甲信寺社宝鑑

甲信地方の寺院・神社建築を語る雑記。

【京都市】西本願寺(本願寺) その3 唐門

今回も京都府京都市の西本願寺について。

 

その1では御影堂などについて

その2では阿弥陀堂などについて述べました。

当記事では唐門などについて述べます。

 

経蔵

御影堂向かって右手前(北東)には、経蔵が南面しています。内部には、天海版一切経が収められているようです。

桁行3間・梁間3間、一重、裳階付、宝形、本瓦葺。

1678年(延宝六年)造営。「本願寺」7棟として国指定重要文化財*1

 

下層の中央は桟唐戸。戸の上には長押が打たれ、中備えに蟇股が置かれています。

左右の柱間は、盲連子の火灯窓。

おそらく内部は土間床ですが、基壇には木製の欄干が立てられ、縁側としています。

下層の軒裏は平行の二軒繁垂木。

 

上層。扁額は「転輪蔵」で、額縁は極彩色の波や雲が描かれています。

上層の柱間は長押で固定され、柱上は大斗と舟肘木。和様の意匠です。

ただし軒裏は放射状(扇垂木)の二軒繁垂木で、ここは禅宗様の意匠です。

 

左側面(西面)。

軒下の意匠は上層下層ともに正面とほぼ同じです。

 

鼓楼(太鼓楼)

阿弥陀堂門から境内を出て、国道に沿って北へ数十メートル行くと、境内の北東の隅に鼓楼(ころう)があります。

二重、入母屋、本瓦葺。

1760年(宝暦十年)再建。こちらも「本願寺」7棟として国重文です。

 

1865年に壬生から西本願寺へ拠点を移した新撰組は、この鼓楼を詰所として使っていたようです。新選組メンバーのほとんどは内紛や戦闘で幕末のうちに死亡していますが、明治まで生き延びた島田魁は当寺の守衛として余生を過ごし、亡くなるまでこの鼓楼の太鼓番をつとめたらしいです。

 

入母屋破風は、上層下層ともに木連格子が張られ、拝みに蕪懸魚が下がっています。

上層の壁面には盲連子の窓がつき、その下は下見板の袴腰です。

 

総門

御影堂門(写真奥)から国道(堀川通)をはさんだ向かいには、総門が東面しています。車道に門がかかっており、ときおり乗用車が門を通過していきます。

一間一戸、高麗門、本瓦葺。

1711年(宝永八年)造営。「本願寺」7棟として国重文

 

柱は角柱で、面取り部分は銅板でカバーされています。

柱の正面と側面には木鼻。

通路上には虹梁がわたされ、中備えは蟇股。蟇股の前方には腕木が出て、軒桁を支えています。

 

背面。

後方にのびる低い屋根の破風板には、猪目懸魚が下がっています。

 

唐門

正面の門(阿弥陀堂門または御影堂門)から境内を出て南へ向かい、興正寺とのあいだにのびる細道を西へ進むと、龍谷大学の近くに唐門が南面しています。

各所に彫刻が配され、桃山風の極彩色で塗り分けられた壮麗な門で、日光東照宮の陽明門と同様に「日暮門」の別名があります。ただし、彫刻は造営当初のものではなく、後世に付加されたもののようです。

 

一間一戸、四脚門、入母屋、正面背面軒唐破風付、檜皮葺。

国宝に指定されています。

造営年不明。1618年移築、寛永年間(1624-1645)に現在地へ再移築。桃山時代から江戸初期の造営

造営年については諸説あります。聚楽第や伏見城から移築された説がありますが、大徳寺唐門との比較から、この唐門は慶長年間(1596-1615)以降のものと考えられ、聚楽第や伏見城の説は否定されています。そして、1618年(元和四年)の西本願寺の記録に、この唐門の存在が確認できるとのこと。よって、1596年頃から1618年にかけて造営されたものと推定されます。

 

正面の唐破風の軒下。

虹梁(写真下の梁)の中備えは、木鼻のついた平三斗。その左右には、麒麟と思しき神獣の彫刻。

唐破風の虹梁(写真中央の梁)は中央に大瓶束がつき、束の左右は牡丹に唐獅子の彫刻がはめ込まれています。

 

正面向かって左の控柱。

控柱は几帳面取り角柱。正面には唐獅子の木鼻、側面には籠彫りの牡丹がついています。

柱上の組物は出三斗。

 

左側面(西面)。

主柱(写真中央の柱)は円柱で、上端がわずかに絞られています。主柱の側面上方には、繰型のついた冠木が突き出ています。

主柱と控柱のあいだの欄間には彫刻があります。題材は解りませんが、中国の故事を題材にしているようです。

柱間をつなぐ頭貫の上には、竹に虎の彫刻。

 

入母屋破風。

妻面には亀甲(六角形)のパターンの欄間が張られ、中央に白い鶴の彫刻があります。

破風板は飾り金具が付き、拝みには鰭付きの蕪懸魚。

 

内部。門扉は桟唐戸。

桟唐戸の羽目板には、牡丹や唐獅子の彫刻が配されています。

 

桟唐戸の上の細長い欄間には、竜の彫刻。

その上の唐破風の欄間には、孔雀の彫刻のついた蟇股が置かれています。孔雀は立体的な造形で、非常に存在感があります。

蟇股の左右には、松と笹の彫刻があります。

 

唐門周辺の伽藍

唐門の左側(西側)には、大玄関門が南面しています。閉門されているため、通行はできません。

 

中央の門は、三間一戸、薬医門、切妻、本瓦葺。

大規模な薬医門で、内部に格天井が張られているのが確認できます。

 

門の左右には、番所らしき小屋がついています。

向唐破風、本瓦葺。

 

西本願寺境内の南側の区画には、龍谷大学本館が東面しています。現在、龍谷大学は西本願寺とは別の法人ですが、1639年に西本願寺境内に開かれた学寮が大学の前身にあたるため、両者は深い関わりがあります。

 

奥に見えるのが龍谷大学本館で、1879年(明治十二年)竣工の洋風建築です。案内板*2によると、“関西における洋風建築の先駆をなす斬新な建物として重要な意味を持”つとのこと。

「龍谷大学」4棟として国重文。手前にある石造の門も、本館の附として国重文に指定されています。

 

龍谷大学本館の前を通過して南へ向かうと、七条通に面した場所に門が南面しています。名称は不明。

一間一戸、高麗門、切妻、本瓦葺。

 

柱は面取り角柱が使われ、側面に木鼻がついています。

虹梁中備えには蟇股。柱と蟇股から腕木が出て、軒裏を受けています。

 

前述した総門(西本願寺の東側にある高麗門)と様式も意匠も規模もよく似ていると思うのですが、こちらはとくに重要文化財には指定されていないようです。

 

背面。

門の左右には袖塀がつながっています。

 

以上、西本願寺でした。

(訪問日2023/11/18)

*1:棟札2枚、御成門、目隠塀、築地塀3棟

*2:京都市による設置