今回は長野県長野市の康楽寺と明行寺について。
康楽寺(長野東町)
所在地:〒380-0831長野県長野市長野163-1(地図)
康楽寺(こうらくじ)は長野の中心市街に鎮座する浄土真宗本願寺派の寺院です。山号は白鳥山。
同市篠ノ井にも同名の寺院があります。
創建は鎌倉初期で、親鸞が師の法然の法要のため、当地に草庵を開いたのが前身とされます。開基の西仏房浄寛は、源義仲(木曽義仲)の祐筆として仕えていたらしいですが、のちに親鸞に師事し、海野(現在の東御市)に康楽寺を開きました。この康楽寺は、戦国時代に塩崎(篠ノ井)に移転しました。当初、当寺は広敬寺と称していたようですが、浄寛の三男・浄宣が当地に居住したため、後年(1665年)、西本願寺から康楽寺の寺号を与えられたようです。
1847年(弘化四年)の善光寺地震では境内伽藍を焼失し、江戸後期から明治にかけて現在の伽藍が再建されました。
境内
康楽寺の境内は西向き。入口は、善光寺表参道に並行する路地に面しています。
左手の寺号標は「白鳥山 康楽寺」。
境内の中心部には本堂が鎮座しています。
入母屋、向拝3間、本瓦葺。
1886年再建。
向拝は3間。虹梁に中備えはありません。
虹梁や木鼻に彫刻がありますが、金網がかかっていて細部を観察しづらいです。
向かって左端(北端)の向拝柱。
向拝柱は几帳面取り角柱。正面には唐獅子、側面には象の彫刻がついています。
柱上の組物は出三斗。
向拝柱と母屋柱のあいだにも虹梁がわたされています。
虹梁の中央には大瓶束が立てられ、向拝側(写真右)には短い虹梁が、母屋側(写真左)には小さな海老虹梁がかけられています。
善光寺本堂の向拝部分と似た造りです。
母屋の正面中央に掲げられた扁額は院号「報恩院」。額縁には竜の彫刻が入っています。
母屋柱は円柱。上端が絞られています。
頭貫には象鼻がつき、柱上に台輪がまわされています。
組物は出組。中備えはありません。
側面の入母屋破風。
破風板の拝みには、鰭のついた懸魚が下がっています。
妻飾りは、笈形付き大瓶束が3つ並び、その上に虹梁をわたして束を立てています。
以上、康楽寺でした。
明行寺
所在地:〒380-0833長野県長野市鶴賀2382(地図)
明行寺(みょうぎょうじ)は権堂町に鎮座する真宗大谷派の寺院です。山号は観勝山。
草創は1573年(天正元年)。当初は、現在地の北西80メートルほどの位置にありました。寺伝によると、当初は宗派を問わない学問所として栄えたようです。1760年の記録には浄土真宗と書かれていたとのこと。1751年の大火で伽藍を焼失し、文政年間(1818~1829)に現在地へ移転しました。1847年(弘化四年)の善光寺地震でも、境内伽藍を焼失しています。
現在の境内伽藍は明治時代に整備されたもの。当時は太鼓橋と門があったようですが、権堂町の区画整備の際、市に土地を寄付したため、現存しません。
境内
明行寺の境内は西向き。入口は、権堂商店街の北側の道に面しています。
左手の社号標は「明行寺」。
入口の山門は、一間一戸、薬医門、切妻、銅板葺。
1926年再建。
山門の柱は面取り角柱。
主柱のあいだに冠木がわたされ、山号「観勝山」の扁額がかかげられています。
冠木の上からは腕木が突き出し、実肘木を介して軒桁を受けています。腕木の先端は象鼻のような繰型がついています。
妻飾りを内側から見た図。写真左が正面側です。
妻飾りは笈形付き大瓶束。
内部は化粧屋根裏で、軒裏は一重の繁垂木。
山門の先には本堂が鎮座しています。
入母屋、向拝3間、桟瓦葺。
1889年再建。彫刻は市内の宮大工・山嵜儀作が手がけたらしいです。
向拝は3間。
虹梁や木鼻に彫刻があります。虹梁に中備えはありません。
向かって左端の向拝柱。
向拝柱は面取り角柱。正面には唐獅子、側面には象の木鼻があります。
柱上の組物は出三斗。
そこまで大きな堂ではないですが、向拝は3間あるため、柱間がやや狭いです。
虹梁には雲状の絵様が彫られ、袖切り部分には鶴らしき彫刻が入っています。
母屋柱は円柱で、上端が絞られています。
頭貫には象鼻がつき、柱上に台輪が通っています。
組物は出三斗と平三斗。
妻飾りは二重虹梁で、大虹梁の上に笈形付き大瓶束が2組置かれています。
二重虹梁の上の意匠は、影になってしまいよく見えず。
破風板の拝みと桁隠しには、懸魚が下がっています。
以上、明行寺でした。
(訪問日2023/10/07)