甲信寺社宝鑑

甲信地方の寺院・神社建築を語る雑記。

【京都市】八坂神社 その4 十社、大国主社など

今回も京都府京都市の八坂神社について。

 

その1では南楼門と舞殿などについて

その2では本殿について

その3では透塀、美御前社、悪王子神社などについて述べました。

当記事では、十社、大国主社などの境内西側の社殿について述べます。

 

神馬舎、十社、大年社

本殿向の左後方(北西)には神馬舎(しんめしゃ)。内部には、白い馬の木像が置かれています。

切妻(妻入)、桟瓦葺。

1928年(昭和三年)造営。「八坂神社」28棟1基として国指定重要文化財

 

神馬舎の南には、2棟の境内社が東向きに並立しています。

こちらの長い社殿は十社(じゅっしゃ)。春日社や諏訪社などが祀られています。

十間社流造、向拝十間、銅板葺。見世棚造。

1877年(明治十年)造営。神馬舎と同様に国重文です。

 

向拝柱は角柱、母屋柱は円柱。柱上は舟肘木。

向拝の側面(写真中央右)は、ふつうは吹き放ちにしますが、白い壁板が張られています。

 

妻飾りは豕扠首。

破風板に懸魚はついていません。

 

向拝および母屋は正面10間で、十間社流造(じっけんしゃながれづくり)という様式。母屋の正面には10組の扉が並んでいます。

神社本殿の正面の間数はたいてい奇数で、偶数だったとしても2間の場合がほとんどのため、10間というのは非常にめずらしいです。

 

十社の左側には大年社(おおとししゃ)。祭神は、スサノオの子の大年神。

大年社本殿は、一間社流造、銅板葺。見世棚造。

1654年(承応三年)頃の造営国重文

 

向拝柱は面取り角柱。柱上は舟肘木。

向拝の正面には梁がわたされ「大年社」の扁額が掲げられています。

 

母屋柱は円柱。柱上は舟肘木。

十社と同様に、向拝の側面に壁が張られています。

妻飾りは豕扠首。

 

大国主社

大年社の後方には、大国主社が南面しています。祭神は大国主、事代主、スクナビコナ。

入口の鳥居は石造明神鳥居。扁額はありません。

鳥居の右手前には、大国主と因幡の白兎の像があります。

 

大国主社本殿は、一間社流造、銅板葺。

1877年(明治十年)頃の造営。国重文

 

向拝柱は上端の絞られた面取り角柱。

側面には獏の木鼻。

組物は皿付きの出三斗。獏の頭上に皿斗が乗り、組物を持ち送りしています。

 

虹梁中備えは竜の彫刻。

 

正面には角材の階段が7段。階段の木口や、欄干の親柱の擬宝珠には、飾り金具がついています。

階段の下には浜床が張られ、向拝柱は浜床の上に立っています。

 

母屋柱は円柱。

神座の扉は、柱筋から奥まった位置にあります。

扁額には祭神の名前が書かれています。

 

海老虹梁はゆるやかにカーブした形状。向拝の組物の上から出て、母屋の頭貫の位置に取り付いています。

破風板の拝みと桁隠しには、猪目懸魚が下がっています。

 

頭貫には拳鼻。

柱上の組物は出三斗。中備えは蟇股。

妻飾りは豕扠首。

 

蛭子社

参道をはさんで大国主社とはす向かいの位置には、蛭子社(えびすしゃ)が北面しています。通称および別名は、北向蛭子社、祇園蛭子社、祇園のえべっさん。祭神は事代主。

入口の鳥居は石造明神鳥居。扁額は「北向 蛭子神社」。

 

蛭子社本殿は、一間社流造、左右両側面及び背面庇付、こけら葺。

1646年(正保三年)造営国重文

 

その3で述べた美御前社と同様に、左右と背面の3面に庇がまわされた構造です。

母屋柱は円柱で、妻飾りには大きな板蟇股が見えます。

破風板には、拝みに猪目懸魚が下がっています。

 

太田社

大国主社・蛭子社から西楼門のほうへ向かうと、参道の右手に太田社(おおたしゃ)が西面しています。祭神はサルタヒコとウズメ。

入口の鳥居は石造明神鳥居。扁額は「太田神社 白髭神社」。

 

太田社本殿は、拝所を兼ねた庇が本殿の周囲にめぐらされ、この庇も本殿の一部というあつかいのようです。

一間社流造、銅板葺。四周庇付、向唐破風、向拝1間 切妻(妻入)、銅板葺。

1913年(大正二年)造営。国重文*1

 

庇の正面向かって左側の柱を、後方から見た図。

古式の作風を意識したのか、面取りの幅が大きいです。

 

向拝の虹梁中備えの板蟇股。

こちらも古風な形状です。

 

本殿部分は通常の一間社流造です。

 

向拝柱は几帳面取り。側面には獏の木鼻。

柱上には連三斗。

 

母屋柱は円柱。頭貫には木鼻がついています。

組物は出組で、柱間にも組物が配されています。

扁額は「太田社 白髭社」。

 

左側面(北面)。

破風板の拝みには、三花懸魚のようなものが下がっています。桁隠しの懸魚は雲の意匠。

 

疫神社

太田社向かって左側(北)には、疫神社(えき-)が西面しています。祭神は蘇民将来。

入口には石造明神鳥居。扁額はありませんが、額束に「疫神社」と彫られています。

 

美御前社や蛭子社と同様に、本殿周辺には庇がついていますが、こちらの疫神社はさらに向唐破風の拝所がついています。

一間社流造、左右両側面および背面庇付、正面拝所付 向唐破風、銅板葺。

1823年(文政六年)頃の造営国重文

 

拝所の柱は面取り角柱。面取りの幅が非常に大きいです。

柱上は大斗と舟肘木。

柱の正面には木鼻があります。

内部に天井はなく、軒裏はまばらな茨垂木。

 

本殿部分。

母屋柱は円柱。頭貫には拳鼻。

組物は出組で、中備えは黒く彩色された蟇股。

妻飾りは細い材で組まれた豕扠首。

母屋の周囲3面(左右と背面)には庇がまわされ、庇の柱は角柱が使われています。

 

向かって左から見た図。

庇は、唐破風のようにカーブした形状となっています。

向拝柱の上の組物は、連三斗が使われています。

 

十社、大国主社などについては以上。

その5では西楼門とその周辺の社殿について述べます。

*1:附:棟札、化粧野地板