今回は長野県朝日村の光輪寺(こうりんじ)について。
光輪寺は西洗馬地区の山際に鎮座する高野山真言宗の寺院です。山号は青壺山。
創建は不明。寺伝によると、奈良時代に行基により開かれ、平安末期には源義仲(木曽義仲)が当寺を中興し戦勝祈願をしたとのこと。鎌倉以降は当地の地頭の三村氏の祈願所として、江戸時代は高遠藩の飛び地となり、歴代の領主から崇敬されました。
現在の境内の主要部は、近現代のものと思われます。本堂から少し離れた場所には、大規模な茅葺屋根の薬師堂が建ち、長野県宝に指定されています。また、本尊の薬師如来像と脇侍をはじめ、多くの寺宝を所有しています。
現地情報
所在地 | 〒390-1101長野県東筑摩郡朝日村西洗馬796(地図) |
アクセス | 塩尻北ICまたは塩尻南ICから車で20分 |
駐車場 | 20台 |
営業時間 | 随時 |
入場料 | 無料 |
寺務所 | なし |
公式サイト | なし |
所要時間 | 15分程度 |
境内
本堂
光輪寺の境内は東向き。境内は、集落から少しはずれた農地の一画にあります。
本堂は、寄棟、銅板葺。
本堂の手前の門は、冠木門と高麗門の中間的な形状のもの。
扁額は「光輪寺」。
本堂の前面。
柱は角柱。柱間は板戸と障子戸。組物はありません。
仁王門
本堂から南東へ数十メートルほど農道を歩くと、境内の飛び地のような場所に薬師堂が鎮座しています。こちらは薬師堂の手前にある仁王門。
三間一戸、八脚門、切妻、桟瓦葺。
柱は角柱、組物は使われていません。
内部に天井はなく、化粧屋根裏。軒裏は一重まばら垂木。
通路の両脇には仁王像が安置されています。
頭が大きく丸顔で、仁王にしては柔和な印象。
仁王門と薬師堂は、中心軸の位置と角度がずれています。そのため、仁王門の下から薬師堂を見ると、このような斜めのアングルになります。
薬師堂
薬師堂は、桁行5間・梁間4間、入母屋、向拝1間、茅葺。
1760年(宝暦十年)造営*1。棟梁は宮越(木曽町)の中村伝左衛門藤原季利。
長野県宝*2に指定されています。
本尊の薬師如来像は鎌倉末期から室町初期のものとされ、村指定文化財。脇侍の日光・月光菩薩像は1324年(元亨三年)の作で、長野県宝。
向拝は1間。
母屋は、前方の2間通りが吹き放ちの外陣となっています。
向拝柱は面取り角柱。江戸中期のもののため、面取りの幅はあまり大きくありません。柱の礎石は、直方体のエッジを丸めただけの簡素な意匠。
階段は、蹴込板と蹴上板を組み合わせたもの。
向拝柱の上部。正面には唐獅子、側面には獏の木鼻。
柱上の組物は連三斗。
虹梁には唐草状の絵様が彫られています。
中備えは竜の彫刻。
海老虹梁には菊唐草の絵様が彫られています。向拝側は虹梁の位置から出て、母屋側は頭貫の位置に取り付いています。
向拝柱の上の手挟。渦状の波の中に、鯉乗り仙人らしき人物像が見えます。
母屋の正面は5間。
左右の各2間は鴨居の位置に長押が打たれ、中央の1間は長押が省略されています。
母屋柱は円柱。長押が打たれ、上部に頭貫と台輪が通っています。
頭貫と台輪には禅宗様木鼻。
母屋柱は上端が絞られた粽柱。
組物は木鼻のついた出組。
台輪の上の中備えには、唐獅子や邪鬼(あるいは力神?)の彫刻が配されています。
桁下の台輪には、波の彫刻。
正面中央の鰐口がかかっている柱間は、頭貫と台輪が湾曲し、その下に笈形付き大瓶束が置かれています。あまり見かけない、個性的な意匠です。
側面は4間。
後方の2間通りは縦板壁が張られ、内陣となっています。
右側面の内陣部分。
こちらの中備えは、竹に虎。
左側面の内陣部分。
反対側は彫刻が入っていましたが、こちらは蟇股で、左右で統一感がありません。とはいえ、この蟇股も良い造形だと思います。
背面は5間。柱間は縦板壁。
中備えは、彫刻の代わりに間斗束が置かれ、簡略化されています。桁下の支輪も、やや簡素な菊唐草の線彫りとなっています。
軒裏は平行の二軒繁垂木。
軒先には分厚い茅が乗っています。
縁側は、切目縁が4面にまわされています。欄干は擬宝珠付き。
土台が沈下してきているのか、縁側の先が垂れてしまっています。
入母屋破風の拝みには、鰭付きの蕪懸魚。桁隠しの懸魚は、波の意匠。
妻飾りは笈形付き大瓶束。
つづいて内部。
外陣には鏡天井が張られています。
柱をとばしてスパンの大きい梁をわたし、梁の上に大瓶束を立てることで、内部空間の広さと強度の確保を両立しています。
内陣の正面中央の扁額は「瑠璃殿」。
内陣正面の欄間には彫刻が入っています。
題材は、梅や水仙などの花。
薬師堂周辺
薬師堂向かって左奥には石碑群。
薬師の右手には「朝日将軍木曽義仲公手植桜」。
木曽で挙兵した源義仲(木曽義仲)が、平家討伐のために北陸方面へ向かう途中に当寺で先勝祈願をし、その際に植えた木と伝わります。
当初の木は周囲8.4メートルの大木だったようですが、1901年に枯死してしまったとのこと。現在の木は「〇〇公お手植え」のご多分にもれず、当初のものではなく2代目のようです。
以上、光輪寺でした。
(訪問日2022/12/07)