今回は三重県津市の結城神社、津八幡宮、阿漕塚について。
結城神社
所在地:〒514-0815三重県津市藤方2341(地図)
結城神社(ゆうき-)は津市街の南部に鎮座しています。
創建は1824年。津藩主・藤堂高兌によって、結城塚に社殿が建立されたのが始まり。結城塚は、南北朝時代に南朝の勢力として戦った結城宗広の墓とのこと。太平洋戦争で境内を焼失し、現在の境内社殿は戦後の再建です。
境内
結城神社の境内は南向き。
広々とした境内の大半は駐車場になっていて、お祓いを受ける車が出入りしていました。
手水舎。
切妻、銅板葺。
拝殿手前の狛犬は、案内板いわく「日本一の狛犬」とのこと。
“高さ一メートル四十センチ”と書かれていたので、たぶん高さが日本一なのだと言いたいのでしょう。私の記憶だと、諏訪大社下社秋宮(長野県下諏訪町)にもこれと同じくらいの狛犬があった気がします。
作者は北村西望。長崎市の平和祈念像で知られる彫刻家です。
境内の中心部には拝殿。
なお、案内板には拝殿や本殿をまとめて一緒くたに「御本殿」と書かれていました。
拝殿は切妻、向拝1間・向唐破風、銅板葺。
向拝の水引虹梁の中備えは板蟇股。両端は若葉のような意匠になっています。
妻壁には、大斗と花肘木を組み合わせた意匠が設けられています。あまり見かけない意匠。
向拝柱は几帳面取り。
柱上の組物は、実肘木を組み合わせたもの。
木鼻は中央部が大きくくり抜かれていて、独特なデザイン。
母屋柱と向拝柱は、まっすぐな梁でつながれています。
梁の上の中備えには、水引虹梁と同様の板蟇股。
向拝内部は格天井が張られています。
母屋の妻壁。
妻壁に束を立てるのではなく、中央の柱を棟まで伸ばしています。
頭貫には木鼻。組物は舟肘木。
妻壁は二重虹梁。
拝殿の後方には、本殿の覆いと思しき社殿。
祭神は結城宗広。
境内の西側の奥には、祭神の結城宗広の墓があります。
結城宗広(1266-1339)は鎌倉時代から南北朝時代の武将。建武の新政に貢献し、その後は南朝に味方しています。その最期については諸説あるようで、『太平記』によれば南朝の再起を図って吉野から奥州へ向かったが、船の難破により安濃津(現在の津市)へ漂着し、当地にて病死したとのこと。
境内の西側は梅園になっています。梅の季節は花見客で賑わうらしいです。
迷子になるほどではありませんが、非常に広いうえ通路が入り組んでいます。
以上、結城神社でした。
津八幡宮
所在地:〒514-0813三重県津市八幡町藤方2339(地図)
津八幡宮(つ はちまんぐう)は結城神社の南側に隣接して鎮座しています。
創建は社伝によれば建武年間(1334-1336)で、石清水八幡宮から勧請されたとのこと。江戸期には津藩の2代目藩主・藤堂高次が社殿を建立し、初代藩主・藤堂高虎を合祀して津の鎮守として崇敬されました。太平洋戦争では全ての社殿を焼失し、1967年に現在の社殿が再建されています。
境内
津八幡宮の境内入口は北向き。
社号標は「縣社 八幡神社」。社号は安濃津八幡宮や八幡神社などの別名もあるようです。
鳥居は石造の神明鳥居。笠木がついたタイプのもの。
なぜか3つの鳥居が短いスパンで密着して立っています。
拝殿はコンクリート造のもの。南向き。
切妻とも入母屋ともつかない様式の屋根に、向唐破風の向拝がついています。
拝殿向かって右手には手水舎。
入母屋、銅板葺。
本殿については、裏手にまわってもそれらしいものが見当たりませんでした。
案内板に戦前の本殿の写真があったので、これを掲載しておきます。
この戦前の本殿は1632年の造営のようで、様式は三間社流造。安土桃山時代の作風が色濃い豪華な本殿です。もし現存していれば何かしらの文化財や名所になれただけに、太平洋戦争の空襲で焼失してしまったことが惜しまれます。
以上、津八幡宮でした。
阿漕塚
所在地:〒514-0803三重県津市柳山津興622(地図)
阿漕駅
前述の結城神社や、本項の阿漕塚の最寄り駅は、JR紀勢本線・阿漕駅となります。
当地の海岸近くには阿漕町(あこぎちょう)という地名があり、悪質な商売や金に汚い人に対して使われる「阿漕」という言葉の由来になった場所です。
一般的にはネガティブな意味合いで使われる言葉ですが、三重県では少し事情がちがっているようで、駅名や地名になるほどの由緒があります。
ちなみに阿漕駅の隣の駅は、日本一短い駅名のひとつである津(つ)。
阿漕塚
阿漕塚は、阿漕駅から北東へ1.5キロメートルほどの住宅地にあります。
周辺は神社のように木が茂っていて、少し離れた場所からでも分かります。
こちらが阿漕塚。「阿漕の平治」と呼ばれる人物の慰霊碑です。
阿漕の平治は当地の貧しい漁夫で、病気の母に魚を食べさせるため伊勢神宮の禁漁区で密漁をし、名前が書かれた笠を浜に置き忘れたことで密漁が露見し、刑罰として簀巻きにされて海に沈められたといわれます。その後、平治の泣声や網を引く音が沖から聞こえるようになり、彼の霊を慰めるためにこの塚が立てられたとのこと。
平治の伝説は能や浄瑠璃の題材にもなっているようで、三重県において「阿漕」は親孝行の代名詞として名高いらしいです。塚の周辺はきれいに掃除や草刈りがされて花が供えられ、近隣の住人からも大切にされている様子。
以上、阿漕塚でした。
(訪問日2021/09/19)