今回は静岡県三島市の三嶋大社(みしま たいしゃ)について。
三嶋大社(三島大社)は三島市街の中心地に鎮座する伊豆国一宮です。
創建は不明。奈良時代の史料に当社と思われる「伊豆三島神」の記述があるようです。平安時代の『延喜式』にも当社の記載がありますが、所在地が「賀茂郡」(伊豆半島南部)と記されており*1、この記述を誤記とする説や、平安後期に賀茂郡から遷座したという説があります。『吾妻鏡』の1180年(治承四年)の記事では当社が現在地に鎮座していたことが確認でき、遅くとも平安末期には現在の三嶋大社が確立していたと考えられます。鎌倉時代は源頼朝から篤く崇敬され、以降の将軍からも崇敬されました。室町後期は後北条氏の庇護を受けましたが、武田氏の侵攻により何度か兵火を受けています。江戸時代には幕府から社領の寄進を受けて隆盛し、徳川家光の寄進で社殿が再建されましたが、幕末の安政東海地震で倒壊しています。明治時代には社号を「三島神社」としましたが、戦後に現在の社号に改めました。
現在の境内や社殿は幕末に再建されたもので、広大な敷地に多数の社殿が点在しています。社殿は幕末から明治初期の再建で、大規模な権現造の拝殿・幣殿・本殿が国の重要文化財、舞殿と神門が市の文化財に指定されています。ほか、境内には国の天然記念物のキンモクセイや、源頼朝・北条政子の腰掛石、神鹿苑などの名所も多数あります。
当記事ではアクセス情報および総門、芸能殿、神門などについて述べます。
現地情報
| 所在地 | 〒411-0035静岡県三島市大宮町2-1-5(地図) |
| アクセス | 三島駅から徒歩15分 沼津ICから車で20分、または三島塚原ICから車で10分 |
| 駐車場 | 55台(1時間200円) |
| 営業時間 | 08:30-16:30 |
| 入場料 | 無料 |
| 社務所 | あり |
| 公式サイト | 三嶋大社 |
| 所要時間 | 30分程度 |
境内
鳥居と総門

三嶋大社の境内は南向き。正面の入口は幹線道路に面しています。
向かって右の社号標は「三嶋大社」。
入口には石造明神鳥居。

鳥居をくぐって境内へ入ると、参道右手(東側)に「たたり石」があります。
もとは当社境内の正面を通る東海道の路上にあり、「三島七石」のひとつに数えられ、当地の名所だったようです。1914年の道路工事で現在地へ移されました。
糸のからみを防ぐ絡垜(たたり)という道具が名前の由来で、路上の中央に鎮座することで往来する人の流れを整理する役目を果たしていたらしいです。

参道を進むと池があり、石橋がかけられています。
参道左手(西側)には池の中に小島があり、厳島神社が鎮座していましたが、写真を撮り忘れたため割愛。

池と石橋の先には総門が南面しています。
三間一戸、八脚門、切妻、瓦棒銅板葺。
1931年竣工。内務省の技師・角南隆氏による設計。(案内板より)
市指定文化財。

正面は3間で、中央の1間が通路となっています(三間一戸)。中央の柱間は広く取られ、梁の下に太いしめ縄がかかっています。
柱はいずれも円柱。木材は台湾産のヒノキ材が使われているとのこと。

通路上の柱間には虹梁がわたされています。虹梁は眉欠きと袖切が薄く彫られていて、絵様などの意匠はありません。
虹梁の上には巻斗が並べられ、横木(通肘木)を受けています。


向かって左の柱間。
柱間は頭貫と通肘木でつながれています。頭貫には平板な造形の大仏様木鼻。組物は柱に肘木を挿した構造(挿肘木)で、大仏様の組物です。
大仏様は基本的に寺院建築の技法であり、近代の建築とはいえ神社建築で大仏様の意匠を多用するのはめずらしいと思います。

向かって左の妻面(西面)。
中央の主柱は大棟まで伸び、大仏様の組物で妻虹梁や棟木を受けています。

背面。構造や細部意匠は正面と同様です。
門扉は桟唐戸が使われ、扉の左右の柱間には連子窓が入っています。

総門の左右には、このような袖塀と小屋がつながっています。こちらは正面向かって左側のもの。

小屋の部分の妻面。
柱は角柱が使われ、柱間には長押が打たれています。柱の上部には舟肘木のような形状の部材があり、柱に挿すようにして使われています(ふつうは柱の上に置くように使う)。
妻虹梁は無地の材がつかわれ、中央に束を立てて棟木を受けています。破風板の拝みには切懸魚。

総門をくぐると、参道左手に社務所が東面しています。
入口の唐破風の庇の軒下には、蟇股などの意匠があります。
芸能殿

参道をそれて境内東側の宝物館のほうへ進むと、芸能殿が西面しています。四方すべてが吹き放ちで神楽殿のような構造をしており、この手の建築の中では大規模な部類だと思います。
桁行正面1間・背面3間・梁間2間、切妻、銅板葺。
1868年(慶応四年)、旧総門として造営されたもの。当初は総門の位置にありましたが、1930年の地震で倒壊したのち現在地へ移築され、現在の形式に改修されました。

正面の柱間には長い虹梁がわたされ、中備えに蟇股や平三斗が配されています。
軒裏は二軒繁垂木。内部は板床と格天井が張られています。
縁側や欄干はありません。

柱はいずれも円柱。頭貫の位置には象鼻があります。
柱上の組物は出三斗。

向かって右の妻面(南面)。
中央の柱は、柱上に平三斗が使われています。頭貫の上の中備えは蟇股。
妻飾りは二重虹梁で、二重虹梁の上に大瓶束のような束を立てて棟木を受けています。妻飾りに使われた大小の虹梁は、原因がわかりませんが上のふちがゆがんだ形状となっています。

破風板の拝みには蕪懸魚。蕪懸魚の左右の鰭や、桁隠しの懸魚には、雲の彫刻がついています。

芸能殿の奥には神鹿苑。境内で販売されている餌を鹿に与えることができます。
なお、三嶋大社の神使は鹿ではなく池に棲むウナギらしいです。この神鹿苑は、大正期に奈良の春日大社から8頭の鹿を譲り受けたのが由来とのこと。
神馬舎と手水舎

芸能殿から参道へ戻ると、神門向かって右側に神馬舎が西面しています。
切妻(妻入)、瓦棒銅板葺。
戦後の造営のようです。
柱は角柱で、正面には内開きの格子戸が設けられ、破風板の拝みに懸魚が使われています。
内部に安置されている神馬の木像は、1868年に奉納されたもの。

神馬舎の右手(南側)には「源頼朝 北条政子 腰掛石」なる岩があります。
真偽のほどは不明ですが、向かって左は源頼朝、右は北条政子が座ったらしいです。案内板には「ご自由にお掛け下さい」とありました。

神馬舎の向かいには手水舎。訪問時は石畳の修理中でした。
手水舎は、切妻、瓦棒銅板葺。

柱は面取り角柱。近代の建築かと思いますが、面取りの幅はやや大きめです。
頭貫には木鼻がつき、柱上には台輪が通っています。組物は出三斗。

台輪の上の中備えは蟇股。蓮の花のような彫刻が入っています。

妻面。こちらは台輪の上の中備えがありません。
妻飾りは豕扠首。
軒裏は二軒まばら垂木。角度がついて見づらいですが、破風板の拝みに猪目懸魚が下がっています。
神門

拝殿などの主要な社殿は瑞垣や回廊に囲われた区画にあり、その正面の入口には、神門が設けられています。
一間一戸、妻入唐門、瓦棒銅板葺。
1867年(慶応三年)再建。市指定文化財。

正面向かって右の柱。
柱は円柱が使われ、上端が絞られています。木鼻は柱から斜め方向に出ており、見返ったポーズの竜です。
柱上の組物は出組。

通路上には虹梁がわたされ、しめ縄が吊るされています。
虹梁には菊唐草の絵様が彫られ、中央には組物が配されています。組物の左右には、何らかの故事を題材とした彫刻があります。
組物の上には、妻虹梁がわたされています。

妻虹梁の上の彫刻は、割れた水がめの中から溺れた子供が出てくる構図。題材は司馬温公の甕割り。
破風板の拝みには独特な形状の懸魚が下がり、左右の鰭は竜が彫られています。

左側面(西面)。
側面は1間。柱間は頭貫と腰貫でつながれています。

側面も頭貫の上に組物が置かれ、組物の左右に彫刻が配されています。

背面。
こちらも多数の彫刻で飾られています。

背面の柱の木鼻は、麒麟と思しき神獣の彫刻。

背面の妻飾りの彫刻。
中央にかめがある点は正面のものと似ていますが、かめの左右の人物の構図が異なります。題材は不明。


神門の左右には袖塀がつき、このような回廊につながっています。
回廊は社務所や祓所の待合所として使われています。

回廊は、切妻、瓦棒銅板葺。
柱は円柱、柱上は大斗と舟肘木を組んだものが使われ、妻飾りは豕扠首。破風板の拝みに雁股懸魚が下がっています。
総門、芸能殿、神門などについては以上。
*1:現在の三嶋大社の所在地は、平安時代は田方郡に属していた