今回も大阪府河内長野市の金剛寺について。
その2では多宝塔、金堂、鐘楼について述べました。
当記事では薬師堂、五仏堂、御影堂などについて述べます。
薬師堂
多宝塔と金堂の先へ進むと、さらに一段高い区画に入ります。
この区画の南側に鎮座しているのが薬師堂。東向き。
桁行3間・梁間3間、宝形、向拝1間、本瓦葺。
豊臣秀頼により1606年(慶長十一年)再建。「金剛寺22棟」として国重文。
向拝柱は角面取り。大きめに面取りされています。
側面の木鼻は象鼻。上にのった巻斗を介して、組物を持ち送りしています。
組物は、柱上に連三斗が置かれています。
虹梁中備えは二斗(ふたつど)。あまり見かけない、めずらしい意匠です。
組物の上では板状の手挟が置かれ、軒裏を受けています。
向拝の縋破風の桁隠しには懸魚。
母屋は正面側面ともに3間。
正面中央は両開きの板戸で、その下は格子戸。左右の柱間は横板壁。
母屋柱も面取り角柱。
軸部は長押で固定され、頭貫木鼻は使われていません。
柱状の組物は、舟肘木と実肘木の中間的なものが使われています。
中備えはありません。
側面。
こちらは前方の1間が格子戸、後方の2間が横板壁。
その他の意匠は正面側と同様。
縁側は切目縁が4面にまわされ、欄干は擬宝珠付き。
軒裏は二軒繁垂木。
なお、薬師堂の裏手には愚聞持堂という堂があり、こちらも国重文だったのですが、通路が倒木により通行止めになっておりやむなく断念。
今回の訪問は見落としてしまった伽藍がいくつかあったため、いずれ再訪したいところ。
五仏堂
境内西側の一段高い区画の中央に鎮座するのが五仏堂(五佛堂)。
桁行3間・梁間3間、宝形、正面庇1間通り、向拝1間、檜皮葺。
薬師堂と同様、1606年の再建。「金剛寺22棟」として国重文。
母屋に向拝が付くという一般的な形式ではなく、母屋の前に正面3間・側面1間の庇(外陣)が付き、さらにその軒先に向拝が付くといった風変わりな形式になっています。
向拝柱は角面取り。側面に象鼻。柱上は連三斗。
この辺りは前述の薬師堂とほぼ同じ造り。
虹梁中備えは蟇股。
はらわたには鷹と思しき鳥が彫られていますが、欠損して肝心の頭の部分がなくなってしまっています。
向拝部分は軒裏が三重になっています。
組物の上には板状の手挟。縋破風の桁隠し(懸魚)も薬師堂のものと似ています。
母屋部分の軒裏は二軒繁垂木。
母屋の前方の空間は、側面1間通りの庇となっています。
周囲4面には切目縁がまわされていますが、庇の空間は床が少し高くなっています。
庇の柱は角柱。柱上には台輪がわたされています。
柱上は出三斗で、実肘木ではなく花肘木が使われています。
台輪の上の中備えも、あまり見慣れない意匠が使われています。
蟇股だと思うのですが、標準的な蟇股(たいていは丸みを帯びた台形)を上下に2つくっつけたような奇妙なシルエット。
母屋の柱も角柱で、柱上に台輪がわたされています。
組物は出三斗と花肘木。
母屋と庇はまっすぐな細い梁でつながれています。
母屋正面は蔀で、蔀を跳ね上げると障子戸になっています。
側面は前方1間が板戸、後方2間が壁。
薬師堂(左)と五仏堂(右)は、このような廊下でつながれています。
文化遺産オンラインによると五仏堂の一部という扱いのようです。
切妻、桟瓦葺。
柱は角柱、柱上は舟肘木。天井はなく、まばら垂木。
観月亭と御影堂
五仏堂向かって右、境内北側には観月亭が東面しています。
観月亭の廊下は切妻、檜皮葺。この廊下は五仏堂の一部という扱いの模様。
舞台は唐破風造、檜皮葺。
後述の御影堂とともに1606年造営。「金剛寺22棟」として国重文。
観月舞台の妻面。
柱は角柱、柱上は舟肘木と実肘木。唐破風の小壁には蟇股。
軒裏はまばらな茨垂木になっています。
縁の下は二手先の腰組で支えられています。
縁側の欄干は擬宝珠付き。
裏手(西側)には、観月舞台と一体化した御影堂(みえどう)が南面しています。
桁行4間・梁間3間、宝形、正面向拝1間、背面向拝2間、檜皮葺。
母屋の正面は4間(向かって右側は観月舞台)あり、向かって左から3間のところに向拝が設けられ左右非対称となっています。
向拝柱は角柱。面取りの幅がかなり大きいです。
側面の木鼻は竜の頭。上に皿斗がのり、組物を持ち送りしています。
組物は連三斗。
虹梁中備えは蟇股。竜が彫刻されています。
組物の上の手挟は、植物の意匠の籠彫り。
向拝柱と母屋をつなぐ懸架材はありません。
軒裏はまばら垂木。
母屋正面。
向かって左端は板戸、ほかの3間は蔀戸。蔀の下は障子戸になっています。
母屋柱も角柱。柱上は舟肘木。
軸部は長押で固定され、木鼻はありません。
左側面(西面)はいずれも舞良戸。
縁側の欄干の柱を上へ伸ばし、軒先の支えとしています。
背面にも向拝があり、こちらの向拝は2間となっています。
背面向拝がある寺社建築は少数ながら存在しますが、2間という半端な数(向拝は1間か3間がほとんど)のものは非常にめずらしいと思います。
背面には扉がありませんが、この堂の後方には法具蔵や護摩堂があり、そちらへの通路にするために向拝を設けたのではないかというのが私の予想。
背面の向拝柱は角柱。柱上は大斗で、横に長い舟肘木で桁を受けています。
向拝柱の側面には木鼻が設けられています。
その他の伽藍
御影堂の後方にもいくつかの伽藍があり、いずれも国重文に指定されています。
こちらは御影堂の裏手に東面する法具蔵。
桁行3間・梁間3間、切妻、本瓦葺。
1606年造営。「金剛寺22棟」として国重文。
前方の1間は吹き放ちの空間となっています。
角柱の上には舟肘木。妻飾りはシンプルな束。
法具蔵のとなりには護摩堂が南面しています。
桁行3間・梁間3間、宝形、本瓦葺。
こちらも1606年造営。「金剛寺22棟」として国重文。
正面側面ともに3間で、中央の柱間に板戸が設けられています。
柱は角柱。頭貫木鼻は拳鼻。組物は大斗と舟肘木。
護摩堂の裏手のさらに高い区画へ登ると、開山堂が東面しています。
宝形、こけら葺。
こちらは5代将軍・徳川綱吉により1700年造営。「金剛寺22棟」として国重文。内部の石造三重塔2基も附となっているようです。
境内最奥部には光厳天皇陵。宮内庁の管轄地ですがここは墓(陵)そのものではなく、分骨所とのこと。
光厳天皇と金剛寺の関連は不明ですが、おそらく皇太子が当地に拘留された関係によるものと思われます。
光厳天皇(こうごん-、1313-1364)は北朝の初代天皇。元弘の乱で失脚した後醍醐天皇の次代として即位しますが、復帰した後醍醐天皇によりその皇位を否定され、南朝と北朝の対立、すなわち南北朝時代が始まります。その後の光厳天皇は南朝方に拉致・軟禁され、のちに出家して常照皇寺(京都市)の僧として晩年を過ごしました。
薬師堂、五仏堂、御影堂などについては以上。