甲信寺社宝鑑

甲信地方の寺院・神社建築を語る雑記。

【小諸市】布引観音(釈尊寺)

今回は長野県小諸市の布引観音(ぬのびきかんのん)釈尊寺(しゃくそんじ)について。

 

布引観音は小諸市・東御市の境界近くにあり、すぐ北側を千曲川が流れています。

伽藍は崖の上の険しい地形にあり、とくに観音堂は岩壁に引っかかるようにして建つ独特の景観となっているほか、参道や境内社などなど見どころの多い内容となっています。

また、表題にある「牛にひかれて善光寺参り」の伝説の地でもあります。伝説の内容や、ふだんは語られない後日談については記事の最後で述べます。

 

現地情報

所在地 〒384-0071長野県小諸市大字大久保2250(地図)
アクセス 小諸駅または滋野駅から徒歩1.5時間
小諸ICから車で20分
駐車場 20台(無料)
営業時間 随時
入場料 無料
寺務所 あり(要予約)
公式サイト なし
所要時間 往復1時間程度

 

境内

参道

布引観音の境内入口

駐車場に車を置いて境内に入ると、入口に「布引山観世音」の石碑が立っています。その横には参拝者への注意書きがあり、「自然の山のため事故・怪我には注意、入山は自己責任で」といった内容。

ここから最奥の観音堂までは片道20分程度で、道中は滝や沢があって晴天の日でもぬかるんでいる箇所があり、坂もやや急。荒天時の参拝は避けるほうが無難でしょう。

 

布引観音の参道の滝

参道の途中の滝。つづら折れになった道中では様々ないわれのある奇岩が見られます。

参道はある程度の整備はされているものの、お世辞にも足場が良いとは言えません。

 

布引観音の参道の石段

参道の石段。

大岩に挟まれた谷のような地形を登っていきます。

なかなか雰囲気のある参道なのですが、それだけに電柱がちょっと無粋ですね... これがないと釈尊寺に送電できないので、仕方ないものではありますが。

 

参道から見上げた観音堂

そうこうしているうちに観音堂が見えてきました。これが「布引観音」。

ご覧のように、説明するまでもなく異様な立地に建てられていることがお解りいただけるでしょう。

 

布引観音の仁王門

観音堂が見えればゴールまであと一息。

こちらは仁王門ですが通行禁止となっており、この正面を素通りして進みます

仁王門は銅板葺の入母屋(平入)で、3間1戸の八脚門(正面3間・側面2間)。柱は円柱。

 

伽藍

釈尊寺本殿

仁王門の前を過ぎると、釈尊寺の本堂に到着します。

本堂の前から眺めることができる布引山と観音堂の景観については観音堂の項にて後述します。

 

駐車場からここまでは、ゆっくりめに歩けば片道20分かかるようですが、やや急ぎ気味の単独行だったため今回は10分ちょっとでした。

 

布引観音の仏堂
本堂の前を通り過ぎて観音堂のほうへ進むと、道中にはなかなか強烈な見た目をした仏堂がいくつかあります。

こちらは名称不明の仏堂。

 

白山社

境内社の白山社

観音堂へいたる道の途中、地蔵などの石仏と並んで建っているのがこの白山社(はくさんしゃ)。

お寺の中なのに神社? と思うかもしれないですが、江戸期まで寺院と神社はとくに明確な区別がなかった(神仏習合)ので、別段おかしなことではありません。

 

白山社はこけら葺きの一間社春日造(いっけんしゃ かすがづくり)。柱はいずれも角柱。

正面に階段がない、いわゆる見世棚造(みせだなづくり)という略式の本殿になります。

造営年代は不明ですが、案内板(設置者不明)によると室町初期のものとのこと。当時の様式を色濃く残していることから長野県宝に指定されています。

 

白山社の側面

白山社の右側面。

正面は入母屋のような造りですが、背面のほうは切妻になっています。これは春日造の特徴。

屋根裏の垂木は一重で、これといった装飾がなく非常にシンプル。

 

白山社の柱

柱の角をよく見ると、面取り(角を削り落とした部分)の幅がかなり広いことがわかります。

この柱は面取りが大きく、装飾の少なさも加味するととても古風な造りをしていると言えます。

 

寺社建築の柱は新しいものほど面取りが小さくなる傾向があり、この部分は大まかな年代推定をするうえでの手掛かりになります

とはいえ、寺社建築は古風なものほど年代推定が難しくなるので「この白山社は室町初期のもの」と言われても、にわかには信じがたいです...

 

観音堂(布引観音)

布引観音へと至るトンネル

布引観音堂の入口

白山社の前を進み、このようなトンネルをくぐるといよいよ観音堂に到着です。

ふつうの仏堂は正面から入るものですが、この観音堂は正面が断崖絶壁のため左側面から入ります。階段や向拝(階段をおおう庇)も左側面にだけついています。

向拝についての解説は、母屋と向拝の記事で解説しているのでご参照ください。

 

布引観音の遠景

観音堂の遠景。右奥には佐久平が開けています。

観音堂が建っている岩壁は白っぽい石質をしており、これが白い布のように見えることから「布引山」という山号や「牛にひかれて善光寺参り」伝説の由来になったようです。

 

観音堂の建築様式は、銅瓦葺の入母屋(妻入)、正面3間・側面不明、左側面に軒唐破風付きの向拝1間。

床下は岩壁に建てられた柱組に支えられており、こういった建物を「懸造」(かけづくり)と呼びます。懸造として著名な例を挙げるなら、やはり清水寺(京都市)でしょう。

 

布引観音堂の向拝

観音堂の向拝の軒下。

奥の母屋の柱には円柱を、手前の向拝柱には角柱を使い分けていることがわかります。ちなみに、この角柱の面取りは「几帳面取り」というタイプのものでした。

 

角柱から突き出る木鼻には、唐獅子と象の彫刻が取り付けられています。角柱をつなぐ虹梁(こうりょう)の中央には龍。

無塗装の白木で、作風や題材と配置からして大隅流や立川流の系統の工匠が彫ったものと思われます。なお、こういった彫刻は江戸中期かそれ以降のものと見ていいです。

 

布引観音堂の堂内

堂内は、壁のない吹き放ちの外陣(げじん)と、仏像の置かれる内陣とに隔離されています。

内陣は隔壁の穴から覗き見ることができますが、写真撮影は自重しました。

 

外陣の内部には武田菱が描かれた蟇股(かえるまた)が梁の上に並んでいます。

現在の観音堂は江戸後期のものであり、この以前の観音堂は武田氏傘下に居た望月氏によって造営されたもののようなので、その関係でしょうか。

 

宮殿(重要文化財)

布引観音宮殿

(文化遺産オンラインより引用)

これが内陣にある宮殿(ぐうでん)。

観音堂の入口にある案内板に「鎌倉時代のもので旧国宝(重要文化財)」と書かれているので観音堂のことだと早とちりしてしまう人もいるかもしれないですが、この案内板で言っているのはこちらの宮殿のことです。

 

宮殿の建築様式は板葺きの入母屋(平入)、正面1間・側面1間。

案内板によると“正嘉2年(1258)に建立”、“鎌倉時代の様式をよく現した”建築とのこと。

wikipediaによれば“仏殿型の厨子で、地方的な未熟さがなく、美術史上重要”とのこと。

 

余談になりますが、旧国宝というのは戦前の法で指定されたものです。戦後、旧国宝の中でとくに価値あるものが現在の国宝になり、それ以外は漏れなく重要文化財に指定されています。

「旧国宝→重要文化財」というのは決して降格させられたわけではないので、誤解なきように。

 

伽藍についての解説は以上。

文化財としての価値なら観音堂そのものよりも、堂内にある小さな宮殿や境内社の白山社のほうが上です。

とはいえ、岩山に建つ懸造の観音堂の景色は絶景で、険しい参道を登ってまで見に来るだけの価値はある内容だと思います。

 

「牛にひかれて善光寺参り」のあらすじと後日談

「牛にひかれて善光寺参り」の伝説は長野県、特に北信では著名ですが、知らない人のためにストーリーを箇条書きで説明すると、

  • 布引観音の近くに住む老婆が洗濯をしていると、風で布が飛ばされた
  • そこへ牛が現れ、角に布をひっかけて走り去った
  • 老婆は牛を追ったが見失い、気づくと善光寺の門前にいた
  • 牛は仏の化身だったことがわかり、老婆は信心を起こした
  • 老婆はそれ以来、信心深い性格になった

たいていはここでストーリーが終わります。しかしこの伝説には語られざる後日談があるのです。

後日談について書かれた案内板は、駐車場にあります。

牛にひかれて善光寺参りの後日談

案内板の内容を要約すると以下のような内容です。

  • 善光寺参りをした老婆は信心深い性格になった
  • 帰宅後、牛に奪われたはずの布が岩山に引っかかっているのを見つけた
  • 老婆は「あの布を返して下さい」と仏に念じた
  • いつの間にか老婆は石になっていた

老婆が善光寺で得た信心は表向きだけのものであり、心根の欲深さは変わっていなかったということでしょう。とはいえ石にされてしまうとは、なかなか手厳しい結末です。

 

長野県に在住のかたでも、この老婆の末路はご存知でない人は少なくないと思います。

「牛にひかれて善光寺参り」が結末まで語られない理由は、やはり善光寺の霊験に傷をつけるような内容だからではないでしょうか...?

 

以上、布引観音(釈尊寺)でした。

(訪問日2018/09/07,2019/12/28)