甲信寺社宝鑑

甲信地方の寺院・神社建築を語る雑記。

【奈良市】東大寺 その5 正倉院と転害門

今回も奈良県奈良市の東大寺について。

 

その1では南大門について

その2では中門と大仏殿について

その3では鐘楼と念仏堂などについて

その4では法華堂と二月堂などについて述べました

当記事では正倉院と転害門について述べます。

 

正倉院

大仏殿から北へ向かい、大仏池の脇を通って10分程度歩くと正倉院(しょうそういん)があります。見学は無料開門の時間は平日の10:00-15:00で、やや短いうえ休日は見られないため要注意。

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上の写真は南側の門で、ここは通行できないため右手のほうにある出入口から中へ入ります。

正倉院の敷地は東大寺ではなく宮内庁の管轄らしく、職員の警備・監視下という落ち着かない状況での見学になります。東大寺にある国宝の伽藍や仏像よりも厳重なセキュリティで守られています。

 

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出入口の脇には守衛室らしき建物がありました。正倉院入口周辺の芝生には鹿のふんが転がっていたので、鹿が迷い込んできたときはここで職員に追い返されるのでしょう。さいわい私は追い返されずに済みました。

 

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こちらが正倉院正倉。

二重の柵が立てられていてこれ以上近づくことはできず、側面や背面は見られません。無料なので文句は言えませんが、遠いうえ角度限定になってしまうのが惜しいです。柵の近くでは宮内庁職員が雨の中を傘もささずに警備されていました。

 

正倉は桁行9間・梁間3間、寄棟、校倉造、本瓦葺。

正面33.1m、側面9.3m。高さ14m、床下2.5m。

造営年は不明ですが、756年ごろのものと考えられています。過去に何度か修理が行われており、当初の材がどこまで残されているかは不明。国宝に指定されています。

 

内部には聖武天皇と光明皇后のゆかりの物品のほか、東大寺の寺宝や記念品が収蔵されていました。現在は近くにある鉄筋コンクリート造の宝庫に移して保存されているようです。

 

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正倉の母屋は中央の3間と左右各3間に分かれ、内部も3区画に区切られています。

左右の区画の壁面は校木(あぜき)という三角柱状*1の材を重ね合わせて造られています。これは校倉造(あぜくらづくり)の代名詞として知られます。

中央の区画は厚板を横向きにはめた構造で、これは通常の寺社建築と同じ造りです。

 

なお、「校木が気温や湿度で収縮・膨張し、すきま風で適温が保たれる」という有名な説は、現在では否定されています。いったい誰が言い出した説なのか気になって調べたものの、出所についての情報はまったく見つからず。私自身、この話をいつどこで聞き知ったのか思い出せません...

 

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柱はいずれも円柱で、礎石の上に立てられています。

柱の上には台輪という板状の平たい水平材がわたされ、その上に三角の校木が乗ります。

この台輪の出っ張った部分は、弥生時代の高床倉庫の床下の「ねずみ返し」と同じ機能を持っているという説もあるらしいです。しかし先述した校木の膨張収縮説がまことしやかに流布していたことを思うと、本当にこれがねずみ返しとして機能するのか疑わしく思えてきます。

 

正倉院は以上。いい歳して平日の朝からこんなところに独りで長居していたら確実に不審者あつかいされるので、少し眺めて写真を撮ってすぐ退散となりました。滞在時間は5分足らずでした。

 

転害門

正倉院から200メートルほど西へ行くと、境内と市街地の境目に転害門(てんがいもん、てがいもん、轉害門)が西向きに鎮座しています。見学は随時可能で、無料

正倉院はわずかながら観光客がいましたが、ここまで足を伸ばす人は少ないようでまったく人影がありません。正倉院まで歩いたなら、こちらの転害門も見て行くことを強く推奨します。

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転害門は三間一戸、八脚門、切妻、本瓦葺。

正面17m、側面8m、高さ11m(転害門前旧銀行建物活用協議会のパンフレットより)。

天平宝宇年間(757-765)建立国宝

東大寺の創建当初の伽藍が、2度の兵火を免れてほぼ完全な状態で現存しています。法華堂の正堂部分とならんで、東大寺で最古級の伽藍です。一部に鎌倉期の修理による改変(後述)がありますが、それでも当初の形態をよく残しているとのこと。昭和初期の修理では老朽化した柱3本を新調したようです。

 

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正面は3間で、中央の1間が通路になっています(一間一戸)。内部の立入や通行は禁止。

前方の1間通りは壁がなく吹き放ち。暗くて見えないですが、内部は格天井。

柱はいずれも円柱。奈良時代らしく太い柱が使われ、豪快な趣。右手前(南西の隅)の柱だけ異様に節が目立ち、ごつごつとした質感。

 

観光ガイドのお爺さんが、門の隣にある案内所から出てきていろいろとお話を聞かせてくださりました。いわく、西岡常一氏(法隆寺の宮大工、1908-1995)がこの門の柱を見て絶賛されたそうです。

 

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軸部の連結と固定には貫が使われています。貫に木鼻はありません。

平安時代より前の寺社建築(和様建築)は長押を多用する傾向があるのですが、この門は長押がいっさい使われていません。

中央の通路部分の柱間にはしめ縄がかけられ、どことなく神社風の趣。

 

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柱の上部には頭貫が通っています。こちらも木鼻はありません。これは和様の意匠。

頭貫の柱間の中備えは間斗束。

柱上の組物は出組。

 

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組物のアップ。

よく見ると、通し肘木という水平材の先端(赤丸で囲った部分)が、大仏様木鼻になっています

この木鼻は南大門の項で述べたように、鎌倉以降の寺社建築でしか見られない意匠です。よってこの木鼻は鎌倉期に改変された箇所で、当初(奈良時代)この部材は無かったと推定できます。

 

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こちらは門の隣の案内所にあった模型。転害門の組物の改変を図解したものです。

右は奈良時代の組物で、当初の形態。柱上に平三斗を置き、舟肘木を介して丸桁を受けています。

左は鎌倉時代の組物で、現在の形態写真左上の白っぽい色の部材が鎌倉期に追加されたものです。組物(三斗)と木鼻(通し肘木)だけでなく丸桁も追加され、丸桁の位置が高くなっています。よって、現在の転害門は当初より屋根がひとまわり高く大きいと考えられます。

 

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右側面(南面)の妻壁。

妻飾りは二重虹梁。この辺りは奈良時代の意匠が残されているのか、独特な外観です。

妻虹梁の上には人の字型の板蟇股が使われ、組物を介して桁や棟木を受けています。この人の字型の板蟇股は非常に古風な意匠で、法隆寺金堂にも似たものが使われています。

写真中央、側面中央の柱上からは組物と木鼻が出ていて、その上には丸い桁が出ています。

 

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破風板の拝みと桁隠しには、猪目懸魚が計5つ下がっています。

 

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軒裏は二軒繁垂木。

垂木の断面を見てみると、母屋側の垂木(地垂木)は丸、軒先の垂木(飛檐垂木)は四角になっています。これは地円飛角(じえんひかく)といい、非常に古風な意匠です。

 

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背面(東面)。

正面とほぼ同じ造りをしていますが、こちらは左右の通路のない部分の柱間に腰貫が通されています。

 

転害門については以上。ガイドのお爺さんが案内所で模型を見せてくれたおかげで、鎌倉期の改変の解説が非常にスムーズに進み、とても助かりました。感謝の言葉もございません。

 

これにて東大寺の境内伽藍の紹介と解説は終了。

今回の訪問では「南大門→大仏殿→鐘楼→法華堂と二月堂→手向山八幡宮→正倉院→転害門」の順で境内伽藍をまわり、所要時間は3時間程度でした。

戒壇院が見られなかったり、大湯屋のあたりをうっかり見逃したりしたため、漏れなくすべての堂をまわった場合は4時間くらいかかると思われます。

 

以上、東大寺でした。

(訪問日2021/11/22)

*1:外から見ると三角柱だが、実際は五角柱または六角柱の材が使われている