甲信寺社宝鑑

甲信地方の寺院・神社建築を語る雑記。

【甲府市】東光寺

今回は山梨県甲府市の東光寺(とうこうじ)について。

 

東光寺は市東部の住宅地に鎮座する臨済宗妙心寺派の寺院です。山号は法蓋山。

創建は不明。寺記によると1121年(保安二年)に源義光が開いた興国院という密教寺院が当寺の前身とのこと。その後、興国院は荒廃しましたが、1262年(弘長二年)に蘭渓道隆によって禅寺として再興され、寺号も東光寺と改められました。鎌倉時代は北条氏の崇敬を受けました。室町後期には武田信玄によって甲府五山の一寺として中興され、現在の山号に改められました。1582年の甲州征伐では織田氏の攻撃を受け、伽藍や寺記を焼失しています。江戸時代は幕府や甲府藩の崇敬を受け、寺領を安堵されています。明治時代には寺領のほとんどを失い、1945年の甲府空襲で本堂などの伽藍を焼失しました。

現在の境内伽藍の主要部は戦後に整備されたものですが、仏殿については室町後期の武田氏の時代のものが戦災をまぬかれて現存しています。仏殿は二層構造の禅宗様建築で、国の重要文化財に指定されています。ほか、境内北側には武田義信と諏訪頼重の墓所があります。

 

現地情報

所在地 〒400-0807山梨県甲府市東光寺3-7-37(地図)
アクセス 酒折駅または身延線善光寺駅から徒歩20分
甲府昭和ICから車で20分
駐車場 10台(無料)
営業時間 随時
入場料 無料
社務所 あり(要予約)
公式サイト なし
所要時間 20分程度

 

境内

山門

東光寺入口

東光寺の境内は南向き。境内入口は住宅地の生活道路に面していて、周辺にはブドウ畑が広がっています。

寺号標は「法蓋山 東光禅寺」。

 

山門は境内入口から数十メートルほど奥まった位置にあります。

一間一戸、四脚門、切妻、桟瓦葺。

門の中央には地蔵が置かれていますが、通行可能です。

 

棟は箱棟となっています。箱棟の壁面には武田菱。

 

正面向かって左の控柱。

控柱は上端が絞られた円柱で、手前と外側と内側に木鼻がついています。

柱上の組物は、連三斗を左右対称にして斗を5つ並べた構成のもの。通肘木を介して軒桁を受けています。

内部の扁額は山号「灋蓋山」。灋は法の旧字。蓋の字体も独特で、一見しただけでは釜や益の字と見まちがえてしまいそうです。

 

左側面(西面)の主柱と妻壁を外側から見た図。

主柱も円柱が使われていますが、こちらは上端が絞られていません。外側には大きな木鼻がついています。主柱の上の組物は、木鼻のついた平三斗。

妻虹梁の上には笈形付き大瓶束。

 

内部の通路上にわたされた梁を、後方から見た図。

冠木(写真下の横木)の上の中備えは平三斗。その上にも虹梁がわたされ、蟇股を置いて軒桁を受けています。蟇股には波の彫刻。

 

背面。

ほぼ前後対称の構造で、正面と同様に、左右の控柱をつなぐ梁や貫がありません。

左右には袖塀がつながっています。

 

本堂などの伽藍

仏殿の前に、本堂周辺の伽藍を紹介。

こちらは通用門(総門?)で、薬医門、切妻、桟瓦葺。

軒裏は、二軒まばら垂木となっています。破風板には懸魚が下がっています。

 

内部向かって左側(西側)。写真左が正面方向です。

主柱の前後に肘木を出し、その上の梁を支えています。梁の上の板蟇股には武田菱が彫られています。

現状は扉のない門となっていますが、柱の近くの梁(写真左)には藁座(扉の軸受け)があり、おそらく当初は扉があったものと思われます。

 

通用門向かって左には鐘楼。

入母屋、桟瓦葺。

 

柱は大面取り角柱。近現代の再建と思われますが、古風な面取りです。

柱間は頭貫でつながれ、禅宗様木鼻がついています。柱上の組物は出三斗、頭貫の中備えは間斗束で、通肘木を共有して軒桁を受けています。

 

破風板の拝みには蕪懸魚。

妻壁は暗くてよく見えませんが、縦板壁が張られています。

 

境内の中心部には本堂。戦後の再建です。

RC造。入母屋、桟瓦葺。

中央には引き戸が設けられ、その上には蟇股のような意匠と武田菱が配されています。左右の窓は引き違いのガラス窓ですが、火灯状曲線のアーチがついていて、禅宗風の意匠です。

 

仏殿

本堂の手前には、仏殿が南面しています。別名は薬師堂。

塀に囲われていますが、通用門や本堂のほうからまわりこむことで塀の内側から観察できます。

 

桁行3間・梁間3間、一重、裳階付、入母屋、檜皮葺。

造営年は不明ですが室町後期の建築とされ、武田氏によって造られたものと考えられます。裳階部分は江戸初期の修理で改変されています*1

国指定重要文化財

 

「一重、裳階付、入母屋」は禅宗様建築の定番で、同様式の遺構は円覚寺舎利殿(鎌倉市)をはじめ全国に多数点在しています。県内では清白寺仏殿(山梨市)と最恩寺仏殿(南部町)があり*2、いずれも室町時代の貴重な遺構です。

 

仏殿正面

仏殿軒裏

正面の軒下。

屋根は二層ありますが、内部は単層の平屋です。下の屋根は厳密には屋根ではなく、裳階(もこし)という庇です。建物の全周に庇を設けたことで二層構造の外観となっており、このような庇のことを裳階と呼びます。

下層(裳階)を支える柱が角柱であるのに対し、上層(母屋)の柱は円柱が使われています。

軒裏は上層下層ともにまばら垂木で、意匠が簡略化されています。典型的な禅宗様建築では、軒裏を繁垂木として上層のみ扇垂木とします。

 

上層の軒下の詳細。

上層の柱は上端が絞られ(粽という)、頭貫と台輪に禅宗様木鼻がついています。

柱上の組物は出組。組物は本来なら柱の真上に置きますが、下に柱のない位置にも組物が配置されています(詰組)。

粽、木鼻、詰組はいずれも禅宗様の意匠です。

 

仏殿側面

下層左側面(西面)。

下層側面は5間で、前方の1間は桟唐戸、ほかの4間は縦板壁です。桟唐戸と縦板壁も禅宗様の意匠です。

 

右側面(東面)の全体図。

大棟は箱棟となっており、案内板によると安山岩製とのこと。鬼板には武田菱。

破風板の拝みに下がる懸魚は、蕪懸魚とも三花懸魚ともつかない意匠。破風板の内側は板が張られています。

 

仏殿背面

背面は5間。

中央の柱間には桟唐戸のような外観の引き戸が設けられています。ほかの柱間は縦板壁で、窓や建具などは設けられていません。

 

内部は土間床となっており、中央のやや奥に須弥壇と厨子が設けられています。厨子の中には本尊と思われる薬師如来が安置されていました。

室内には柱が立てられ、正面3間・側面3間は母屋の空間となっていて棹縁天井が張られています*3。外周1間通りは庇(裳階)であり、この空間は天井がなく化粧屋根裏となっています。

 

この仏殿は屋根の構造やシルエット、平面構成の観点では典型的な禅宗様建築なのですが、火灯窓や扇垂木のようなわかりやすい禅宗様の意匠があまり採用されておらず、意匠の観点では典型的とは言いがたいです。とはいえ、この仏殿は禅宗様建築の中ではやや降った時代のものであり、禅宗様建築の中世から近世にかけての変遷を考えるうえで価値のある遺構といえます。

 

武田義信の墓と諏訪頼重の墓

本堂左脇を通って境内の裏手へ進むと、墓地の一画にこのような玉垣に囲われた石祠があります。

右手前の石柱には「史跡 武田義信之墓」とありますが、写真中央は柳沢家の墓所で、柳沢吉里(甲府藩主)の夭折した子の墓です。

 

こちらの3つの五輪塔が武田義信の墓。

反逆の疑いをかけられたとはいえ、信玄の嫡子のものとは思えないくらい簡素な墓標です。

 

武田義信(1538-1567)は武田信玄の嫡男。

各地で武功を挙げ、武田家の次代当主として嘱望されましたが、信玄暗殺計画(義信事件)の首謀者とみなされ廃嫡されました。その後、当寺に幽閉され死去しています。死因については病死、自害、暗殺など諸説あります。

義信の弟にあたる信玄次男は盲目のため当主として不適格、三男は元服前に夭折したため、嫡流でない四男の勝頼が武田家の後継者に指名されました。

 

武田義信の墓の右手前には、2つの宝篋印塔があります。こちらは諏訪頼重の墓。

右の石柱は「信濃国諏訪領主諏訪頼重之墓」。

 

諏訪頼重(1516-1542)は諏訪家当主、諏訪大社大祝。武田勝頼の外祖父にあたります。

武田信虎(信玄の父)と同盟を結びますが、信虎追放後、信玄による侵攻を受けて捕縛され、当寺で自害しました。その後、子の諏訪御寮人が信玄の側室となり、のちに武田家当主となる勝頼を産んでいます。

武家としての諏訪家は頼重の代でいったん途絶えますが*4、いとこの諏訪頼忠によって再興され諏訪高島藩主の大名家として幕末まで存続しました。

 

以上、東光寺でした。

(訪問日2020/06/20,2024/07/14)

*1:山梨県教育委員会・甲府市教育委員会の案内板より

*2:ただし最恩寺仏殿は桁行1間・梁間1間で、東光寺仏殿や清白寺仏殿よりも小規模

*3:典型的な禅宗様建築ではここに鏡天井を張ることが多い

*4:武田勝頼(別名は諏訪四郎)は諏訪家の後継とみなされないことが多い