今回も長野県長野市の善光寺について。
その2では山門と経蔵について述べました。
当記事では国宝の本堂について述べます。
本堂の概観
山門をくぐって境内の中心部へ行くと、圧倒的な貫禄と風格を漂わせる本堂が鎮座しています。
梁間5間・桁行14間、一重、裳階付、撞木造、正面向拝3間 軒唐破風付、両側面向拝1間、総檜皮葺。
正面24m、側面54m、棟高26m*1。
1707年(宝永四年)再建。国宝。
棟梁は、江戸幕府作事方の3代目大棟梁・甲良宗賀。
本尊は絶対秘仏の善光寺式阿弥陀三尊像*2。寺伝によると、国内では現存最古の仏像とされます*3。
県内に6件ある国宝建造物のひとつで、松本城とともに長野県を象徴する名建築です。国宝重文の建造物の中でも十指に入るほど大規模なもので、檜皮葺の建物として日本最大とのこと。
屋根は二重に見えますが、内部は天井の高い平屋になっており、下の屋根は裳階(もこし)という庇です。また、屋根は妻面(山型に見える面)が正面に来る「妻入」です。妻入で裳階付きという建築様式は類例がきわめて少なく、ほかの寺社では見られない独特なシルエットとなっています。
正面のシルエットが個性的な善光寺本堂ですが、側面もまた独特な構造をしています。
たいていの寺社建築は、奥行きよりも横幅を広く取って大きく見せようとしますが、この本堂は横幅に対して奥行きが異様なまでに長いです。
(赤の四角は本尊が安置される位置 ※画像はWikipediaより引用)
上の図は、堂内の間取り図になります。
Aは、一般の参拝者が土足で入れる外陣。Bは、僧侶や戒壇巡りをする参拝者が靴を脱いであがる内陣。Cは、この本堂の中枢で、僧侶だけが立ち入りできる内々陣です。
外陣・内陣・内々陣の3区画に分けられた仏堂は、大型の仏堂ではさほどめずらしくないですが、各陣の奥行きをこれほど広く取った堂は類例が見当たりません。
本堂が大型化した理由としては、本来は内陣と内々陣だけだったのが、多くの参拝者を収容するために広い外陣を設けたためです。そして、参拝者がさらに増えると、それにあわせて外陣も大型化し、現在の規模に至ったと考えられます。
善光寺の東側にある城山公園から本堂側面を見下ろした図(夏季に撮影したもの)。
後方(写真右)には破風(屋根の妻面)が付いているのが見え、複雑な屋根形状となっていることがわかります。
背面。上の写真2枚は冬季の訪問時のもののため、屋根に雪が積もっています。
正面は山型のシルエットの妻入屋根だったのに対し、背面は棟が左右に伸びる平入屋根となっています。
こちら側から見ると、禅宗様建築の「一重、裳階付、入母屋」*4に似たシルエットに見えます。
(善光寺本堂を上空から俯瞰した図*5 撮影年不明)
本堂を上空から見ると、このような形状になっています。
前方は棟が前後に伸びた妻入屋根、後方は棟が左右に伸びた平入屋根で、2つの棟がまじわってT字型の棟を形成しています。この屋根形状は撞木造(しゅもくづくり)と呼ばれます。撞木とは、小さな鐘を叩くときに使う木槌のことです。
撞木造は善光寺に特有の建築様式で、この本堂をのぞくと国宝重文のものは甲斐善光寺(山梨県甲府市)しか例がありません。国宝重文でないものならば、北向観音(上田市)や善光寺東海別院(愛知県稲沢市)がありますが、いずれも善光寺と関連の深い寺院です。
なぜこのような建築様式になったのか、この撞木造が成立した年代がいつなのかについては、以下の記事で考察しているため、当記事では割愛いたします。
本堂の概観については以上。
本堂の細部
つづいて、本堂の細部意匠の紹介に移ります。
正面(南面)には柱間3間の向拝があります。
向拝柱は几帳面取り角柱。
柱の根元は銅板の飾り金具でカバーされ、唐獅子の彫金がついています。
向拝柱のあいだにわたされた虹梁は、渦状の絵様が小さく彫られています。
虹梁中備えは蟇股。金網がかかっていて、題材がよく見えません。
隅の柱の木鼻。正面は唐獅子、側面は獏。
柱上の組物は連三斗で、獏の頭に巻斗を乗せて持ち送りしています。
向拝の中央の柱間。蟇股には竜の彫刻が入っています。
金網でほとんど見えないですが、蟇股の上には虹梁と笈形付き大瓶束が置かれています。
正面の軒唐破風。
破風板は黒く塗られ、飾り金具には寺紋があしらわれています。
向拝柱(写真左端)と母屋柱(右)のあいだには繋ぎ虹梁がわたされ、その上には笈形付き大瓶束が立てられています。
大瓶束の上は、向拝側はまっすぐな虹梁、母屋側は海老虹梁でつながれています。
繋ぎ虹梁の向拝側。
虹梁の下面は、獅子の木鼻で持ち送りされています。
反対側。母屋側も持ち送りの木鼻があり、こちらはたてがみの生えた唐獅子です。
大瓶束の上の海老虹梁は、母屋の軒桁の下の位置に取り付いています。
向拝の縋破風。
桁隠しには、猪目懸魚がついています。
軒裏は、平行の二軒繁垂木。
母屋柱はいずれも円柱。
全面の1間通りは裳階の軒下で、母屋ではないため、縁側とひとつづきの空間となっています。
なお、左右や背面の1間通りも裳階の軒下となっていて、下層(裳階の軒下)が正面7間・側面16間であるのに対し、上層(屋根の軒下)は正面5間・側面14間です。
母屋柱は円柱。上端はわずかに絞られています。
柱の上部には頭貫と台輪が通り、頭貫には拳鼻。
柱上の組物は出組。
飛貫と頭貫のあいだの欄間には、菱形の木組みが入っています。
台輪の上の中備えには蟇股があり、彫刻が入っているのですが、金網がかかっていてよく見えません。
外陣の正面の建具は、2つ折れの桟唐戸。
内部は縁側より1段高い板敷きで、土足で進入して参拝することができます。
堂内については、撮影禁止のため割愛。
左側面(西面)。
前述のとおり、奥行きが非常に長いです。
柱間は、連子窓が使われています。
前方から数えて5間目の柱間には、側面向拝が設けられています。正面と両側面をあわせて、つごう3か所の出入口があります。
訪問時は参拝者の数が少なかったため扉が閉まっていましたが、初詣などの混雑時に正面から外に出るのは困難で、こちらの出入口が役に立ちます。
正面向拝が3間だったのに対し、こちらは1間となっています。
虹梁中備えには蟇股。
垂れ幕がかかっていて見えませんが、向拝柱は几帳面取り角柱。
向拝正面(写真左)は唐獅子、側面(右)は獏の木鼻。柱上は出三斗。
本堂正面(南面)の向拝を縮小したような造りです。
向拝柱と母屋柱のあいだには繋ぎ虹梁がわたされ、笈形付き大瓶束が立てられています。こちらも南面の向拝と似た造り。
写真左端には、向拝柱の上で軒裏を受ける手挟が見え、ここは南面の向拝と異なる箇所です。
繋ぎ虹梁の母屋側。
象と思しき獣の彫刻が、繋ぎ虹梁を持ち送りしています。
母屋の、向拝がある部分の柱間。
扉の上には梁がわたされ、大瓶束が使われています。
組物のあいだの中備えは間斗束。
左側面の後方。
柱間は、連子窓、桟唐戸、横板壁が使われています。
写真中央の桟唐戸と横板壁の柱間が内陣、その後方が内々陣です。
母屋の、側面向拝と内陣のあたりの柱間。
窓の上下には長押が打たれ、台輪の上の中備えは間斗束です。
後方の内々陣の部分。
写真左から3間目は舞良戸で、僧侶や寺の関係者がここから出入りしていました。
縁側は切目縁が4面にまわされ、欄干は擬宝珠付き。脇障子はありませんが、内陣より奥の縁側は、一般の参拝者は立ち入り禁止です。
縁側は切目縁。床板を、母屋を直行する向きに張っています。
縁の下は角柱の縁束。束にささった斗栱で床下の桁を受けています。
下層の背面は7間。
柱間は、左右各2間が連子窓、中央の3間が桟唐戸。
階段がありますが、こちらから堂内に出入りすることはできません。
背面の軒下。
側面と同様、組物は出組で、中備えは間斗束。
余談になりますが、右側面(東面)の向拝は、向かって左の向拝柱がねじれ、柱が礎石から若干ずれています。
この本堂を再建する際、木材の調達に苦労したようで、さらに工期が短かったため、乾燥しきっていない材を使わざるを得ず、施工後に乾燥が進んでねじれてしまったと考えられます。
ほかにも、近くの山林だけではこの本堂に使えるような大材がそろわず、各地からさまざまな樹種の材をかき集めたという話もあります。詳細は割愛しますが、現在の善光寺本堂の再建には、さまざまな困難や障害があったようです。
つづいて上層。
正面の入母屋破風は、金色に彩色され、飾り金具がついています。破風板の拝みと桁隠しには、鰭付きの懸魚。
妻飾りは二重虹梁で、笈形付き大瓶束が2つ並んでいるのが見えます。
上層正面の軒下。
母屋柱は円柱。上部に頭貫と台輪が通り、頭貫には拳鼻。下層と同じ造りです。
組物は尾垂木二手先。中備えは間斗束。
側面および背面の軒下。
正面と同様、組物は尾垂木二手先で、中備えは間斗束です。
軒裏は平行の二軒繁垂木。裳階のついた建物は上層を扇垂木にすることが多いですが、この本堂は上層下層ともに平行垂木です。
左側面の入母屋破風。
正面の破風と同様に二重虹梁で、大瓶束が使われています。ただし、こちらの破風は正面よりも小さいためか、大瓶束に笈形がありません。
本堂の細部については以上。