甲信寺社宝鑑

甲信地方の寺院・神社建築を語る雑記。

【京都市】大報恩寺(千本釈迦堂)

今回は京都府京都市の大報恩寺(だいほうおんじ)について。

 

大報恩寺は市北部の住宅地に鎮座する真言宗智山派の寺院です。山号は瑞応山。通称は千本釈迦堂(せんぼんしゃかどう)

創建は1221年(承久三年)で、藤原秀衡の孫である僧侶・義空によって開かれました。当初は草堂だったようですが、寺領の寄進を受け、摂津国の材木商の支援により現在の本堂が建立されました。当初は3宗派(倶舎宗、天台宗、真言宗)の並立する道場だったようです。吉田兼好の『徒然草』にも、千本釈迦堂についての言及があります。室町時代は応仁の乱で境内を類焼しますが、本堂は延焼を免れました。江戸時代には寺領を安堵されますが、1730年の享保の大火(西陣焼け)で本堂以外の伽藍を焼失しています。明治初期には、北野天満宮にあった観音堂(願成就寺)が、神仏分離令を受けて当寺に移築されました。

現在の境内の大部分は戦後のもののようですが、本堂は創建当初のものが現存し、洛中最古の建造物として貴重であるため国宝に指定されています。ほか、境内には「おかめの墓」とされる塚が伝わっています。

 

現地情報

所在地 〒602-8319京都府京都市上京区溝前町1034(地図)
アクセス 今出川駅または円町駅から徒歩30分
京都東ICから車で30分
駐車場 20台(無料)
営業時間 09:00-16:00
入場料 境内は無料、本堂および霊宝館は500円
寺務所 あり
公式サイト なし
所要時間 30分程度

 

境内

山門

大報恩寺の境内は南向き。入口は住宅地の生活道路に面しています。

右の寺号標は「国宝 千本釈迦堂」。

 

参道を進むと、山門と築地塀があります。

山門は、一間一戸、高麗門、切妻、本瓦葺。

 

柱は角柱で、前方(写真右)に腕木を持ち出して軒桁を受けています。腕木と柱の接続部には、木鼻のような意匠の持ち送り材が添えられています。

 

後方から見た図。

後方の控柱には、低い切妻屋根がかけられています。

 

経王堂とおかめ塚

山門をくぐると、左手に経王堂(願成就寺、北野経王堂)が鎮座しています。

寄棟、本瓦葺。

当初は北野天満宮の願成就寺の伽藍として、1605年(慶長十年)に再建されたもの。1671年に改築され、明治初期の廃仏毀釈にともない現在地に移され、その際に減築(規模縮小)されたとのこと。

神宮寺*1の遺構として貴重で、江戸初期の建築としても貴重ですが、後世の改変が顕著なようで、当初の部材や形式がどこまで残されているのかは不明。そのせいか、この堂はとくに文化財指定されていないようです。堂とともに大報恩寺に移管された一切経や木像については、霊宝殿(宝物館)に収蔵され、国重文となっています。

 

向拝柱は几帳面取り。上端が絞られています。

柱の側面は象鼻。柱上は出三斗。

 

虹梁中備えは板蟇股。蟇股の上から、木鼻が突き出ています。

 

母屋柱は円柱。柱上は舟肘木。

柱間は長押で固定。頭貫木鼻はありません。

 

経王堂の向かいにはおかめ塚。

左がおかめ像。立て札の影になってしまいましたが、右奥の石造の宝篋印塔が「おかめの墓」とされるおかめ塚。

当寺で信仰されている「おかめ」は、当寺の本堂の棟梁をつとめた長井飛騨守高次の妻。詳細は割愛しますが、夫の失敗を救うため助言をあたえ、そのおかげでいまも残る本堂が完成したという伝説があります。その後、本堂は応仁の乱でも焼け残ったため、おかめはより一層の信仰を集めたとのこと。

なお、面のおかめ(お多福)については、岩戸隠れの伝説で活躍したウズメ(鈿女)がモデルだという説が主流で、当寺の「おかめ」は名前が同じだけで直接の関係はないようです。

 

本堂(千本釈迦堂)

参道の先には本堂が鎮座しています。通称は千本釈迦堂。

桁行5間・梁間6間、入母屋、向拝1間、桧皮葺。

1227年(安貞元年)上棟国宝*2

本尊は秘仏の釈迦如来坐像。

 

当寺の創建当初の伽藍であり、洛中最古の建築*3。中世にさかのぼる建築は京都市内でも貴重ですが、この堂は応仁の乱(1467~1477)の戦火を免れて現存しており、この点でも非常に貴重です。

概観は、平面の規模(床面積)のわりに棟が低く、安定感のある落ち着いたプロポーション。細部は、内外ともに純然たる和様の意匠で構成されており、質素かつ清楚な趣。平安~鎌倉初期の作風をとどめた、和様建築の好例といえるでしょう。

 

向拝は1間。

あまり太くない向拝柱が使われ、広々とした印象。

 

向かって右の向拝柱。

向拝柱は大面取り角柱。古い建築のため、面取りの幅が非常に大きいです。

 

向かって左の向拝柱。

柱上の組物は連三斗。柱の側面には斗栱が出て、出三斗を持ち送りしています。

 

虹梁中備えは透かし蟇股。

彫刻は幾何学的な曲線を組み合わせた意匠。寺社彫刻が発展する前の時代のもののため、平板な造形です。

蟇股の上には巻斗。実肘木はなく、軒桁を直接受けています。

 

正面の軒下。

向拝と母屋をつなぐ梁はありません。

母屋の正面は5間。柱間は上下に跳ね上げる半蔀戸。

 

正面向かって右の軒下。

母屋柱は円柱。軸部は長押と頭貫で固定されていますが、頭貫に木鼻はありません。

 

組物は出組。頭貫の上の中備えは間斗束。

組物によって桁が持ち出され、桁下には軒支輪。

 

右側面(東面)。

側面は6間。

縁側は切目縁が4面にまわされ、欄干はありません。縁の下は、円柱の縁束で支えられています。

 

左側面(西面)。

前方の1間は板戸で、拝観時はここから出入りします。

 

左側面の縁側。

後方の4間は内陣に相当する部分で、柱間は舞良戸が入っています。

 

屋根は檜皮葺ですが、大棟は瓦が使われています。

破風板の拝みには猪目懸魚。桁隠しはありません。

奥まった妻壁には、豕扠首があります。

屋根の軒裏は、二軒繁垂木。

 

背面。

中央の1間は半蔀戸、ほかの4間は白壁。

 

堂内の外陣を、横から見た図。写真右が正面側。

正面5間・側面6間の平面になっていますが、外周の1間通りは庇というあつかいらしく、化粧屋根裏の垂木が見えます。

外陣の中央部分は、太く長い梁をわたして柱を省き、空間を広く取っています。

 

内外陣の境界部には、格子戸と菱組の欄間が入っています。

このように内陣と外陣を建具で区切るのは、中世の密教本堂の大きな特徴のひとつです*4

 

内陣には四天柱が立てられ、その中央には須弥壇が据えられています。

四天柱には仏画が描かれています。柱をつなぐ長押は彩色されています。

須弥壇には和様の厨子が置かれていますが、秘仏なので閉扉されていました。厨子は本堂の附として国宝、その内部の釈迦如来像は行快(運慶の孫弟子)の作で、国指定重要文化財のようです。

 

間取りは密教本堂に似ていますが、本尊のまわりを常行*5できる構造になっており、天台宗系の常行堂に近い造りのようです。当寺は真言宗寺院ですが、当初は天台宗も並立していたため、そのなごりが構造として残っているのではないかと思います。

 

本堂の裏手の北西側には霊宝館。内部は撮影禁止。

本堂の附として国宝指定されている棟木と棟札や、国重文の仏像が多数展示され、充実した内容でした。

 

以上、大報恩寺でした。

(訪問日2023/02/23)

*1:神社の境内にある寺院のこと。別当ともいう。明治初期の神仏分離令を受け、ほとんどの神宮寺は神社から分離されたり破却・廃寺となったりした。

*2:附:厨子、旧棟木3本、棟札3枚

*3:洛中は京都市街のことを指す。京都市で最古の建築は、醍醐寺五重塔。

*4:密教本堂は、参詣者のための外陣と、修行者のための内陣に区画分けされた間取りが特徴。ほか、正方形の平面も特徴のひとつだが、この本堂は桁行5間・梁間6間で、正方形ではない。

*5:数日間にわたって堂にこもり、仏像の周囲を歩きつづける修行・祈祷のこと