甲信寺社宝鑑

甲信地方の寺院・神社建築を語る雑記。

【上田市】信濃国分寺(八日堂)

今回は長野県上田市の信濃国分寺(しなのこくぶんじ)について。

 

信濃国分寺は上田市南部の国道18号線に面した場所に鎮座している天台宗の寺院。山号はなく、八日堂(ようかどう)の通称で呼ばれています。

奈良時代に聖武天皇の命で各国につくられた国分寺の後継にあたり、東信最大クラスの本堂と重要文化財の三重塔が建っているなど、非常に充実した境内となっています。

 

現地情報

所在地 〒386-0016長野県上田市国分1049(地図)
アクセス 信濃国分寺駅から徒歩10分
上田菅平ICから車で15分
駐車場 10台(無料)、信濃国分寺資料館に50台(無料)
営業時間 随時
入場料 無料
寺務所 あり
公式サイト 八日堂 信濃国分寺
所要時間 20分程度

 

境内

仁王門

国分寺の仁王門

境内の入口となる仁王門は、国道18号線に面した場所に立っています。

仁王門は桟瓦葺の入母屋(平入)。正面3間・側面2間の三間一戸。柱は円柱。

 

寺号標は「八日堂 信濃国分寺」。信濃国分寺では正月8日に縁日を行うのが恒例のため、八日堂という通称でも知られます。また、県内では蘇民将来のお守りでも著名。

 

国分寺仁王門の軒下

仁王門の軒下。

垂木は二重。組物は三手先の平三斗(ひらみつど)で、尾垂木(おだるき)がつき出ていて凝ったものになっています。

 

境内の堂宇

信濃国分寺の境内

仁王門をくぐって住宅街の中を数十メートルほど進むと、境内が広がっています。

正面に見えるのが本堂、右が三重塔。

 

本堂と三重塔の解説にうつる前に、境内のその他の堂宇から。

国分寺境内の仏堂

こちらは名称不明の仏堂。内部には多数の仏像が収められていました。

貫の上には詰組(つめぐみ:柱間に置く組物のこと)が使われており、やや禅宗様っぽい雰囲気。

 

この仏堂の隣には、上田城の戦い(第2次)における「真田 徳川 会見の地」なる石碑がありました。

関ヶ原の戦いの折、西軍について上田城で抗戦した真田昌幸・幸村親子と、東軍について徳川秀忠に従軍した真田信之が、互いに敵として会見することになったのが信濃国分寺のようです。

 

国分寺の大黒天
こちらは本堂の左手にある甲子大黒天

特に変わった造りをしているわけではないのですが、正面の向拝の軒下には流派不明の彫刻がならんでおり、とてもにぎやか。

国分寺の大黒天の向拝

題材も独特で、信州の寺社を多くまわっている人がこれを見たら「なんだこれ...」と困惑すること請け負い。よく手入れが行き届いている割にはハチの巣がそのままにされているのも、なんとなく笑えます。

 

国分寺の鐘楼

三重塔の隣には鐘楼(鐘つき堂)があります。

鐘楼は桟瓦葺の入母屋。

 

屋根裏の垂木は放射状に延びており(扇垂木という)、これは禅宗様の意匠

2階には天井絵が収められており、小屋組を支える柱は円柱でした。

 

本堂

国分寺本堂

境内の中央に堂々と鎮座しているのが本堂

東信地方の歴史的建造物として最大クラスで、長野県宝に指定されています。

本堂は桟瓦葺の入母屋(妻入)で、正面4間・側面6間、裳階(もこし)付き、正面に向唐破風(むこうからはふ)の向拝1間。

正面の向拝の軒下には、鳳凰や唐獅子の彫刻が配置されています。

 

案内板(長野県・上田市教育委員会)によると、建立は1860年(万延元年)で、起工から31年の歳月を要したとのこと。棟梁は小諸の田島喜平、彫刻は地元の竹内八十吉。

本尊は薬師如来。各国の国分寺の本尊はたいていが釈迦如来なのですが、なぜか信濃国分寺は例外的に薬師如来が祀られているようです。

 

向拝の軒下の彫刻はいかにも江戸期の作風ですが、屋根には江戸中期に誕生した桟瓦が使われており、ぱっと見ただけでも江戸中期以降のものだとわかります。

 

国分寺本堂の左側面

本堂の左側面。

屋根の形状を見ると、通常の入母屋(妻入)であることがわかります。

正面図は善光寺本堂とよく似ていますが、善光寺は棟がT字になった撞木造(しゅもくづくり)という様式であり、ふつうの入母屋ではありません。なので、この本堂は善光寺本堂とはちがう建築様式です。

 

また、屋根が二重になっている点も、善光寺本堂とそっくりに見える理由の1つでしょう。

この本堂や善光寺本堂は一見すると2階建てのように見えますが、下の屋根はじつは屋根ではなく裳階(もこし)という庇(ひさし)の一種です。

階の途中に、外周をぐるりと一周囲むように設けられた庇のことを裳階といい、寺院建築でしばしば見られます。裳階についての解説は善光寺本堂の記事に詳しいので、よければご参照ください。

つまるところ、この本堂は2階建てではないわけで、実際に中に入ってみると2階のない平屋となっています。

 

国分寺本堂の背面

背面の軒下。

写真は裳階の下で、柱間の数は5つあります。なお、裳階の上は正面・背面ともに柱間4つとなっており、裳階の上と下とで柱間の数がちがう場合は、裳階の上のほうの柱間で規模を表すのが正しいです。

よって、この本堂は梁行(正面・背面)4間。

 

ちなみに、ここで言っている「間」は尺貫法の単位のことではなく、柱間がいくつあるかです。

案内板によるとこの本堂の1間は8尺、つまり約2.4メートルです。

 

三重塔

国分寺の三重塔

本堂の正面右手には、重要文化財の三重塔が建っています。

三重塔は銅板葺で、正面3間・側面3間。全高20.1メートル。

 

案内板(上田市教育委員会)によると“塔内に建久8年の墨書があったとされるが様式上室町中期の建立と推定される”とのこと。

 

国分寺三重塔の床下

柱の床下を観察すると「床上は円柱だが床下は八角柱」という手抜きがなされていました。

こうした手抜きは室町時代から出現するので、この三重塔は少なくとも室町以降のものであることはまちがいないです。よって、案内板の室町中期という推定は妥当でしょう。

 

国分寺三重塔の軒下

三重塔を正面から見上げた図。

組物は三手先の平三斗(ひらみつど)と連三斗(つれみつど)。詰組は使われていません。垂木は平行に並んでおり、尾垂木は先端が尖っていないもの。

このあたりの意匠からして、この三重塔は和様(わよう)のように見えます

 

しかし案内板によると内部には詰組や鏡天井など、禅宗様(唐様)の意匠も採用されているらしく、和様と禅宗様の折衷のようです。

 

2層目・3層目の縁側は、壁面と直交に床板を張った切目縁(きれめえん)。欄干は跳高欄(はねこうらん)。

彫刻のような意匠はほとんど見られず、とても質素な外観。建物に複雑な彫刻を使うのは安土桃山以降の手法なので、彫刻がないのは当然といえば当然でしょう。

 

国分寺三重塔の心柱

三重塔の前には、室町中期まで使われていたという心柱(しんばしら)の一部が展示されています。

心柱というのは、三重塔の中心部をつらぬく通し柱のことです。

 

国分寺三重塔を南から見た図

最後に、南側から見た三重塔。屋根の反りが青空に映えます。

本堂はあまり古いものではなく、三重塔も東信地方に多数ある個性的な三重塔たちと比べてしまうとやや地味な感がなくもないです。

 

以上、信濃国分寺(八日堂)でした。

(訪問日2019/12/28)