今回も山形県鶴岡市の出羽三山神社(でわ さんざん-)について。
当記事では、国宝の五重塔と、そこに至るまでの参道について述べます。
参道
脇道から戻って随神門をくぐると参道は下り坂になり、川の流れる谷底へ降りてゆくことになります。たいていの寺社は往路が上り坂なので、この参道はちょっと困惑してしまいます。
参道を下る神社というと貫前神社(群馬県富岡市)がありますが、この出羽三山神社は山の中にあるので貫前神社とはまたちがった趣です。
参道を下ると多数の境内社が並立する区域を通ります。
どれも似たり寄ったりの一間社流造(いっけんしゃ ながれづくり)なので割愛しますが、よく見てみると細部の意匠がそれぞれ微妙にちがっており、いちおうの個性があります。
「神橋」という名称の赤い橋を渡ると、参道右手に須賀の滝が現れます。
こちらは須賀の滝へ行く途中にある橋。
石積みをセメントで固めた橋脚に、板状の天然石を載せた、なんとも名状しがたい造り。しかも小雨で路面がぬれているので、油断して渡ると痛い目を見そうです。
須賀の滝の前を素通りすると参道が登りになります。
写真は「爺杉」なる杉の大木。ここまで来れば、五重塔は目前です。
五重塔
杉並木の参道を進むと、林立する杉の中に五重塔が現れます。緑の中にすらりと佇む姿が印象的。
五重塔はこけら葺。方三間(3間四方)、五重。総高28.2メートル。
造営は室町時代。東北地方では最古の塔とされ、国宝に指定されています。
棟札の写しによれば、1369年(応安2年)着工、1377年(永和3年)に相輪をのせて竣工。江戸初期の1608年に最上義光による修理を受けたとのこと。
周辺は江戸初期に廃寺になった瀧水寺という寺院の境内で、この五重塔は仏教要素の強い建築ですが明治期の廃仏毀釈も乗り越えて現存しています。
初重内部の須弥壇には、本尊の聖観音および脇侍の軍荼利明王・妙見菩薩の計3体の前立が安置されていたようです。
初重の正面。中央の間口は格子戸。
柱はいずれも円柱で、軸部は長押(なげし)を多用して固定されています。
初重の側面および背面。
大部分は正面と共通ですが、中央の間口は板戸が使われています。
初重の軒下。
柱上の組物は三手先。先端が平らな和様の尾垂木が組物から突き出ています。
組物のあいだには間斗束(けんとづか)と巻斗(まきと)が並べられ、組物によって三手先に持出しされた桁の下には軒支輪が見えます。
軒裏は二軒(ふたのき)で平行の繁垂木。
縁側は壁面と直交に板を張った切目縁(きれめえん)。欄干はなく、床下はC面取りされた縁束で支えられています。
床下。基壇はなく、石の土台の上に柱と束が立てられています。
母屋柱の床下は四角柱でした。おそらく四角柱の部分は江戸期以降の修復ではないでしょうか。こんな頼りない土台の上でこのような高層建築を600年以上にわたって支えつづけるのは、さすがに無理があると思います。
右側面から見上げた図。
二重から五重までは、初重とほぼ同じ造り。初重と異なるのは、縁側に跳高欄(はねこうらん)がついていることと、母屋の窓が格子になっていること。
右側面の全体図。初重は母屋が縦長に造られているように見えます。
室町以降の寺院建築は部分的に禅宗様の意匠が使われることが珍しくないですが、この五重塔は木鼻さえ使われておらず、禅宗様がいっさい見当たりません。純然たる和様建築です。
室町初期の造営のため彫刻のような派手な装飾もなく、それだけに塔そのもののプロポーションやシルエットの良さを純粋に味わえます。また、塔の周囲の景色との調和もみごとで、五重塔としてはそこまで大規模ではないものの、ロケーションが良いため印象に残る物件だと思います。
羽黒山五重塔については以上。
この先へすすむと山の上に国重文の三神合祭殿などがあり、車で行くこともできるようですが、悪天候のうえ他に予定があったのであえなく断念。期日未定ですが再訪したときにはそちらの個別記事も書きたいです。
以上、出羽三山神社でした。
(訪問日2020/08/12)