今回は長野県大鹿村の信濃宮神社(しなのみや-)について。
信濃宮神社は大鹿村の山間に鎮座しています。
創建については詳細不明ですが、祭神である宗良親王(むねよししんのう、1311-1385?)の死後と思われます。境内は山の中腹にあり、本殿は太平洋戦争のさなかに造営されたものです。
現地情報
所在地 | 〒399-3502長野県下伊那郡大鹿村大河原(地図) |
アクセス | 松川ICから車で40分 |
駐車場 | なし |
営業時間 | 随時 |
入場料 | 無料 |
社務所 | あり(要予約) |
公式サイト | なし |
所要時間 | 30分程度 |
境内
参道
入口は道路に面した場所にあります。
鳥居は石造の神明鳥居。笠木が円柱になったタイプ。
この先の参道は山の斜面をつづら折れに登って行くのですが、舗装されていません。とはいえ草刈りはしっかりとしてあり、歩きにくくはないです。
入口から本殿へは片道10分程度。
社務所と神楽殿。
境内の奥には板塀に囲われた本殿が鎮座しています。
手前の左右にあるのは宗良親王の歌碑。
宗良親王は別名を「信濃宮」といい、『新葉和歌集』を編纂するなど歌人として高名な人物です。また、当地を拠点にして南朝の皇族として信州近辺の合戦にも赴いたようですが戦果は思わしくなく、出家して大和国吉野に戻っています。
現在の道路事情から考えるとこのような僻地を本拠にするのは不可思議に思えますが、諏訪氏や井伊氏(浜松市)といった南朝勢力の拠点の中間に位置するため、大鹿村もまた重要な拠点だったようです。
宗良親王の亡くなった場所や最期については諸説あるようですが、境内の案内板(信濃宮神社の設置)によれば大鹿村大河原にて薨去とのこと。
本殿
信濃宮神社には拝殿がありません。案内板には“規模を縮小して本殿のみ建立”とあります。そのおかげなのか、本殿は山間の神社にしては大規模です。
本殿は桁行正面1間・背面2間・梁間2間、一間社流造(いっけんしゃ ながれづくり)、向拝1間、銅板葺。
建立は1948年(昭和二十八年)。“国民精神高揚のためとして、国民学校以上全学生徒の献金があり、青年は土木勤労奉仕を勤め、社地の造成をしたが、昭和二十年八月終戦後は、民間の奉賛会が造営”とのこと。
向拝柱はC面を大きく取った古風な角面取り。柱上の組物は出三斗。
水引虹梁は無地で、ただの貫のような外観。虹梁中備えには蟇股が置かれています。
向拝柱の組物の上では比較的シンプルな手挟が軒裏を受けています。手挟には渦状の繰型がくり抜かれています。
向拝柱と母屋をつなぐ海老虹梁はありません。
母屋の正面には板戸が立てつけられています。その上の中備えには蟇股。
母屋側面は3本の円柱で構成されており、梁間2間となっています。壁板は横方向に張られています。
縁側は切目縁が3面にまわされていて、欄干は跳高欄。背面側は格子状の脇障子が立てられています。縁の下は縁束で支えられています。
妻飾りは豕扠首(いのこさす)。
妻虹梁もやはり無地で、良く言えば素朴、悪く言えば味気ない妻壁。
母屋の組物と木鼻。
組物は通常の出三斗や平三斗が使われています。
頭貫の木鼻は繰型がついていますが、なんとなく勾玉を思わせるような風変わりな繰型になっています。装飾的な意匠がほかにあまりないので、この繰型は印象的に映ります。
背面。こちらにも目立った意匠はなし。
母屋柱はこの規模の社殿にしては太めのものが使われているのか、どことなく骨太な印象を受けます。また、床下まで円柱に成形されています。
以上、信濃宮神社でした。
(訪問日2020/10/04)