絵より抜粋*2 )

回廊に囲まれた横長(画像では上下方向に長い)の建物が善光寺本堂です。

様式は入母屋ですが、どう見ても平入。正面側と背面側に千鳥破風(ちどりはふ)がついているため、棟がT字ではなく十字になっており、現在とは似ても似つかない姿です。

正面7間・側面4間?で、向拝3間。正面と向拝はいちおう現在の本堂と一致しているっぽいです。裳階はついておらず、屋根は一重です。

なお、この絵の成立は1299年なので、描かれた本堂は1271年の秋に完成したものと考えるのが順当です。しかし、ここに描かれているのは1271年の春に一遍が訪れた場面であるとされており、訪問時と完成時とで季節が矛盾します。 

 

この矛盾について小林計一郎氏は“当時本堂は普請中だった”、“これは仮堂であろう”と述べています*3。この説を採用するなら、季節についての矛盾はみごとに解消できます。

しかし、私としてはこの絵図をもって「鎌倉中期の善光寺本堂は撞木造ではなかった!」と断言したかったので、氏の意見を素直に採用したくはないのが本音です。

 

一遍上人絵詞伝(遊行上人縁起伝)

善光寺の絵図のうち、2番目に古いとされるのが1304-1307成立とされる絵巻「一遍上人絵詞伝」(いっぺんしょうにんえしでん)です。こちらは前半が一遍、後半は一遍の死後にその遺志を継いだ他阿の活動が描かれています。製作者は他阿の弟子である宗俊。

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(1271年秋完成の本堂 ※一遍上人絵詞伝より抜粋*4 )

左端に描かれているのが本堂です。画像右端には、前述の一遍聖絵にも描かれている五重塔が確認できます。

こちらの絵図に見られる本堂は前後(画像では左右方向)に長く、妻入の建物と思われます。また、現在の裳階のついた本堂のように、屋根が二重である様子も確認できます。一遍聖絵とは建築様式がまったくちがっています。

この絵は他阿が1298年に善光寺を訪れた場面で、描かれている本堂は1271年秋に完成したものでしょう。

 

とはいえ、この絵図では建物の後方が見切れており、肝心の「撞木造」か否かを確認できません。それに、本堂と五重塔を隔てる塀が、こちらには描かれていない点も気になります。

もしこの絵図の本堂が撞木造でないと判ったなら、撞木造の成立は後述の1313年と断定できたのですが…

 

本證寺 善光寺如来絵伝

完全な撞木造が確認できる資料としてもっとも古いと思われるのが、愛知県安城市の本證寺(ほんしょうじ)が所蔵する「善光寺如来絵伝」で、鎌倉末期から南北朝時代の成立と考えられています。

鎌倉幕府の滅亡が1333年、南北朝時代の終焉が1392年。この期間の善光寺の罹災を調べてみると、1370年に本堂が全焼していて1386年あたりに境内が復興されたらしいです。ここから判断するに、この絵図に描かれた本堂は1370年に焼失する前の本堂、つまり1313年に焼失したあとのもの(1314年再建開始)の可能性が高いです。

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(1314年再建開始のものと思われる本堂 ※本證寺 善光寺如来絵伝より抜粋*5 )

正面は妻入、背面は平入になった入母屋で、裳階が付いた2層の屋根。これは明らかに「撞木造」です

奥行きが今ほど長くなかったり、正面の唐破風が無かったり、左右側面に向拝(階段を覆う庇)がついていない点に差異が認められますが、現在の本堂と非常に似た様式が確認できます。また、前述の一遍聖絵と較べてみても、本堂の周囲を囲う回廊が一致しています。

 

なので、この絵図が描かれたとされる鎌倉末期にはすでに撞木造が成立していたと断定して良いでしょう。とはいえ、具体的な成立年代がいつなのかという問題は、やはり謎のままです。

これ以降も善光寺本堂は数々の絵図に描かれるのですが、いずれも多少の差異こそあれ、この絵図や現在の本堂とほぼ同じ撞木造の姿で描かれています。

 

当記事のまとめ

再度結論を言うと、撞木造が成立したのが具体的にいつなのかは判然としません。ですが、

  • 1314年再建開始で造られた本堂が撞木造だったことはほぼ確実(本證寺 善光寺如来絵伝より) 

  • 1271年春の本堂(仮堂の可能性もあり)は撞木造でない形をしていた(一遍上人絵伝より)

上記の2点は、歴史資料の絵図の正確性を信用するならば間違いないといえるでしょう。

 

善光寺の代名詞である「撞木造」についての考察は以上。

これにて全3記事にわたる善光寺本堂の建築様式についての解説は終わりといたします。長くて読みづらい記事でしたが、ここまでご覧頂き有難うございました。

*1:小林計一郎 著『善光寺史研究』2000年 信濃毎日新聞社 より複製

*2:*1 より引用

*3:*1 より引用

*4:e国宝 一遍上人絵伝(遊行上人伝絵巻) 2019/09/16閲覧

*5:*1 より引用