今回も京都府京都市の東寺について。
当記事では灌頂院、本坊、および国宝の大師堂について述べます。
灌頂院
境内の南西の隅には、塔頭の灌頂院(かんじょういん、潅頂院)。その1で述べた八幡社殿と向かい合うように東面しています。
境内案内板(設置者不明)によると、空海(弘法大師)によって開かれたとのこと。ここは僧侶に位を授ける儀式をするための場所のようです。
見られるのは門と塀、そして本堂の屋根のみ。塀の向こうは原則として非公開。
こちらは灌頂院の正面側(東)にある東門。
一間一戸、四脚門、切妻、本瓦葺。
案内板によると、徳川家光の寄進で1634年(寛永十一年)に再建されたもの。国指定重要文化財。
門扉は縦板の戸が立てつけられています。
門扉の左右の主柱は円柱、その前後の控柱は角柱が使われ、四脚門のセオリーに則った造り。軸部は貫と長押で固定されています。
手前の控柱は、面取りされた角柱。江戸初期にしては面取りの幅が大きいです。写真ではわかりにくいですが、上端がわずかに絞られています。
木鼻は使われていません。
柱上は大斗と舟肘木。
外から見た妻壁。
主柱の上では、側面に冠木が突き出ています。
妻飾りは板蟇股。
破風板の拝みと桁隠しは梅鉢懸魚。
内部。
門扉の上には間斗束が立てられています。
内部に天井はありません。
灌頂院向かって左手(北)には北門が北面しています。
一間一戸、四脚門、切妻、本瓦葺。
鎌倉時代前期の造営。国指定重要文化財。
建築様式は前述の東門とまったく同じですが、各所の意匠は古風かつ簡略になっています。
主柱は円柱、控柱は角柱。この点は東門と同様。控柱は、より面取りの幅の割合が大きくなっています。
妻飾りは板蟇股。
中備えのような装飾はありません。門扉の上からは腕木が伸び、軒桁を支えています。
軒裏は二軒まばら垂木。
妻壁。側面に冠木が突き出ています。
破風板の拝みは梅鉢懸魚。桁隠しはなく、桁の木口が露出しています。
本坊
灌頂院の北側には本坊があります。こちらも非公開の模様。
唐門の奥の堂は小子坊というようで、南北朝時代の1336年(建武三年)6月14日からの半年間、北朝の光厳上皇が政務を執った場所とのこと。
手前の唐門は、一間一戸、妻入唐門、檜皮葺。
1934年造営。木材はすべて木曽ヒノキを用いたらしいです。
こちらの唐門も、主柱は円柱、控柱は角柱となっています。控柱は角面取り。
柱の上端は絞られていませんが、木鼻がついています。
柱上の組物は出三斗。
正面の梁間の中備えは蟇股。菊の花が彫られています。
妻虹梁の上は笈形付き大瓶束。
門扉は桟唐戸。左右には植物の彫刻。
桟唐戸の上部の花狭間には、菊の紋が繊細な造形で透かし彫りされています。
こちらは本坊の玄関と、その入口の薬医門。
門は、一間一戸、薬医門、切妻、本瓦葺。
柱はいずれも角柱。
柱上には肘木(女梁)が使われ、その上で腕木(男梁)が軒桁を持ち出しています。
妻飾りは間斗束。クラブ(クローバー)型のくぼみがついていて、間斗束にしてはかなり凝った造形。
軒裏は一重まばら垂木。
薬医門の扉は開いていますが、その先は進入禁止でした。
玄関は向唐破風、銅板葺。
破風板の兎毛通や、妻飾りの笈形と大瓶束が確認できました。
毘沙門堂と大師堂
本坊の北側には、毘沙門堂と大師堂が隣接しています。写真左の屋根が毘沙門堂、右奥の塀の向こうに見えるのが大師堂。
入口の門は、一間一戸、四脚門、切妻、本瓦葺。
控柱は几帳面取り角柱。上端は銅製の飾り金具がついています。
側面に突き出た冠木の上には、板状の部材がのっています。
妻飾りは板蟇股。板蟇股が飾り金具でカバーされているのは風変わりだと思います。
破風板の拝みと桁隠しには梅鉢懸魚。
毘沙門堂については、写真を撮り忘れたため割愛。
門をくぐると、非常に複雑な構造をした大師堂(だいしどう)が現れます。別名は西院御影堂(さいいん みえいどう)。こちらは背面のようです。
空海がかつて住んでいた場所で、本尊の弘法大師像には現在も毎朝食事を捧げているとのこと。なお、当初の空海が住んでいた建物は室町時代に焼失しており、その後に再建された建物を増築したのが現在の大師堂です。屋根は総檜皮葺。
室町時代前期の造営。厨子1基、棟札3枚とあわせて国宝に指定されています。
こちらが正面で、めずらしい北向きの堂となっています。
前方は前堂(まえどう)といい、1390年(明徳元年)に増築された箇所。
梁間5間・桁行4間、入母屋(妻入)。
柱は円柱。柱上は舟肘木。柱間は、板戸や蔀が使われています。簡素な和様の意匠です。
軒裏は一重まばら垂木。
正面の入母屋破風。
破風板や懸魚、妻飾りの束はきらびやかな金具で飾られています。
向かって左の側面(東面)。前堂(右)と後堂(左)の接続部。
後堂は、軒先だけでなく、長押や舟肘木も一段高くなっています。このように高低差をつけることで、前堂・後堂の軒先の取り合いを納めています。
対して、右側面(西面)にはこのように切妻の屋根が付加されています。この部分は中門(ちゅうもん)というようです。
桁行2間・梁間1間、切妻。
左が中門、中央奥が前堂、右が後堂。
中門と後堂のあいだには、なんとも名状しがたいくぼんだ空間ができています。
つづいて後堂(うしろどう)。
反対側(東面)は前堂と軒先の取り合いになっていましたが、こちら(西面)は前堂がここまで来ていません。鋭く尖った隅の軒先と、急カーブした縋破風が、心なしか所在なさそうに見えます。
後堂の背面(南面)。
縁側には階段と賽銭箱があり、いちおうこちらも正面というあつかいのようです。
後堂は、桁行7間・梁間4間、入母屋、北面西端2間庇、東面向拝1間。
1380年(康暦二年)再建。前堂や中門が増築されていますが、それでも当初の形態をよく残しているようです。
あらためて、南西の門から見た図。
不可解なことに、ふつうなら正面につくはずの向拝が側面(西面、写真右)にあります。
用途は不明。
向拝柱は大きく角面取りされています。柱上は舟肘木。
縋破風の桁隠しには懸魚がついています。
灌頂院、本坊、大師堂については以上。