今回は大阪府河内長野市の観心寺(かんしんじ)について。
観心寺は市東部の山中に鎮座する高野山真言宗の遺跡本山です。山号は檜尾山。
創建は不明。寺伝によると701年に役行者が開山し、空海によって北斗七星が祀られたとのこと。実質的な開山は827年(天長四年)頃で、実恵(空海の一番弟子)らによって開かれたようです。鎌倉期に大きく隆盛し、楠木正成は当寺を菩提寺としていました。南北朝時代には、同市の金剛寺とともに後村上天皇の行宮となっています。戦国期には織田信長に寺領を没収されますが、豊臣秀吉・秀頼の寄進を受けて伽藍が修復されました。江戸期には30件もの塔頭があったようですが、明治期の廃仏毀釈を経て、現在では2件だけが残っています。
現在の境内伽藍は室町初期(南北朝時代)から江戸初期にかけてのもので、国宝の本堂をはじめ多数の伽藍が文化財となっています。また、発願者である楠木正成の討死によって未完成となった建掛塔など、特徴的な伽藍が点在しています。
当記事ではアクセス情報および鎮守堂、恩賜講堂などについて述べます。
現地情報
所在地 | 〒586-0053大阪府河内長野市寺元475(地図) |
アクセス | 観心寺バス停から徒歩3分 岸和田和泉ICまたは美原ICから車で30分 |
駐車場 | 100台(通常時は無料、大晦日・正月は有料) |
営業時間 | 09:00-17:00 |
入場料 | 300円 |
寺務所 | あり |
公式サイト | 観心寺・公式ホームページ |
所要時間 | 1時間程度 |
境内
山門(大門)と中院
観心寺の境内は南西向き。駐車場から境内へ進むと山門があります。
山門の先に拝観受付があり、この門の先から有料(300円)の区画となります。
山門は一間一戸、四脚門、切妻、本瓦葺。
1659年再建。府指定文化財。
正面の軒下。扁額は「遺跡本山」。
虹梁中備えは出三斗。木鼻は拳鼻。
軒裏は一重まばら垂木。
左側面。側面には冠木が突き出ています。
冠木の上に位置する中備えは出三斗。出三斗の上、妻虹梁の位置からはあまり見かけない形状の部材が横に出ています。
妻飾りは大瓶束。下端がすぼまった形状。
角度がついたアングルで見づらいですが、破風板の拝みには蕪懸魚が下がっています。
背面。
門扉には板戸が立てつけられ、門の左右には築地塀が立っています。
拝観受付の先、参道左手には塔頭の中院が南東向きに鎮座しています。
幼少期の楠木正成がここで手習いや仏道の修行を受けたと伝えられます。
中院の門は一間一戸、薬医門、切妻、本瓦葺。
標準的な造りの薬医門です。
中院は入母屋、本瓦葺。
屋根が二段の構成(錣屋根)になっているのが特徴的。
堂内は拝観できないようです。この後方には本坊がありますがこちらも拝観できない模様。
鎮守堂
参道右手には鎮守堂が鎮座しています。
桁行6間・梁間2間、入母屋、本瓦葺。
1744年再建。府指定文化財。
こちらは鎮守堂拝殿の正面。木が茂っていて全体像がわかりにくいです。
側面および斜め後方。
建具は舞良戸が使われています。
妻飾りは大瓶束。破風板の拝みには蕪懸魚。大棟にはしゃちほこ。
柱は角柱。頭貫と台輪には禅宗様木鼻がついています。
柱上の組物は大斗と実肘木(あるいは花肘木?)を組んだもの。
参道右手、拝殿の裏手には手水舎。
切妻、桟瓦葺。
拝殿の後方の石垣の上には、鎮守堂の本堂である訶梨帝母天堂(かりていもてんどう)が鎮座しています。訶梨帝母は鬼子母神の別名。
一間社春日造、正面軒唐破風付、檜皮葺。
1549年(天文十八年)再建。国指定重要文化財。
向拝柱は角面取り。
柱上の組物は連三斗と出三斗を左右に連結したような形状のもの。組物の内側(写真左)は唐破風の桁を受けています。
柱の側面には象鼻。巻斗が上に載り、組物を持ち送りしています。
虹梁中備えは板蟇股。
唐破風の小壁には小さな笈形付き大瓶束。
蟇股や組物などの部材は彩色されていた形跡がありますが、経年により退色しています。
向拝柱と母屋は梁でつながれています。梁の母屋頭貫の高さから出て、向拝の組物の上に降りています。梁の上には小壁が張られています。
2つある梁の内側の軒裏には、手挟があります。手挟は繰型のついた板状のもの。
軒裏の垂木は二軒繁垂木。隅木(母屋柱のあたりから軒先へ斜めに出る材)のない純粋な春日造の納まりとなっています。
母屋柱は円柱。
正面には格子の引き戸。戸の上と左右には雲状の意匠が配されています。
側面は横板壁。頭貫の上の中備えは板蟇股。
縁側はくれ面が3面にまわされ、後方は脇障子を立ててふさいでいます。欄干は跳高欄。
背面。
柱上の組物は連三斗。正面側の組物は出三斗でした。
頭貫には拳鼻が付き、背面側の拳鼻は皿斗で連三斗を持ち送りしています。
こちらの中備えは板蟇股ではなく、角柱の束。
妻飾りは豕扠首。
牛滝堂
順当にいけば次は金堂ですが、その前に境内北西の区画を紹介。
鎮守堂(訶梨帝母天堂)から後述の恩賜講堂のほうへ向かうと、霊宝館の隣に牛滝堂があります。
桁行3間・梁間3間、宝形、向拝1間、桟瓦葺。
虹梁中備えは板蟇股。中央部がくり抜かれています。
向拝柱は几帳面取り。側面には木鼻。
柱上の組物は出三斗。
母屋柱も角柱で、柱上は舟肘木が使われています。
柱間は蔀。側面後方の柱間はしっくい塗りの壁になっています。
縁側の欄干は親柱の上端に擬宝珠が付いていません。
恩賜講堂
境内北東の奥には、巨大な恩賜講堂(おんしこうどう)が南東向きに鎮座しています。規模・様式ともに尋常の仏堂でないことが直感できる異様な趣。
もとは昭和天皇即位の祭典のため京都御苑に建てられたもので、その一部を当地に移築・改造したものとのこと。
桁行6間・梁間5間、入母屋、正面背面庇各1間通り、銅板葺。
1930年移築。国指定重要文化財。
正面には縁側が設けられ、1間通りが吹き放ちの庇になっています。
庇の柱は円柱。上端に行くほど細くなるエンタシス。
柱上には出三斗。
庇の柱と母屋は、虹梁でつながれています。虹梁の母屋側は、下部に挿肘木の斗栱が持ち送りとして添えられています。
庇の軒裏は屋根の軒先を伸ばしています。対して屋根は庇のところで折れ曲がり、あとから付け足したような感じがあります。
母屋正面。
母屋柱は几帳面取りの角柱。寺社建築のセオリーである「向拝は角柱、母屋は円柱」の真逆になっています。もとが寺社建築でないとはいえ、このような例は初めて見ました。
柱間は2つ折れの桟唐戸と、連子窓。
なお、縁側は立入禁止になっているため、あがることはできません。
背面側。
背面も軒先の1間通りが庇のようになっていますが、こちらは壁板が張られ、さらに小屋のような構造物が付加されています。
母屋の側面のガラス窓をのぞき込んだところ堂内は物置のような状態になっていて、あまり有効活用されていない様子。境内でも人気の少ない場所にあるからなのか、“恩賜”という仰々しい名前のわりに少々ぞんざいに扱われている感がなきにしもあらず。
鎮守堂、恩賜講堂などについては以上。