今回は長野県飯田市の文永寺(ぶんえいじ)について。
文永寺は飯田市郊外の高台の集落に鎮座している真言宗の寺院です。山号は南原山。
創建は鎌倉中期で、亀山天皇の勅願によって開山された由緒ある寺院。鎌倉期から室町期にかけて隆盛したようですが、武田氏の侵攻を受けて伽藍を焼失したとのこと。現在の伽藍は本堂のほか山門や勅使門がありますが、いずれも江戸中期以降のものです。
現地情報
所在地 | 〒399-2607長野県飯田市下久堅1142(地図) |
アクセス | 駄科駅から徒歩20分 天竜峡ICから車で15分 |
駐車場 | 10台(無料) |
営業時間 | 随時 |
入場料 | 無料 |
寺務所 | あり(要予約) |
公式サイト | なし |
所要時間 | 10分程度 |
境内
山門(二天門)
文永寺の境内は西向き。
参道の途中に立つ山門は桟瓦葺の入母屋、正面に軒唐破風(のき からはふ)。柱は円柱。正面1間・側面2間・背面3間、三間一戸。
内部には増長天と多聞天の像が安置されているため、仁王門ではなく二天門という呼び名があるようです。
前方の1間は壁がなく吹き放ち。梁間には柱もありません。
母屋の窓は武田菱のような意匠。
虹梁の端につけられた木鼻。
造形がやや粗いように見えるので、江戸中期の比較的古いものでしょうか。
正面の梁の上には台輪が置かれ、その上には竜を彫刻した蟇股(かえるまた)が中備えとして配置されています。
組物は出組で、桁を一手先に持出ししています。桁下には軒支輪。
桁の上では短い大瓶束(たいへいづか)が唐破風の棟を受けています。大瓶束の左右に添えられた笈形(おいがた)も少々粗い造形。
柱は上端が丸くすぼまった粽(ちまき)になっており、内部には貫と台輪に禅宗様の木鼻がつけられています。
側面。組物や軒支輪は正面と同様。組物のあいだにはシンプルな蟇股。
母屋の壁板は横方向に張られています。
背面。こちらの軒は唐破風がありません。
組物や蟇股は正面・側面と同様。頭貫の木鼻は渦巻き状の拳鼻。写真中央の蟇股には仙人と思しき人物像(題材不明)が彫刻されています。
本堂(阿弥陀堂)
参道の先には本堂(阿弥陀堂)が鎮座しています。
本堂は桟瓦葺の入母屋(妻入)。正面3間・側面4間、向拝1間。母屋は円柱で、前方の1間が吹き放ちの外陣になっています。
造営年は不明で、おそらく江戸中期から後期。
内部に安置された阿弥陀如来像は室町時代の作で、高さ242cmにおよぶ巨像とのこと(設置者不明の案内板より)。
正面の庇を支える向拝柱は、几帳面取りされた角柱。上端は丸くすぼまった形状になっています。
虹梁の木鼻は象のシルエットになった象鼻。柱上の組物は連三斗(つれみつど)。
向拝柱の組物の上では、菊が籠彫りされた手挟(たばさみ)が垂木を受けています。
向拝柱と母屋をつなぐ梁はありません。
左側面(北面)
母屋の柱上の組物は出三斗(でみつど)と平三斗(ひらみつど)。
組物のあいだにシンプルな蟇股があるほか、特にこれといった意匠はなし。
母屋の円柱は粽になっており、軸部の固定には長押が多用されています。
左側面から見た外陣。
内部は格天井で、天井には梵字が書かれています。
正面右側から見た床下。
母屋の円柱は、床下が八角柱になっていました。
正面の階段は角材を段にしたもの。縁側は欄干のない切目縁が4面にまわされています。
鐘楼と勅使門(唐門)
本堂の右手(南側)には鐘楼と勅使門があります。
こちらは鐘楼。桟瓦葺の切妻。
吊るされている梵鐘は文永寺の創建から間もないころのもの、すなわち鎌倉期の鋳造と考えられています*1。また、松原諏方神社(小海町)の梵鐘と各所の意匠が酷似しているようです。
こちらは勅使門。開かずの門という別名もあるとのこと。
こけら葺の唐門(妻入)。正面1間・側面1間。柱は円柱。
案内板(設置者不明)には“足利時代に作られた唐様門”とありますが、この門が室町時代のものかどうかは不明。
扉は両開きの桟唐戸(さんからど)。
上半分は繊細な透かし彫りになっており金網で保護されているものの、ところどころ破損・欠落していて痛々しい外観。
軒下。
柱はやはり粽になっており、側面の木鼻も禅宗様のもの。
柱の正面には唐獅子の木鼻が、梁と台輪の上には竜が彫刻された蟇股がありますが、これはどう考えても室町期のものとは思えません。造形からして江戸後期あたりが妥当ではないでしょうか。
蟇股の上では虹梁をはさんで大瓶束(たいへいづか)が棟を受けています。この大瓶束は太く短く丸いシルエットが特徴的。
伽藍については以上。
ほか、国重文の石室と石造の五輪塔も境内にあるようでしたが、ちょっと探してみたものの見つからなかったため割愛。
以上、文永寺でした。
(訪問日2020/06/27)
*1:長野県教育委員会と飯田市教育委員会の案内板より