甲信寺社宝鑑

甲信地方の寺院・神社建築を語る雑記。

【大町市】若一王子神社 後編(本殿)

今回も長野県大町市の若一王子神社について。

 

前編では三重塔と観音堂について述べました。

当記事では本殿などについて述べます。

 

拝殿

参道の先、境内中心部には拝殿があります。

切妻造、向拝3間、銅板葺。

 

中央の柱間。

虹梁は眉欠きだけが彫られた無地のもの。

中備えは透かし蟇股。

 

向拝柱は几帳面取り角柱。

虹梁の位置には、繰型と渦状の彫りのついた木鼻があります。

柱上は大斗と舟肘木。

 

向拝柱と母屋柱とのあいだには海老虹梁がわたされています。

 

母屋は、正面3間、側面2間。正面に向拝がついていて、流造の神社本殿のような構造です。

柱間の建具は、正面は桟唐戸、側面はガラスのついた格子窓。

縁側は切目縁が4面にまわされ、欄干は跳高欄。

 

母屋柱は円柱、柱間の束は角柱が使われています。母屋柱の上の組物は、大斗と舟肘木。束は梁を直接受けています。

妻飾りは豕扠首。破風板の拝みには猪目懸魚。

 

本殿

拝殿の後方には、塀に囲われた本殿が鎮座しています。祭神は若一王子、イザナミなどの5柱。

本殿は、一間社隅木入り春日造、檜皮葺。

1556年(弘治二年)造営*1国指定重要文化財

 

室町末期に仁科盛康*2の寄進で造営されたものですが、1654年の改修で大幅に改変されているようです。案内板*3によると“その際に江戸時代の作風が多分に取り込まれ”たようで、この本殿は江戸前期の建築として見るべきかと思います。

改修を行った工匠は金原周防で、仁科神明宮の式年造替(20年ごとの新築)を代々継承した宮大工の名跡です。この本殿の改修は4代目の定兼によるもので、定兼は現在ある仁科神明宮本殿の造営も手がけています。

 

母屋柱(写真中央右)の組物の上から軒先の隅に向けて、斜め方向に隅木が伸びていて、正面側は入母屋に似た軒まわりになっています。このような形式の春日造を隅木入り春日造(すみきいりかすがづくり)といいます。

長野県内には春日造の本殿が何棟かあります*4が、いずれも隅木入り春日造です。なお、隅木入りでない純粋な春日造は、奈良県の近辺をのぞくとほぼ例がありません。

 

向拝は1間。

向拝柱と母屋柱とのあいだには海老虹梁。海老虹梁の母屋側は、頭貫の下に取りついています。

 

向拝柱は大面取り角柱。面取りの幅が大きめのため、この材は室町末期のものかと思います。正面と側面には木鼻がついています。

柱上の組物は、出三斗をベースとして二手先に持ち出した複雑な形状。

 

反対側(西面)。

組物の上には桁が通っていますが、桁が3本も使われています。通常、この部分に桁は1本だけしか使われません。

向拝の組物の上に桁を3本通すのは、長野県の室町時代の神社本殿に特有の技法のようです。類例として、松本市の筑摩神社本殿と大宮熱田神社本殿、佐久市の八幡神社高良社本殿があります。

 

母屋は正面側面ともに3間。正面は板戸、側面は横板壁。

縁側はくれ縁が3面にまわされ、欄干は擬宝珠付き。欄干の横木のあいだには、巻斗や出三斗のような部材が入っていて、非常に個性的。

 

母屋柱は円柱。柱間には長押が打たれ、長押の釘隠しは三階菱の意匠となっています。三階菱は小笠原氏の家紋です。

頭貫には若葉状の木鼻。正面(写真左)についた木鼻は、虹梁をよけるため形状が少し変えられています。

柱上の組物は出三斗。基部の大斗が大ぶりに作られており、独特なバランス。

頭貫の上の中備えは蟇股で、植物の彫刻が入っています。

 

背面および左側面。

背面に縁側はなく、縁側の側面後方は欄干の横木を母屋までのばすことでふさいでいます。脇障子は使われていません。

 

背面は頭貫のかわりに虹梁がわたされています。虹梁は眉欠きと袖切だけが彫られたもの。中備えは蟇股で、唐草の彫刻が入っています。

妻飾りは虹梁大瓶束。妻虹梁も、眉欠きと袖切だけのものです。

破風板は幅が太く、黒く塗りつぶされています。拝みには蕪懸魚、桁隠しには蕪懸魚が使われています。

 

大棟の正面側と背面側。

大棟は箱棟になっており、鬼板の位置に鬼面が掲げられています。鬼面は長野県から山梨県にかけての神社本殿でしばしば見られる意匠です。

箱棟の側面には、三つ巴と沢潟の紋があります。

 

鬼面や3本の桁、独特な欄干など、この本殿は地域性や独自色が非常に濃く出た造りをしており、野趣にあふれる独創的な本殿といえます。

 

境内社

拝殿向かって左側(境内西側)には境内社が並立しています。こちらは拝殿のとなりにある八坂神社。

切妻造、銅板葺。

内部には宮殿として神輿が安置されています。神輿は市指定有形文化財で、当社の社殿を造営した金原家の一門による作と推定されています。

 

八坂神社向かって左にも境内社があります。

社殿はいずれも流造。屋根は銅板葺または鉄板葺。

 

八坂神社の南西には大町護国神社が西面しています。こちらは拝殿。

拝殿は、切妻造、向拝1間、銅板葺。

 

拝殿の裏手には、両下造の幣殿と流造の本殿があります。当地の戦没者や公務殉職者を祀ったものと思われます。

本殿は、一間社流造、銅板葺。

大棟には外削ぎの千木と3本の鰹木。ほか、木鼻、海老虹梁、手挟、豕扠首、蕪懸魚などの意匠があります。

 

大町護国神社拝殿の右側には名称不明の境内社。

一間社流造、銅板葺。

柱はいずれも角柱。向拝に虹梁はなく、組物も簡素で目だった意匠はありません。

 

以上、若一王子神社でした。

(訪問日2025/04/05)

*1:棟札より

*2:生没年不明。小笠原長時とともに武田信玄の信濃侵攻に抵抗したが、のちに武田氏に仕えた。

*3:1999年、大町市教育委員会による設置

*4:重文は当社のほか3例があり、長野市の葛山落合神社本殿、飯山市の白山神社本殿と健御名方富命彦神別神社末社若宮八幡神社本殿がある