今回は神奈川県横浜市の三溪園(さんけいえん)について。
三溪園(三渓園)は中区の海沿いにある庭園です。
設計は実業家・茶人の原富太郎(雅号は三溪)。京都などにあった古建築を購入して当地へ移築し、1906年(明治三十九年)に外苑を一般公開したのがはじまりです。太平洋戦争では空襲を受け、一部の建築と宝物を焼失しています。戦後には旧矢箆原家住宅や旧燈明寺本堂が移築されています。
園内の各所には室町前期から近現代にかけての建築が点在し、建築のジャンルも仏堂、仏塔、住宅、茶室など多彩です。旧燈明寺三重塔や臨春閣などの計10件12棟が国の重要文化財に指定されているほか、園内全域が国の史跡に指定されています。
当記事ではアクセス情報および旧燈明寺本堂、旧東慶寺仏殿、旧燈明寺三重塔などの外苑について述べます。
臨春閣、天授院、旧天瑞寺寿塔覆堂などの内苑については後編をご参照ください。
現地情報
| 所在地 | 〒231-0824神奈川県横浜市中区本牧三之谷58-1(地図) |
| アクセス | 山手駅から徒歩40分 本牧ふ頭ICから車で10分 |
| 駐車場 | あり(有料) |
| 営業時間 | 09:00-17:00 |
| 入場料 | 900円 |
| 公式サイト | 横浜 三溪園 |
| 所要時間 | 90分程度 |
境内
三溪園天満宮と涵花亭

三溪園の出入口は北側と南側の2箇所あります。北側が正門というあつかいのようで、駐車場やバス停は北側に設けられています。
入園料を払って園内に入ると、「大池」の向こうの小山に旧燈明寺三重塔(後述)が見えます。

池の東岸を進むと、三溪園天満宮があります。
案内板によると、近くにある高梨家という旧家が同区の本牧間門に祀った「間門天神」を、1976年に現在地へ移築したとのこと。

鳥居の先には本殿。関東ではめずらしい春日造です。
一間社春日造、こけら葺。
造営年不明。

向拝柱は面取り角柱。面取りの幅が大きく、古風な技法に見えます。
正面の柱間に虹梁はなく、格子戸が設けられています。格子戸の奥にはすだれがかかっています。
柱上の組物は出三斗。巻斗で軒桁を直接受けています。

向拝柱と母屋柱とのあいだには、海老虹梁がわたされています。海老虹梁の上下には壁が張られています。
向拝の軒裏(左)と母屋の軒裏(右上)との境界部分は、破風板のような部材をつかうことで軒裏の直交部をさばいています。これは古風な形式の春日造で、関東や東日本ではほとんど見かけない技法です*1。
破風板の桁隠しには鰭付きの蕪懸魚が下がっています。鰭は若葉の意匠。

壁面は横板壁が張られています。
縁側は2面(左右両側面)に設けられています。

三溪園天満宮の手前には、橋でつながった島があり、その中央に涵花亭(かんかてい)という東屋が設けられています。
宝形造、茅葺。
旧燈明寺本堂

三溪園天満宮から大池の東岸を進むと、旧燈明寺本堂(きゅう とうみょうじ ほんどう)が西面しています。
桁行5間・梁間6間、入母屋造、本瓦葺。
燈明寺は京都府相楽郡加茂町(現在の木津川市加茂町兎並)にあった日蓮宗寺院。奈良時代の開創と伝わる古寺ですが、明治以降は経営難により荒廃し、現在は廃寺に等しい状況のようです。
この堂は燈明寺の本堂として造られたものですが、1947年の台風で大破し、1949年頃に解体されました。旧材は約30年間保存されたのち、1982-1987年の工事で当園へ移築されました。移築にあたっては旧材を補修し、腐朽した柱を新調しているとのこと。燈明寺は何度か改宗していて、それにあわせてこの本堂にも改造が加えられていますが、現在地へ移築するにあたり、造営当初の室町前期の姿に復元されています。

正面の向拝。
虹梁は眉欠きと袖切だけが彫られたもの。絵様はありません。
中備えは透かし蟇股。内部に彫刻はありません。

向かって右の向拝柱。
向拝柱は大面取り角柱。古い時代のもののため、面取りの幅が大きいです。
柱上の組物は連三斗。柱の側面には禅宗様木鼻がつき、巻斗を介して組物を受けています。

組物の上の手挟は板状のもの。繰型と絵様が彫られています。
向拝の縋破風には、桁隠しとして猪目懸魚が下がっています。

母屋の正面は5間。柱間は中央3間が両開きの桟唐戸、左右両端の各1間は腰貫の上に盲連子の窓が設けられています。桟唐戸は禅宗様、連子窓は和様の意匠です。
向拝柱と縁側のあいだには、角材の階段が設けられています。

母屋柱は円柱。上端は絞られておらず、ここは和様の造りです。頭貫には禅宗様木鼻がついています。
柱上の組物は出三斗。中備えは間斗束。組物と中備えは、軒桁を直接受けています。

左側面。
側面は6間。柱間は桟唐戸と白壁で、後方の4間は柱間が狭くなっています。
軒裏は平行の二軒繁垂木で、和様の意匠。
縁側は切目縁が4面にまわされています。欄干や脇障子はありません。縁束は円柱が使われています。

入母屋破風。
破風板の拝みと桁隠しには猪目懸魚。
妻飾りは虹梁と大瓶束。これは禅宗様の意匠です。


縁側や堂内には進入できませんが、開扉されているため内部の間取りを観察することができます。
正面5間・側面6間のうち、外周の1間通りは化粧屋根裏の庇となっています。また、前方の2間通りは外陣となっていて、母屋部分(庇でない空間)は鏡天井が張られています。
外陣と内陣との境界には菱組みの格子が張られ、奥の内陣部分には仏像が安置されています。
外陣内陣が区画分けされている点や、細部意匠や内部架構に和様と禅宗様が混在している点など、室町時代の折衷様建築(密教建築)の特徴がよくあらわれているといえます。
旧矢箆原家住宅と横笛庵

旧燈明寺本堂から南へ進むと、旧矢箆原家住宅(きゅう やのはらけ じゅうたく)があります。
一重三階、入母屋造、茅葺。
江戸後期(18世紀)の造営。1960年に岐阜県大野郡荘川村(現 高山市)から移築されたもの。
国指定重要文化財。
パンフレットによると“飛騨の三長者”と呼ばれた矢箆原家の旧宅で、“現存する合掌造では最大級の民家”とのこと。

北面。
こちらは軒下に庇と縁側が設けられています。
また、2階には雨戸のついた窓があり、3階部分の入母屋破風には火灯窓の意匠がついています。

旧矢箆原家住宅の近くには横笛庵という草庵があります。
左奥の棟は、寄棟造、茅葺。右の棟は切妻造、とち葺。
1908年造営。
パンフレットによると法華寺(奈良市)からの移築と伝わるようですが、真偽のほどは不明。
旧東慶寺仏殿

旧矢箆原家住宅の西側には、旧東慶寺仏殿(きゅう とうけいじ ぶつでん)が北面しています。
桁行3間・梁間3間、一重、もこし付、こけら葺、寄棟造、茅葺。
1634年(寛永十一年)造営。1907年に東慶寺(鎌倉市)から移築。
概観は禅宗様建築の構造や意匠を採用していますが、比較的新しい時代のもののためか和様の意匠が一部に混じっており、純粋な禅宗様建築とは言いがたい造りをしています。

軒裏は上層(屋根)も下層(もこし)も平行の二軒繁垂木。禅宗様建築は上層の軒裏を扇垂木にすることが多いですが、この仏殿は上層も平行垂木となっています。

下層は正面5間あり、中央の3間は桟唐戸が設けられています。
中央の1間の桟唐戸は飾り金具がつき、連子や桟(扉の板枠)も細かく造られています。

向かって左の2間。
左右両端の柱間は、連子窓ではなく格子の窓が設けられています。

柱は上端が絞られた円柱で、頭貫と台輪に禅宗様木鼻があります。
柱上の組物は出三斗。中備えはありません。

左側面。
木の影になってしまいましたが、下層側面は5間。柱間は、縦板壁、火灯窓、桟唐戸といった禅宗様の意匠が使われています。

上層は正面側面ともに3間。
こちらも柱は円柱で上端が絞られ、頭貫と台輪に禅宗様木鼻があります。
柱上の組物は出組で、柱間に詰組があります。
扁額は判読できず。
旧燈明寺三重塔

大池のほうへ引き返して丘をのぼると、その頂上付近に旧燈明寺三重塔(きゅう とうみょうじ さんじゅうのとう)が鎮座しています。
三間三重塔婆、本瓦葺。
1457年(康正三年)造営。1914年に燈明寺(旧燈明寺本堂の項にて既述)から移築。
国指定重要文化財。

初重南面。
柱間はいずれの重も正面側面ともに3間。
中央の柱間は板戸、左右の柱間は腰長押の上に盲連子の窓が設けられています。


柱は円柱。軸部には長押が多用され、頭貫木鼻はなく、和様建築の造りです。
柱上の組物は和様の尾垂木三手先。柱間の中備えは間斗束で、これも和様の意匠。

東面。
各部の意匠は南面と同様。
軒裏は平行の二軒繁垂木。
縁側は切目縁がまわされています。欄干はありません。

二重。
柱間や細部意匠は初重と同じです。
ただし二重と三重は縁側に跳高欄が立てられています。

三重。
構造は二重とほぼ同じですが、母屋がひとまわり小さく造られているためか、左右の柱間の中備えが省略されています。中備えは、中央の柱間だけに間斗束が立てられています。
二重と三重も軒裏は平行の二軒繁垂木です。

頂部の宝輪。
露盤の上に伏鉢、反花、九輪、水煙、宝珠といった標準的な構成です。

三重塔の南には展望台があり、広大な製油所の施設群と海を望めます。
外苑については以上。