今回は滋賀県竜王町の苗村神社(なむら-)について。
苗村神社は町の中部の田園地帯に鎮座しています。
創建は垂仁天皇(11代天皇)の時代とされています。平安期の『延喜式』には当社を指して長寸(なむら)神社と記述があるようで、延喜式内社となっています。
境内は東西に分かれ、とくに西本殿は鎌倉期の造営のため国宝に指定されています。また、楼門や東本殿などの社殿は国重文に指定され、充実した境内となっています。
当記事ではアクセス情報および東本殿と楼門について述べます。
拝殿や国宝の西本殿などについては後編をご参照ください。
現地情報
所在地 | 〒520-2524滋賀県蒲生郡竜王町綾戸467(地図) |
アクセス | 竜王ICから車で10分 |
駐車場 | 20台(無料) |
営業時間 | 随時 |
入場料 | 無料 |
社務所 | あり(要予約) |
公式サイト | 苗村神社(長寸神社) |
所要時間 | 20分程度 |
境内(東側)
東本殿
苗村神社の境内は中央に県道が通って東西に分断され、東側と西側それぞれに本殿があります。
境内や社殿を見るかぎりでは西側がメインですが、創建は東側のほうが古いようです。
苗村神社の境内は東側・西側ともに南東向き。入口は県道に面しています。
鳥居は石造の明神鳥居。扁額は「長寸神社」。長寸で「なむら」と読み、古くはこの字で表記したようです。
参道の先には東本殿が鎮座しています。拝殿はありません。
一間社流造、檜皮葺。
祭神は大国主、事代主、スサノオ。
造営年代は室町期と考えられているようです。国指定重要文化財。
詳細は下記のとおり。
建立年代は、明らかでないが、向拝の蟇股の様式は、室町時代のものであり、前庭にある永享四年(1432)在銘の石灯篭は本殿の建立と関係があると考えられる。また、正徳四年(1714)には、大半の部材を取換える大修理があり、当初の形式が変えられたが、昭和三十三年の解体修理で、資料にもとづいて復元整備された。
竜王町教育委員会
水引虹梁は無地。
中備えの蟇股は彩色され、はらわたに彫刻があります。中央は州浜の紋、左右には波のような意匠が彫られています。
向拝柱は角柱。室町期にしては面取りの幅が小さいため、江戸期の修理で取り換えられた材ではないかと思います。
柱上の組物は出三斗。出三斗は実肘木を介さず、丸桁を直接受けています。
正面には角材の階段が7段。昇高欄は擬宝珠付き。
階段の下には浜床。
向拝柱と母屋柱は、まっすぐな梁でつながれています。
手挟は省略され、梁の向拝側は組物の上、母屋側は長押の上から出ています。
母屋柱は円柱。軸部は長押と貫で固定されています。
壁面は白い壁板が横方向に張られています。
縁側は3面のくれ縁。欄干は跳高欄。背面側は脇障子でふさがれています。
反対側、右側面(東面)には両開きの扉が設けられています。
母屋の柱上の組物は出三斗。
妻飾りは豕扠首で、その上の組物には花肘木が使われています。
破風板の拝みと桁隠しには猪目懸魚。
背面および縁の下。
母屋柱は床下も円柱に成形されています。
縁束は大きく面取りされた角柱で、四角い礎石の上に立てられています。
大棟鬼板には鬼瓦。
各所は造営当初(おそらく室町期)の意匠に復元されているため、分厚い箕甲の曲面がみごと。苔むしていて幽玄な趣。
東本殿の左右には境内社。
両者とも一間社流造、銅板葺。
境内(西側)
楼門
つづいて西側の境内。鳥居と楼門は東向きです。
石造の明神鳥居で、扁額は「苗村神社」。
社号標は「長寸郷之総社 苗村神社」。
鳥居の先には楼門。
下層には随神像も仁王像もないため、単に楼門と呼ばれているようです。
三間一戸、楼門、入母屋、茅葺。
案内板(竜王町教育委員会)によると“蟇股の輪郭部や斗栱の形式などの技法から、応永(1394年~1427年)ごろの造営と考えられる”とのこと。国指定重要文化財。
下層。柱はいずれも円柱。
すべての方向が吹き放ちになっています。
柱間は3つで、そのうち1つを通路(戸)とするため三間一戸。
頭貫木鼻は拳鼻。
柱上の組物は三手先で、縁の下の桁を直接受けています。実肘木が使われていません。
中備えは間斗束が立てられているだけ。小壁がなく、こちらも吹き放ちです。
内部は格天井。
梁の上には古風な板蟇股が配置されています。案内板によると、この板蟇股の輪郭から室町前期のものと推定できるようです。
上層。扁額は「正一位苗村大明神」。
軒裏は並行の二軒繁垂木。
縁側は切目縁、欄干は跳高欄。
見づらいですが柱間は板戸と連子窓が立てつけられています。
組物は和様の尾垂木が出た三手先。尾垂木が大ぶりに造られているのが印象的。
組物で持ち出された軒桁の下には、格子の小天井と軒支輪。
中備えは間斗束で、こちらはしっくい塗りの壁が張られています。
大棟鬼板には鬼瓦。
破風板の拝みには猪目懸魚。
三手先に持出された軒桁から二軒の垂木が伸び、そこに分厚い茅負が乗ることにより、軒の出が非常に深くなっています。
積雪の多い土地ではここまで軒を出せないことでしょう。
東本殿と楼門については以上。