今回も奈良県葛城市の當麻寺について。
当記事では境内の中央にある本堂、講堂、金堂について述べます。
本堂(曼荼羅堂)
境内の中央には本堂(中央)、講堂(右奥)、金堂(左奥)の3棟が鎮座しています。
本堂内部の受付で拝観料(500円)を払うことで、この3棟の堂内を拝観できます。いずれも必見の内容で、訪問の際は外観だけでなく堂内も見て行くことを強くお勧めします。
まずは本堂(曼荼羅堂)から紹介。
桁行7間・梁間6間、寄棟、本瓦葺。国宝に指定されています。
堂の後方を占める内陣部分は平安時代初期に造られたもの*1。改造により前面に大きな庇が付加され、再度の改造で庇を撤去して礼堂(外陣)を付加し、現在の平面となったようです。現在の平面となった年代は、棟木の墨書銘より平安末期の1161年(永暦二年)の改造時とわかっています。
この堂の改造の履歴は、古代の金堂や双堂*2から中世の密教本堂*3へと変遷してゆく過程をなぞっており、日本の寺院建築の歴史を考えるうえで大きな価値のある遺構といえます。
(※画像はWikipediaより引用)
堂内に安置されている本尊は當麻曼荼羅(たいま まんだら)。
内陣は板敷になっていて、中央には国宝の須弥壇と厨子が置かれ、厨子にかけられた當麻曼荼羅を間近で見ることができます。當麻曼荼羅は4メートル四方の巨大な曼荼羅で、阿弥陀三尊や極楽浄土が詳細に描かれています。正式名称は観経浄土変相図。
當麻曼荼羅の原本(根本曼荼羅)は奈良時代から平安初期に作られたもので国宝に指定されていますが、経年劣化による損傷で全体の半分以上を喪失してしまっているらしく、一般公開はされません。根本曼荼羅の製作者といわれる中将姫の伝説については割愛。パンフレットによると堂内に展示されているのは室町時代の文亀年間(1501~1503)に造られた写本で、こちらも国指定重要文化財となっています。
曼荼羅が本尊という寺院はめずらしく、その曼荼羅も規格外のサイズとなっており、信仰心のない私でも圧倒されるほどの迫力。これまで見てきた寺院の中でも、とくに印象深い堂内と本尊でした。
正面は7間。
柱間は板戸になっており、左右両端の各1間は連子窓と蔀戸になっています。
柱は円柱。軸部は長押で固定されています。平安期のもののため頭貫木鼻はなく、純和様の造り。
柱上の組物は出三斗。中備えは間斗束。
左側面(南面)。写真右が前方。
前方の3間は外陣で、柱間は格子の引き戸。内部は畳敷きで格天井になっていました。
後方の3間は本尊が安置される内陣で、柱間は蔀と連子窓。内部は板敷で天井がなく、改造前の堂のものと思われる化粧屋根裏の垂木が観察できました。
背面(西面)。
写真左側に小屋のようなものが外付けされていますが、これは閼伽棚で鎌倉時代に付加されたとのこと*4。
背面の柱間は、写真左端の2間がしっくいの壁、その隣が格子戸、中央は板戸。
閼伽棚の部分。桁行3間・梁間1間、切妻、本瓦葺。
柱は角柱で、組物は出三斗。
中備えには透かし蟇股が置かれ、妻飾りの板蟇股には「大」の字が書かれています。
軒裏は一重でまばら。
講堂
つづいて本堂の北東側にある講堂。南向きに鎮座しています。
桁行7間・梁間4間、寄棟、本瓦葺。
垂木の墨書銘より1304年(乾元四年)再建。当初の堂は1181年の平氏による南都焼討(治承の乱)の兵火を受けて焼失しています。国指定重要文化財。
各所の意匠は、本堂や後述の金堂と同様に和様で造られています。鎌倉時代後期の造営ですが、平安時代や奈良時代の作風に見えます。
堂内は周囲1間が土間、中央奥は板敷の内陣になっています。内陣には阿弥陀如来坐像(国重文)など多数の仏像が安置されており、いずれも平安時代から鎌倉時代に作られた比較的新しい像のようです。
正面。
中央の5間は板戸で、板戸の内部は蔀になっています。左右両端の各1間はしっくい塗りの壁。
柱は円柱。軸部は長押で固定され、木鼻はありません。
柱上の組物は出三斗と平三斗。中備えは間斗束。
左側面(西面)。
前方の1間は板戸が設けられています。
ほか、軒下の意匠は正面と同様。
背面。
こちらは中央の1間のみ板戸が設けられています。
軒裏は平行の二軒繁垂木。
金堂
つづいて本堂の南東側にある金堂。南向きに鎮座しており、境内中心部に背を向ける配置となっています。上の写真は背面(北面)。
当初、私はこちらが正面だと思いこんでいて、堂内に入ってみると仏像が予想と逆の向きに置かれていて、困惑してしまいました。実はこちらが背面だという事実に、ここでようやく気付きました。
内部は周囲1間が土間の通路となっています。
中央部(正面3間・側面2間)の空間は亀腹で盛り上げられた土間の仏壇で、弥勒仏坐像と四天王立像が安置されています。
弥勒仏坐像は飛鳥時代後期(白鳳時代)のもので、国宝。日本最古の塑像とされます。。四天王立像は持国天・増長天・広目天の3像も白鳳時代のもので日本最古の乾漆像とされ、国重文。多聞天像は鎌倉期のものとのこと。国内の四天王像の中では、法隆寺金堂のものについで2番目に古い例らしいです。
反対側、こちら(南面)が正面となります。
手前の屋根の下にある石灯篭は飛鳥時代後期のもので、日本最古の石灯篭とのこと。
金堂は桁行5間・梁間4間、入母屋、本瓦葺。
1184年(寿永三年)の再建と推定されます。国指定重要文化財。
創建当初はこの金堂が當麻寺の中枢(信仰対象)で、もとは南北方向を軸とする伽藍配置だったようです。
平安中期~鎌倉初期にかけての浄土信仰の広まりを受け、メインの信仰対象が本堂(當麻曼荼羅)へと移り、それにともない東西方向を軸とする伽藍が當麻寺の中枢になっていったとのこと。金堂が境内中心部に背を向ける奇妙な配置になっているのは、このような宗教史的な経緯があります。
正面は5間。
中央の3間は板戸で、内部に蔀が設けられています。左右両端の各1間はしっくい塗りの壁。
中央の扉が開いているため、蔀の隙間から内部を覗き見ることもできます。
柱はいずれも円柱。軸部は頭貫と長押で固定されています。頭貫木鼻はありません。
柱上の組物は二手先。持ち出された桁の下には軒支輪。本堂や講堂とくらべて軒下がやや複雑な造りになっています。
中備えは間斗束。
左側面(西面)。
側面は4間。中央の2間に板戸が設けられています。
入母屋破風の内部は豕扠首。破風板の拝みと桁隠しには猪目懸魚。
大棟鬼板には鬼瓦。
改めて背面。
各部の意匠は正面と同じで、外観はほぼ前後対称の造りをしています。
本堂、講堂、金堂については以上。