今回も奈良県奈良市の東大寺について。
当記事では法華堂と二月堂などについて述べます。
法華堂(三月堂)
鐘楼から坂を登ると、そのさきに法華堂(ほっけどう、別名は三月堂)の側面があらわれます。下の写真は左側面(西面)で、右のほう(南)が正面になります。
堂内拝観は600円(大仏殿などとは別料金)。外観を見るだけなら無料です。
なお、法華堂のすぐ南には手向山八幡宮の社殿がありますが、東大寺から独立した神社であるため別記事にて解説します。
法華堂は前後に長い平面構成。これは2つの堂を前後に連結した構造をしているためです。
前方は礼堂(らいどう)といい、梁間5間・桁行2間、入母屋(妻入)、本瓦葺。
後方は正堂(しょうどう)といい、桁行5間・梁間4間、寄棟(平入)、本瓦葺。
両者のあいだは「造り合い」という側面2間の空間でつながれています。
正堂部分は天平年間(729-749)の末期の造営と考えられ、東大寺では転害門(その5にて解説)とならんで最古級の伽藍です。
礼堂部分は鎌倉時代に付加(増築)されたもの。礼堂が造られた年代は諸説あり、棟札を根拠とする1199年(正治元年)説と、大瓶束の刻銘を根拠とする1264年(文永元年)説があります。
正堂・礼堂あわせて1棟の「法華堂」として国宝に指定されています。また、堂内の仏像10体は奈良時代の作で、こちらも国宝指定されています。
奈良時代の正堂・礼堂はそれぞれ別の堂で、つながってはいなかったようです。鎌倉時代に礼堂だけが再建され、その際に正堂と一体化されて現在の形態になりました。
法華堂は2つの時代にまたがる複雑な出自を持っていますが、どこまでが奈良時代でどこからが鎌倉時代なのか明確です。とくに礼堂部分は、鎌倉より前の時代ではありえない意匠が散見されます。
まずは正面の礼堂から。こちらは鎌倉時代に付加された部分。
なお、手前にある灯篭は鎌倉時代のもので国重文とのこと。
正面は5間。中央の3間は内開きの扉が設けられています。
向かって右側には孫庇のような低い屋根がついています。
向かって左端の柱間は、連子窓になっています。
窓の上には頭貫が通り、大仏様木鼻がついています。大仏様木鼻については南大門の項で既出のため割愛。
柱はいずれも円柱で、柱上の組物は出組。組物は大斗と挿肘木が併用されています。そしてやはり大仏様木鼻がついています。これらの意匠から、鎌倉以降のものであることがわかります。
軒裏は二軒繁垂木。地垂木・飛檐垂木ともに四角い材が使われています。
左側面。写真右の2間が礼堂です。
前方の1間は連子窓、後方の1間は桟唐戸。桟唐戸は禅宗様の意匠です。
組物のあいだの中備えは、正面と同様に間斗束。
縁側は切目縁で、欄干は擬宝珠付き。
正面の入母屋破風。
破風板の拝みと桁隠しには猪目懸魚。
妻飾りは虹梁と大瓶束。大瓶束は大仏様や禅宗様の意匠で、鎌倉時代に出現するものです。
つづいて礼堂・正堂の接続部にあたる「造り合い」。
前方(右)の1間は連子窓、後方(左)の1間はしっくい塗りの壁になっています。
礼堂と正堂の軒先の拡大図。
木製の雨樋が通っています。現状ではどう見ても不要なものですが、礼堂と正堂がべつべつの堂だったころのなごりのようです。この堂の独特な経緯を物語っています。
頭貫と軒裏のあいだは格子をはめてふさがれています。
法華堂の本体にあたる正堂。こちらは奈良時代からあった部分。
側面は4間。柱間の建具は板戸と連子窓が使われ、礼堂とは対照的に和様の意匠です。
軒裏が二軒繁垂木で角垂木である点は礼堂と同じ。
背面は5間。
柱間は板戸。向かって左から2つ目の柱間は壁になっています。
正堂も柱は円柱。ただし軸部は長押と頭貫で固定され、頭貫に木鼻はありません。
組物は出組。挿肘木は使われておらず、大仏様木鼻もありません。
組物のあいだの中備えは間斗束。
二月堂の縁側から見た法華堂正堂の背面。写真奥が正面側です。
手前の左右にのびた棟が正堂、奥の前後にのびた棟が礼堂で、両者があわさってT字の棟になっています。現状に至るまでの経緯が独特なので構造も独特なものになっていますが、このようなT字の棟を持った堂は善光寺本堂(長野市)など少数ながら例があります。
こちらは奈良時代の法華堂の姿を再現した模型(転害門の観光案内所にて撮影)。
当然ですが、現在の法華堂から礼堂と造り合いをなくした感じの外観で、標準的な寄棟の堂となっています。
法華堂の南には経庫。写真は南面で、南向きに鎮座しています。
寄棟、本瓦葺。校倉造。
平安時代初期の造営と推定されます。国指定重要文化財。
床下は円柱で、高床になっています。
壁面は校木(あぜき)という三角柱の部材が使われ、それを何段も積み重ねることで壁を構成しています。
軒裏は一重の繁垂木。
ほか、校倉造についての話題は正倉院の項目に譲り、ここでは割愛します。
二月堂
法華堂の後方、北側にある斜面には二月堂が西面しています。
梁間7間・桁行10間、寄棟(妻入)、本瓦葺。
1669年(寛文九年)再建。国宝。
床が斜面から舞台のようにせり出し、柱や貫などの木組みで支えられています。長谷寺(奈良県桜井市)や清水寺(京都市)と同様の懸造(かけづくり)です。
再建前の二月堂は法華堂正堂とほぼおなじ752年(天平勝宝四年)ころの建立と考えられ、法華堂や後述の転害門とともに2度の兵火(南都焼討と東大寺大仏殿の戦い)を免れましたが、1667年の修二会という法要の失火で焼失しています。現在の二月堂は江戸初期の再建。東大寺の境内伽藍では新しい部類ですが、国宝に指定されています。
床下の組物。
再建前の形式をどこまで保っているかは不明。組物は柱に挿肘木が使われていて、これは奈良時代にはありえない意匠です。大仏殿と同様に、あくまでも江戸期の建築であることを念頭に置くべきでしょう。
正面は7間。母屋の前方の1間通りは吹き放ちの内陣となっています。
東大寺の中でも高い場所にあり、懸造になっているため、正面の縁側からは境内伽藍や奈良市街を見下ろせるようです。なお今回は雨天時の訪問で、雨と霧にさえぎられて何も見えず。
柱は円柱で、上端が絞られています。
虹梁に木鼻はありません。柱から出た斗栱が、虹梁を持ち送りしています。虹梁の上には台輪が通っています。
柱上の組物は出組。拳鼻(禅宗様木鼻)がついています。
軒桁の下には軒支輪。軒裏は二軒繁垂木。
左側面(南面)。柱間は10間。
桟唐戸が多用されていますが、後方(写真右端)は素木の横板壁です。
ほか、二月堂は堂内の構造に特色があるようで、内陣は桟唐戸で区切られ切妻板葺の屋根がかけられているとのこと。奈良時代当初は内陣周辺だけの小規模な堂だったのが、時代を経るにつれて増築されていき、現在とほぼ同じ規模に発展していったと考えられているようです。
北門と手水舎
法華堂の北側には法華堂北門があります。
一間一戸、四脚門、切妻、本瓦葺。
1240年(延応二年)建立。国指定重要文化財。
二月堂の南側には手水舎。
切妻、正面軒唐破風付、本瓦葺。
造営年不明。私の推定では、江戸中期以降のものかと思います。
柱は几帳面取り角柱。
貫には波の意匠の木鼻。透かし彫りです。
虹梁には唐獅子の木鼻がつき、その上に通る台輪にも木鼻がついています。
唐破風部分。
台輪の上の中備えは蟇股で、雲に鷹の彫刻。
唐破風の小壁の飾りは笈形付き大瓶束。笈形は雲の意匠。
破風板から下がる兎毛通は、猪目懸魚の左右に雲状の意匠がついたもの。
登廊と閼伽井屋
二月堂の北西には、登廊(のぼりろう)という回廊が伸びています。こちらの内部を通行して二月堂へあがることもできます。
切妻、本瓦葺。
登廊の手前には閼伽井屋(あかいや)が西面しています。別名は若狭井屋(わかさいや)。
内部には井戸があり、その水は二月堂の法要に使用されます。この堂は井戸の覆い屋のようです。
閼伽井屋は、切妻、本瓦葺。
鎌倉時代の造営と考えられます。国指定重要文化財。
四月堂(三昧堂)
法華堂の西、二月堂のはす向かいには四月堂が東面しています。別名は三昧堂、普賢堂。
桁行3間・梁間3間、二重、寄棟、本瓦葺。
1681年(延宝九年)造営。国指定重要文化財。
当初は一重、宝形だったようですが、江戸期の改修で現在の姿になったとのこと。
内部は板張りのようですが、周囲に縁側はありません。
柱は上層下層ともに角柱で、柱上は舟肘木。柱間は両開きの板戸と、緑色の連子窓。
軒裏は一重繁垂木。
法華堂、二月堂などについては以上。