今回も奈良県奈良市の東大寺について。
当記事では中門と大仏殿について述べます。
中門と回廊
南大門をくぐって参道を進むと、大仏殿の手前に中門(ちゅうもん)があります。
中門は、五間三戸、楼門、入母屋、本瓦葺。
1716年頃の再建とされます。国指定重要文化財。
五間三戸の門という点では南大門と同じですが、こちらは紅白の彩色と和様をベースとした意匠で構成され、印象や雰囲気がまったくちがった門となっています。
単体でみれば規模も造りも非の打ちようのない立派な門です。しかし手前は南大門、うしろは大仏殿。化け物じみた巨大建造物に前後を挟まれ、どことなく肩身が狭そうに見えます... 較べるとどうしても見劣りの感が否めず、不遇な印象。
下層。
正面5間のうち3間が通路になっています(五間三戸)。
中央3間の通路部分は通行できませんが、格子の隙間から大仏殿をのぞき込むことができます。
柱はいずれも円柱。
軸部は貫で連結されています。頭貫木鼻や長押は使われていません。
柱上の組物は三手先。中備えは間斗束。
壁面は縦板壁になっています。
上層。
見えづらいですが柱は円柱。
縁側は切目縁で、跳高欄が立てられています。
組物は尾垂木三手先、中備えは間斗束。
組物で持ち出された桁の下には軒支輪が見えます。
軒裏は二軒繁垂木。
破風板の拝みには猪目懸魚。
入母屋破風の内部の妻飾りは二重虹梁になっているようで、出三斗や板蟇股が見えます。
内部は格天井になっており、2体の仏像が向かい合って配置されています。
上の写真は向かって右に安置されている多聞天。ここでは兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)と呼ばれるようです。
足元に天女が彫られているのが特徴らしいですが、その事実を知ったのは帰宅後でした。
向かって左に安置されているのは持国天。
多聞天・持国天ともに1719年の作で、仏像としては非常に新しいものです。文化財指定の有無については不明。
中門の左右には回廊が伸びています。
中門と同年代の造営で、こちらも国指定重要文化財です。
柱は円柱、柱上は出三斗、中備えは間斗束。
軸部は貫と長押で固定され、柱間には緑色の連子窓。
軒裏は二軒繁垂木。
長押などの水平材や窓を曲げ、基壇の上の中門との高低差を処理しています。
中門向かって左側に行くと、回廊の内部に入れます。
組物のあいだに梁が渡され、その上では豕扠首が棟木を受けています。
内部に天井はなく、化粧屋根裏。
順路に沿って回廊を進むと拝観受付の窓口があり、大仏殿のチケットを購入できます。
ここから先の大仏殿は有料の区画になります。
大仏殿の概要
回廊の内部で拝観料(600円)を払うと、回廊の中庭や大仏殿の堂内へ入れます。
堂内に大仏が納められているため大仏殿と呼ばれますが、正式には金堂(こんどう)と言うようです。
桁行5間・梁間5間、一重裳階付、寄棟、本瓦葺、正面向唐破風付、銅板葺。
1709年(宝永六年)再建。国宝。
間口57.01m、奥行50.48m、高さ48.74m(数値は拝観チケット記載のものを引用)。
日本最大の木造建築であり、木造軸組構法(木造の柱や梁などの軸組で構成する工法)の建造物として世界最大。
堂内には、過去の大仏殿の模型が展示されています。
上の写真は鎌倉期に再建された大仏殿の模型。
当初の大仏殿は758年に完成しますが、1180年の南都焼討で焼失しています。その後、1195年に再建されています。
1195年に再建された鎌倉期の大仏殿は規模こそ当初のものと同じでしたが、各所の意匠は当時の最新の技術・様式だった大仏様が取り入れられたようです。なお、この大仏殿は古記録によると正面の幅が85.8mあったらしく、現在の1.5倍もの規模だったとのこと。
こちらは江戸期に再建された大仏殿の模型。すなわち現在の大仏殿です。
鎌倉期に再建された大仏殿は1563年、近畿地方の政権をめぐる「東大寺大仏殿の戦い」で焼失しています。焼失後は大仏を保護するため仮設の大仏殿が作られたようですが、1610年に暴風で倒壊。大仏はひどく損傷した状態で約80年ほど風雨にさらされることになりました(詳細は後述)。
現在の大仏殿は、当寺の僧侶・公慶が徳川綱吉やその母から寄進を集めて1709年に再建したもので、3代目になります。鎌倉期のものにならって大仏様の意匠が取り入れられていますが、どこまで再現できているかは分かりません。現在の大仏殿を観察するときは、あくまでも江戸期の建築だという事実を念頭に置いておくべきでしょう。
大仏殿の細部意匠
大仏殿は一見すると二重ですが、堂内に入ってみると平屋であることがわかります。下の屋根は裳階(もこし)という庇で、この大仏殿は一重裳階付寄棟造(いちじゅう もこしつき よせむねづくり)という様式になります。
これの入母屋バージョン(一重裳階付入母屋造)は禅宗様建築の典型として多くの作例がありますが、寄棟で裳階がついている例はあまり見かけません。
下層(裳階の下)は正面7間となっています。
正面中央の3間は板戸になっています。
写真では分かりづらいですが柱間が尋常でなく広いため、扉もそれに応じて巨大なものが使われています。
向かって右。
柱はいずれも円柱。
右端の柱間には連子窓、右から2番目の柱間は縦板壁。
柱の上部にはいくつも貫が通っていて、木鼻も設けられています。
写真下端は禅宗様木鼻で、渦状の意匠がついているのが特徴。その上は大仏様木鼻で、こちらは平面的な造形が特徴です。
組物は柱上ではなく柱側面から出ており、挿肘木(さしひじき)という大仏様の技法が採用されています。また、隣の柱の組物とのあいだに水平材(通し肘木)がわたされています。南大門の組物とほぼ同じ造り。
組物は六手先で、太い軒桁を持ち出しています。母屋と軒桁のあいだの小天井(“小”と呼ぶにはかなり大きいですが)は格天井になっています。
組物のあいだの中備えは、平三斗を4つ重ねたものが置かれています。
母屋の柱上から軒桁に向けて腕木が伸びており、その先端は木鼻になっています。木鼻には渦巻き状の意匠がついており、これは大仏様ではなく禅宗様の木鼻です。
中央の向唐破風の部分。
母屋から唐破風の庇が突き出ており、ここだけ裳階が途切れています。なお、この唐破風の部分だけ屋根が銅板葺です。
裳階の途切れた部分の縋破風からは、内に向かって禅宗様の象鼻が出ていて、その上に虹梁がわたされています。
虹梁の上は笈形付き大瓶束。笈形には菊と思われる花が彫刻されています。
唐破風の兎毛通は猪目懸魚。
軒下の壁面。
唐破風の下の小壁にも虹梁が渡され、蟇股が置かれています。蟇股の彫刻は唐獅子。とても江戸期らしい意匠で、こういった彫刻は鎌倉期の建築ではありえません。
唐破風の下の壁面には桟唐戸が設けられています。桟唐戸は禅宗様の意匠のひとつ。
トマソンみたいな扉ですが、この桟唐戸が開くと中門の位置から大仏の顔を見ることができるらしいです。
桟唐戸の下は壁板がなく、蟇股が置かれています。
上は火灯窓が2つ設けられ、そのあいだに組物が配置されています。
上層(裳階の上)。
わかりにくいですが正面の柱間は5間。
屋根の頂上に2つ設けられた鴟尾(しび)まで約50メートルの高さがあります。このような長距離となると、私の粗末なスナップ写真では細部の観察は不可能です。
組物は下層と同様の挿肘木。ほかの意匠も下層とあまり差異はなさそうです。
正面中央の柱間の内部。向かって右(東側)を見た図。
ここは裳階の下の空間であるため、写真中央上端には裳階の軒裏の垂木が見えます。
柱と柱のあいだにはいくつもの貫が通されています。貫の下部は、柱から出た挿肘木の斗栱で持ち送りされています。
柱は円柱ですが、複数の材を束ねて固めることで1本の柱としています。このような巨大建造物の柱にできるような大木は当時すでに伐りつくされており、集成材で代用するしかなかったようです。
奈良の大仏(盧舎那仏像)
最後に、おまけのようになってしまいましたが大仏の紹介。
奈良の大仏は通称で、正式には東大寺盧舎那仏像(とうだいじ るしゃなぶつぞう)といいます。
像高14.98メートル。「銅造盧舎那仏坐像」という名称で国宝に指定されています。
奈良時代に造られたものですが、現状の大部分は鎌倉時代と江戸時代の修理で造りなおされたものです。
奈良の大仏は聖武天皇の発願で造られ、752年(天平十七年)に完成。平安期に地震で頭部が落下しましたが、861年に修理が完了しています。平安期の南都焼討でも損傷を受け、1185年(文治元年)に修復が完了したようです。
先述した戦国期の「東大寺大仏殿の戦い」では、兵火を受けて頭部が落下してしまい、政情不安定な時代だったため復興・修復は進捗しなかったようです。仮設で造られた大仏殿も江戸初期に倒壊し、頭が取れているうえに雨ざらしという無残な状態で約80年ほど置かれました。
その後、公慶が大仏殿とともに修復し、1692年(元禄五年)に開眼供養され修復が完了しました。
前述のとおり、大仏は平安期・鎌倉期・江戸期に大規模な修理を受けています。とくに頭部はほぼすべて江戸期のもので、胴や手(どちらも鎌倉期のもの)とは質感がちがって見えます。
奈良時代の箇所はごく一部で、大仏の座る蓮華の花弁の部分に描かれた仏画は当初のものがよく残っているとのこと。
ほか、堂内の仏像や大仏殿前の灯篭が国宝や重文クラスのもののようですが、紹介しているときりがないため割愛。
大仏殿については以上。