甲信寺社宝鑑

甲信地方の寺院・神社建築を語る雑記。

【長野市】風間神社と松岡神社

今回は長野県長野市の風間神社松岡神社について。

 

風間神社

所在地:〒381-0023長野県長野市風間781-1(地図)

 

風間神社(かざま-)は風間地区の住宅地に鎮座しています。

創建は不明。社伝によると、『日本書紀』に書かれた「水内神」や、『日本三代実録』の860年(貞観二年)の記事にある「飄別神」は当社のことだそうですが、真偽は不明。*1『延喜式』に記載された「風間神社」は当社だと考えられ、式内論社に比定されています。

平安中期には諏訪大社大祝の庶流・矢島忠直が当地を治めて風間氏を名乗り、社名を「諏訪大明神」に改めました。江戸時代には「風間大明神」と称し、1822年(文政五年)に現在の社号に改められました。

 

境内

風間神社の境内は南向き。入口は、住宅地の生活道路に面しています。

右の社号標は「延喜式内 風間神社」。

 

入口には赤い木造両部鳥居。笠木の反りが小さく、ほぼ直線の形状です。

扁額の字は「風間神社」。

 

鳥居の先には拝殿。

入母屋、正面千鳥破風付、向拝1間 軒唐破風付、銅板葺。

 

屋根は正面に破風がつき、棟がT字になっています。善光寺本堂の撞木造と似ていますが、これは入母屋に千鳥破風がついただけのものでしょう。

屋根葺きは、茅葺の上に銅板を葺いたものと思われます。

 

向拝は1間。

しめ縄が吊るされた虹梁は、袖切だけが彫られた無地のもの。

唐破風の中央には、若葉の意匠の懸魚が下がっています。

 

向かって左の向拝柱。

向拝柱は几帳面取り。

柱上には皿付きの出三斗が乗り、虹梁の上の出三斗とともに軒桁を受けています。

 

向拝柱と母屋のあいだにも虹梁がわたされています。こちらの虹梁も、袖切だけがついたものです。

虹梁の中央には撥束らしき束が立てられ、斗と実肘木を介して軒桁を受けています。風変わりな構造だと思います。

母屋柱は角柱で、上部に頭貫と台輪が通り、柱上は平三斗が使われています。

 

母屋の左側面(西面)。

母屋は正面3間・側面2間で、前方の2間通りが吹き放ちの外陣となっています。後方の2間通りは内陣のようで、床や縁側がわずかに高く造られています。

 

側面の入母屋破風。

破風板の拝みには蕪懸魚のような懸魚が下がり、左右に雲状の鰭があります。

妻飾りは虹梁と束。こちらの虹梁は、袖切だけでなく眉欠きも彫られています。虹梁の下には撥束が見えます。

 

拝殿内部の外陣部分は天井がなく、小屋組の梁や化粧屋根裏を見ることができます。

小屋組の梁には、棟札と思しき木札がかかげられています。

 

拝殿の後方には、本殿の覆いと思われる社殿があります。

祭神は、伊勢津彦、シナツヒコなど。

切妻、銅板葺。

 

左側面。

柱は角柱で、上部に頭貫と台輪が通っています。柱上の組物は出三斗と平三斗で、中備えは蟇股。

妻飾りは二重虹梁で、その上に笈形付き大瓶束が乗って棟木を受けています。

 

以上、風間神社でした。

 

松岡神社

所在地:〒381-0026長野県長野市松岡1-17-1(地図)

 

松岡神社(まつおか-)は犀川北岸の住宅地に鎮座しています。

創建は不明。社伝によると1595年(文禄四年)に松岡新田村の鎮守社となり、当時は伊勢宮と呼ばれていたようです。その後、洪水で流失したため、正徳年間(1711~1716)に現在地へ移転しました。明治時代には、現在の社号に改められました。

 

境内

松岡神社の境内は南向き。境内は住宅地の中にあり、西側(向かって左)に県道が通っています。

入口の鳥居は木造神明鳥居。笠木の上には、銅板葺の屋根がついています。

 

参道の先には拝殿。

入母屋、向拝1間 軒唐破風付、銅板葺。

 

向拝には多数の彫刻がありますが、金網がかかっていて細部の観察はややむずかしいです。

虹梁は波状の絵様が浮き彫りされ、中備えには竜らしき彫刻があります。

 

向かって左の向拝柱。

向拝柱は几帳面取り角柱で、正面には唐獅子、側面には象の木鼻。柱上の組物は連三斗。

 

唐破風の兎毛通の彫刻は、松に鷹。

 

向拝柱と母屋のあいだには虹梁がわたされ、その中央には大瓶束が立てられています。善光寺本堂をはじめ、市内の寺社でしばしば見かける構造です。

ほかにも手挟、象鼻、海老虹梁といった意匠が見えますが、金網にはばまれて鮮明な写真が撮れませんでした。

 

母屋柱は角柱。正面3間・側面2間で、正面および両側面の柱間は吹き放ち。

縁側は切目縁が4面にまわされ、欄干は擬宝珠付き。

訪問時は秋祭りの準備中だったようで、内部に神輿が置かれていました。

 

母屋柱の上部には頭貫と台輪が通り、頭貫には象鼻がついています。

組物は出三斗。中備えはありません。

 

軒裏は二軒繁垂木。

垂木は放射状に配されており、禅宗様の扇垂木となっています。

 

拝殿の後方には、本殿覆いと思しき社殿があります。

切妻、銅板葺。

 

直線的な切妻屋根で、大棟には千木と鰹木がつき、室外に棟持柱が立てられています。いずれも神明造の意匠で、伊勢神宮の本殿を意識した造りです。

かつては「伊勢宮」「皇大神社」と呼ばれていたらしいため、祭神はアマテラス(伊勢神宮内宮)と思われます。

 

以上、松岡神社でした。

(訪問日2023/10/07)

*1:境内案内板より

【長野市】康楽寺(長野東町)と明行寺

今回は長野県長野市の康楽寺明行寺について。

 

康楽寺(長野東町)

所在地:〒380-0831長野県長野市長野163-1(地図)

 

康楽寺(こうらくじ)は長野の中心市街に鎮座する浄土真宗本願寺派の寺院です。山号は白鳥山。

同市篠ノ井にも同名の寺院があります。

創建は鎌倉初期で、親鸞が師の法然の法要のため、当地に草庵を開いたのが前身とされます。開基の西仏房浄寛は、源義仲(木曽義仲)の祐筆として仕えていたらしいですが、のちに親鸞に師事し、海野(現在の東御市)に康楽寺を開きました。この康楽寺は、戦国時代に塩崎(篠ノ井)に移転しました。当初、当寺は広敬寺と称していたようですが、浄寛の三男・浄宣が当地に居住したため、後年(1665年)、西本願寺から康楽寺の寺号を与えられたようです。

1847年(弘化四年)の善光寺地震では境内伽藍を焼失し、江戸後期から明治にかけて現在の伽藍が再建されました。

 

境内

康楽寺の境内は西向き。入口は、善光寺表参道に並行する路地に面しています。

左手の寺号標は「白鳥山 康楽寺」。

 

境内の中心部には本堂が鎮座しています。

入母屋、向拝3間、本瓦葺。

1886年再建。

 

向拝は3間。虹梁に中備えはありません。

虹梁や木鼻に彫刻がありますが、金網がかかっていて細部を観察しづらいです。

 

向かって左端(北端)の向拝柱。

向拝柱は几帳面取り角柱。正面には唐獅子、側面には象の彫刻がついています。

柱上の組物は出三斗。

 

向拝柱と母屋柱のあいだにも虹梁がわたされています。

虹梁の中央には大瓶束が立てられ、向拝側(写真右)には短い虹梁が、母屋側(写真左)には小さな海老虹梁がかけられています。

善光寺本堂の向拝部分と似た造りです。

 

母屋の正面中央に掲げられた扁額は院号「報恩院」。額縁には竜の彫刻が入っています。

 

母屋柱は円柱。上端が絞られています。

頭貫には象鼻がつき、柱上に台輪がまわされています。

組物は出組。中備えはありません。

 

側面の入母屋破風。

破風板の拝みには、鰭のついた懸魚が下がっています。

妻飾りは、笈形付き大瓶束が3つ並び、その上に虹梁をわたして束を立てています。

 

以上、康楽寺でした。

 

明行寺

所在地:〒380-0833長野県長野市鶴賀2382(地図)

 

明行寺(みょうぎょうじ)は権堂町に鎮座する真宗大谷派の寺院です。山号は観勝山。

草創は1573年(天正元年)。当初は、現在地の北西80メートルほどの位置にありました。寺伝によると、当初は宗派を問わない学問所として栄えたようです。1760年の記録には浄土真宗と書かれていたとのこと。1751年の大火で伽藍を焼失し、文政年間(1818~1829)に現在地へ移転しました。1847年(弘化四年)の善光寺地震でも、境内伽藍を焼失しています。

現在の境内伽藍は明治時代に整備されたもの。当時は太鼓橋と門があったようですが、権堂町の区画整備の際、市に土地を寄付したため、現存しません。

 

境内

明行寺の境内は西向き。入口は、権堂商店街の北側の道に面しています。

左手の社号標は「明行寺」。

 

入口の山門は、一間一戸、薬医門、切妻、銅板葺。

1926年再建。

 

山門の柱は面取り角柱。

主柱のあいだに冠木がわたされ、山号「観勝山」の扁額がかかげられています。

冠木の上からは腕木が突き出し、実肘木を介して軒桁を受けています。腕木の先端は象鼻のような繰型がついています。

 

妻飾りを内側から見た図。写真左が正面側です。

妻飾りは笈形付き大瓶束。

内部は化粧屋根裏で、軒裏は一重の繁垂木。

 

山門の先には本堂が鎮座しています。

入母屋、向拝3間、桟瓦葺。

1889年再建。彫刻は市内の宮大工・山嵜儀作が手がけたらしいです。

 

向拝は3間。

虹梁や木鼻に彫刻があります。虹梁に中備えはありません。

 

向かって左端の向拝柱。

向拝柱は面取り角柱。正面には唐獅子、側面には象の木鼻があります。

柱上の組物は出三斗。

 

そこまで大きな堂ではないですが、向拝は3間あるため、柱間がやや狭いです。

虹梁には雲状の絵様が彫られ、袖切り部分には鶴らしき彫刻が入っています。

 

母屋柱は円柱で、上端が絞られています。

頭貫には象鼻がつき、柱上に台輪が通っています。

組物は出三斗と平三斗。

 

妻飾りは二重虹梁で、大虹梁の上に笈形付き大瓶束が2組置かれています。

二重虹梁の上の意匠は、影になってしまいよく見えず。

破風板の拝みと桁隠しには、懸魚が下がっています。

 

以上、明行寺でした。

(訪問日2023/10/07)

【長野市】善光寺雲上殿と駒形嶽駒弓神社(善光寺奥の院)

今回は長野県長野市の善光寺雲上殿駒形嶽駒弓神社について。

 

善光寺雲上殿

所在地:〒380-0802長野県長野市箱清水3-1775(地図)

公式 :善光寺雲上殿

 

善光寺雲上殿(ぜんこうじ うんじょうでん)は、善光寺の北の高台に鎮座する納骨堂です。

1949年の造営(落慶)で、多宝塔を模した本殿には、善光寺本尊の分身が祀られています。また、境内は長野市街を一望でき、花見の名所となっています。

 

境内

善光寺雲上殿の境内は南向き。善光寺の北側の住宅地を抜け、急坂の山道を登った先の高台に境内があります。

中央の本殿は、三間多宝塔、銅板葺。

 

本殿の下層。

柱間は3間で、中央は板戸、左右は緑色の連子窓。

柱は円柱で、軸部に長押が多用されており、和様の外観となっています。

柱上の組物は二手先。中備えは透かし蟇股。

基壇の上に擬宝珠付きの欄干を立て、縁側のかわりとしています。

 

上層。

組物は尾垂木四手先。

軒裏は平行の二軒繁垂木。

 

本殿の左右には、このような回廊がつづいています。こちらは向かって右(東側)のもの。

入母屋、銅板葺。

 

こちらも柱は円柱で、長押が多用され、本殿部分と意匠が統一されています。

組物は出組。中備えの蟇股は、内側に連子窓のような格子が入っており、風変わりな意匠だと思います。

 

向かって左側の回廊。右側のものを左右反転させた造りです。

回廊と本殿の接続部は、回廊の軒先を曲げています。

 

本殿の手前の広場の左右には、名称不明の伽藍が並んでいます。こちらは向かって右側の建物の西面。

入母屋、本瓦葺。

 

柱はいずれも角柱。軸部は長押が使われ、頭貫木鼻はありません。

組物は二手先で、柱に肘木を挿した(挿肘木)大仏様の組物です。

軒裏は平行の二軒繁垂木。

 

向かって左側の建物。

右側の建物と同様の造りです。

 

本殿前の広場から長野市街を見下ろした図。

茂みの影になってしまっていますが、写真中央手前に善光寺本堂背面の屋根が見えます。

 

以上、善光寺雲上殿でした。

 

駒形嶽駒弓神社

所在地:〒380-0802長野県長野市上松1997(地図)

 

駒形嶽駒弓神社(こまがたけ こまゆみ-/こまがたたけ こまゆみ-)は、長野市街北端の地附山中腹に鎮座しています。別名は善光寺奥の院(ぜんこうじ おくのいん)水内大社奥社(みのちたいしゃ おくしゃ)

創建は不明。口碑によると当初は水内大社(建御名方富命彦神別神社のことと思われる)の奥社という立ち位置だったようですが、水内大社とともに善光寺に取り込まれ、奥の院と呼ばれるようになったようです。1828年に現在の社号となり、幕末に現在の本殿が建てられました。

1985年には所在地の地附山で地すべりがあり、多くの死者や倒壊家屋を出す大災害となりましたが、当社は被災を免れています。

 

境内

駒形嶽駒弓神社の参道は東向きで、後述の社殿は南向きとなっています。境内入口は、善光寺雲上殿から地附山公園へ向かう途中の道路脇にあります。

右手前の社号標は「駒形嶽駒弓神社」。

参道の鳥居は、木造明神鳥居。

 

参道の石段を進むと、境内の中心部に到着します。

こちらは社務所。

 

社務所の前を通って境内最奥部へ進むと、巨岩と本殿が鎮座しています。

祭神はタケミナカタ。

 

本殿は、撞木造、向拝1間 軒唐破風付、銅板葺。

1828年再建。

 

屋根は正面と左右後方に破風がついており、上から見たときに棟がT字となります。これは、善光寺本堂と同じ撞木造(しゅもくづくり)という様式です。

ただしこの本殿は単層の屋根となっているため、善光寺本堂(二重の外観となっている)とはさほど似ていないと思います。

 

向拝は1間。

虹梁や懸魚に彫刻が配されています。

 

唐破風の兎毛通(懸魚)は鳳凰の彫刻。

 

向拝柱は面取り角柱。正面に唐獅子、側面に象の木鼻があります。

柱上は出三斗。

虹梁は雲のような意匠の絵様が彫られ、眉欠き部分には鶴の彫刻が入っています。

虹梁の上には、丸みを帯びた束が立てられています。

 

向拝と母屋のあいだには海老虹梁がわたされています。

母屋の扁額は「駒形嶽駒弓神社」。

 

母屋柱は角柱。軸部は貫で固定され、頭貫に木鼻があります。柱上は、台輪がまわされています。

組物は出組。中備えはありません。

軒裏は放射状(扇垂木)の二軒繁垂木。あまり神社らしくない造りです。

 

右側面(写真左)および背面(写真右)。

側面と背面には縁側がありません。ここも神社らしくない造りだと思います。

 

正面の破風。

破風板の拝みには、鰭付きの懸魚があります。

向拝の棟の鬼板(写真左下)には、卍が描かれています。

 

以上、駒形嶽駒弓神社でした。

(訪問日2023/10/07)

【上田市】西光寺

今回は長野県上田市の西光寺(さいこうじ)について。

 

西光寺は市東部の富士山地区の集落に鎮座する真言宗智山派の寺院です。山号は松本山。

創建は寺伝によると平安時代。空海が当地を訪れ、手ずから彫った仏像を祀ったのが草創とされます。実質の創建は鎌倉後期で、北条国時(塩田流)が鶏足寺(栃木県足利市)の住職・実勝をまねいて西光寺を開いたのがはじまりです。

室町後期には武田氏の庇護を受けて隆盛しますが、江戸時代の1678年(延宝六年)に前山寺の末寺となっています。1846年(弘化三年)には火災で本堂を焼失しますが、山門と阿弥陀堂は焼失を免れました。

現在の境内の主要部は、江戸後期から近現代の再建です。境内に鎮座する阿弥陀堂については室町後期のものと考えられ、長野県宝に指定されています。また、仁王門の金剛力士像2体は鎌倉時代の作とされ、市の文化財となっています。

 

現地情報

所在地 〒386-1212長野県上田市富士山3036(地図)
アクセス 下之郷駅から徒歩30分
上田菅平ICから車で20分
駐車場 なし
営業時間 随時
入場料 無料
社務所 なし
公式サイト なし
所要時間 15分程度

 

境内

仁王門と参道

西光寺の境内は南向き。寺の南の佐加神社に面した場所には、仁王門があります。

仁王門は、三間一戸、入母屋、銅板葺。

右の寺号標は「真言宗智山派 松本山西光寺参道」。

 

柱はいずれも円柱。

木鼻、組物、中備えといった意匠はなく、簡素な外観。

 

右側面(東面)。

柱間は縦板壁。

 

入母屋破風は板でふさがれています。破風板の拝みには懸魚。

大棟には小さな切妻屋根が付き、箱棟になっています。

 

内部の通路部分。奥には参道と山門が見えます。

内部も、目立った意匠はありません。通路部は棹縁天井。

 

左右の柱間におさめられた仁王像(金剛力士像)。

13世紀の造立と考えられています*1。「西光寺金剛力士像」の名称で市指定有形文化財となっています。

不動寺(須坂市米子)の寺伝や絵馬によると、当初、この仁王像は不動寺に安置されていて、宝暦年間(1751-64)に西光寺へ移動させたらしいです。案内板いわく、“力感に溢れた動きのある造形”で“県下鎌倉期の金剛力士像の代表例として高く評価される”とのこと。

 

仁王門の先には並木の参道が伸び、山門へつづいています。

 

山門と本堂

参道を進み、集落の生活道路を横断すると、山門があります。

一間一戸、楼門、一重、入母屋、銅板葺。

 

下層。

向かって左の柱の表札には「信濃乃国 塩田平四国霊場 番外札所」とあります。

 

正面の虹梁は、太い線で絵様が彫られています。

中備えは、出三斗が2つ。

 

下層の柱は面取り角柱。柱上は出組。

柱の正面には唐獅子、側面には象の木鼻。唐獅子は少し首を曲げて、内側(写真右側)をにらんでいます。

 

上層正面。

上層は正面側面ともに2間。いずれの柱間にも建具はなく、吹き放ち。

軒裏は放射状の二軒繁垂木。

 

上層の柱は円柱で、頭貫に木鼻があります。

組物は出組。中備えは蟇股。

軒桁の下の支輪板には、波の彫刻。

 

右側面(東面)。

鐘突きの棒が吊るされた柱間は、長押が一段高い位置に打たれています。

側面の中備えは蓑束。

 

破風板の拝みには鰭付きの蕪懸魚。

奥まっていてよく見えないですが、妻飾りに虹梁があります。

大棟は、前述の仁王門と同様に箱棟です。

 

楼門の先には本堂。本尊は大日如来。

入母屋、向拝1間、本瓦葺。

 

向拝柱は面取り角柱。

正面には唐獅子、側面には象の木鼻。

 

母屋柱も角柱で、こちらは柱上に肘木が置かれています。

左側面(西面)には、位牌堂(写真左奥)へつながる庇と渡り廊下がついています。

 

阿弥陀堂

本堂向かって左手前には池があり、橋の先に阿弥陀堂が東面しています。

桁行3間・梁間3間、入母屋(妻入)、こけら葺。

室町後期の造営(推定)長野県宝

 

案内板の解説は以下のとおり。

 普通、阿弥陀堂は方三間(五間も稀にはある)の宝形造りで東面して建てるのだが、この堂の場合は奥行きが長く、実尺正面三間(5.45m)奥行四間(7.27m)の小堂で、前方柱間一つ分が吹放ちの拝所になっている変わった平面である。このような間取りは中世の小規模な仏堂にかなり多く用いられており、県内にも松尾寺本堂(穂高町)*2盛蓮寺観音堂(大町市)等の例がある。また室町時代のこのような仏堂には禅宗様の細部様式を使用することが多いが、この堂でも柱上端の組物・頭貫木鼻に禅宗様を用いている。

 後世の改修により屋根が茅葺きになっていたのを、昭和六十三年度からの屋根解体復元工事により平成元年、杮葺きに復元した。室町時代後期(16世紀後半)の手法を各所に留め、当地方に数少ない遺例である。

平成二年三月三十一日
長野県教育委員会
上田市教育委員会

 

屋根は妻入りの入母屋で、正面に小さな破風があります。

破風板の拝みには蕪懸魚が下がり、妻面には木連格子が張られています。

 

正面に向拝はありません。

正面の間口は3間で、建具がなく吹き放ちになっています。

 

正面向かって右の柱間。

柱はいずれも円柱で、上端が絞られた粽柱です。頭貫と台輪には禅宗様木鼻がついています。

柱上の組物は、出三斗と平三斗。中備えは間斗束。組物や中備えは和様のものです。

 

正面中央の柱間の詳細。

台輪の上の中備えは間斗束なのですが、中央の間斗束は束の部分が欠けていて、肘木と巻斗だけが桁下にぶら下がった状態。これは束が欠損してしまったのではなく、県内の寺社建築でときどき見られる信州特有の意匠です。

 

右側(北)から見た図。

前方の1間通りが開放的な外陣となっているのに対し、後方(写真右)は閉鎖的な内陣となっています。

柱は礎石の上に立てられ、床上は円柱なのですが、床下は八角柱に成形されています。これは目立たない床下の工作を省いたもの(円柱のほうが成形に手間がかかる)で、室町時代に出現する技法です。

 

後方の内陣部分。

柱間は楯板壁。

組物や中備えなどの意匠は、正面と同様です。

 

背面も3間。中央には引き戸が設けられています。

縁側は、切目縁が4面にまわされています。

 

背面の軒下。

中備えの間斗束は、いずれも束がある通常のものが使われています。

 

つづいて内部に移ります。

外陣の中央には鰐口が吊るされ、内陣の仏像を拝むための空間となっています。

外陣内陣の境目となる柱間には、格子戸が立てつけられています。中央の格子戸ははめ殺し、左右は引き違いです。

 

外陣には棹縁天井が張られています。

組物の前後方向(上の写真では左右方向)に梁がわたされ、天井を支えています。

 

内陣正面の、中央向かって左の組物。

組物の大斗の上には、禅宗様の台輪木鼻のような部材が出ていて、天井を支える梁を受けています。

また、内陣の正面中央の間斗束(写真右下)は、束が省略されています。

 

内陣には簡素な須弥壇があり、阿弥陀三尊像が祀られています。

須弥壇の来迎柱(仏像のうしろに立つ2本の柱)は、建物の外周の柱(側柱)よりも後方にずれた場所に立てられています。これは、内陣の空間を少しでも広く取るための工夫かと思います。

来迎柱の上部には、出三斗や禅宗様木鼻といった意匠が観察できます。

 

以上、西光寺でした。

(訪問日2023/07/29)

*1:上田市教育委員会の案内板より

*2:引用者註:松尾寺本堂は薬師堂とも言う。穂高町は現在の安曇野市穂高のこと。

【塩尻市】奈良井宿の寺社を巡る

今回は長野県塩尻市の奈良井宿(ならいじゅく)の寺社について。

 

奈良井宿は市南部の山間の川沿いにある宿場町です。五街道・中山道の六十九次のひとつで、江戸から数えて34番目の宿場となっています。

木曽路でも随一の宿場町で、全盛期には「奈良井千軒」と呼ばれるほどの繁栄を誇ったようです。現在でも往時の雰囲気が色濃く残り、重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)として町並みが保存されています。

 

当記事では、奈良井宿の各所に点在する寺社を巡っていきます。

 

八幡宮(奈良井)と二百地蔵尊

所在地:〒399-6303長野県塩尻市奈良井960-1(地図)

 

奈良井駅を出るとすぐに奈良井宿の街並みが現れますが、そこから50メートルほど折り返して山のほうへ行くと、八幡宮(はちまんぐう)二百地蔵尊があります。

 

鳥居の手前で脇道にそれると、二百地蔵尊と呼ばれる石仏群があります。

塩尻市観光協会*1によると、鉄道や国道の敷設工事で立ち退きを強いられた石造物が、ここに集められたようです。二百“地蔵”とはいうものの、石仏のほとんどは地蔵菩薩ではなく観音菩薩らしく、二十三夜塔もまじっています。

 

参道に戻って石段を昇ると、右に折れた場所に社殿があります。内部に本殿があり、この社殿は拝殿を兼ねた本殿覆いになっています。

 

庇の部分の柱は几帳面取りで、正面に唐獅子、側面に象の木鼻があります。

虹梁中備えは蟇股と出三斗。写真右の出三斗は、手前に繰型のついた腕木が突き出ています。

 

破風板の拝み懸魚。蕪懸魚で、左右の鰭は若葉の意匠。

妻面の扁額は「八幡宮」。

 

内部には本殿があり、左右には彩色された狛犬と随神像がならんでいます。

本殿は、一間社流造、屋根葺き不明。

 

境内の一角には摂社らしき社殿がありました。社名不明ですが、おそらくアマテラスを祀った神明社かと思います。

一間社神明造、鉄板葺。

柱はすべて円柱で、室外に棟持柱が立ち、屋根には千木と鰹木があります。

 

専念寺

所在地:〒399-6303長野県塩尻市奈良井751(地図)

 

奈良井宿の北端の高台には、専念寺(せんねんじ)があります。真宗大谷派の寺院で、山号は帰元山。

美濃国郡上(岐阜県郡上市)に開かれた草庵が前身で、天文年間(1532-1540)に木曽氏と馬場氏によって現在地に移転したとのこと。

 

本堂は、入母屋、銅板葺。

現在の本堂は1729年(享保十四年)に移築されたもの*2らしく、寺伝によると高山市の照蓮寺本堂をもとにして造られたとのこと。

 

向拝部分の柱は面取り角柱。組物はなく、軒桁を直接受けています。側面には象鼻。

虹梁中備えは蟇股。

柱と母屋のあいだの梁は、母屋の柱筋からずれた位置に取り付いています。

 

縁側は3面にまわされ、後方は壁が張られています。

縁側の外周には柱が立てられ、軒先を支えています。構造は少し異なりますが、盛蓮寺観音堂(大町市)や松尾寺薬師堂(安曇野市)と似た外観です。

 

本堂向かって左手には鐘楼。

切妻、銅板葺。袴腰付。

 

本堂向かって右手には玄関。

 

虹梁の蟇股は、人の字型のシルエットに波の意匠を取り入れたもの。

 

破風板の拝みの蕪懸魚。

左右の鰭は波の意匠。

 

大宝寺

所在地:〒399-6303長野県塩尻市奈良井423(地図)

 

奈良井宿の街並みに入り、南(京都方面)へ100メートルほど行くと、大宝寺(たいほうじ)の入口があります。臨済宗妙心寺派の寺院で、山号は広伝山。

創建は寺伝によると1582年(天正十年)。木曽氏の一族の奈良井義高という人物が自身の菩提寺として開いたらしいですが、創建の経緯については諸説あるようです。当初は広伝寺と号していましたが、明暦年間(1655-57)に再興されて現在の寺号になりました。

 

入口には冠木門。向かって左の柱には「マリヤ地蔵庭園」とあります。

 

冠木門をくぐって進むと山門があります。

山門は、一間一戸、薬医門、切妻、銅板葺。

 

正面の軒下。

冠木の上から腕木を突き出し、軒桁を受けています。腕木の付け根部分には、籠彫りの持ち送りが添えられています。

冠木と軒桁のあいだには雲の彫刻。人物像が彫られていますが、私の知識では題材を特定できません。

 

門扉は桟唐戸。

妻飾りは笈形付き大瓶束。

 

門の先には本堂。

庭園には、当地の隠れキリシタンが信仰した「マリア地蔵」(子育て地蔵)なるものがあるようです。

 

長泉寺と神明宮

所在地:〒399-6303長野県塩尻市奈良井365(地図)

 

奈良井宿の街並みの中央あたりに差し掛かると、道がクランク状に折れ曲がります(鍵の手)。鍵の手の近くには長泉寺(ちょうせんじ)があります。曹洞宗の寺院で、山号は玉龍山。

寺伝によると1366年(貞治五年)の創建とのこと。

 

入口の山門は、一間一戸、薬医門、切妻、銅板葺。

左の寺号標は「曹洞宗 玉龍山 長泉禅寺」。

 

山門の軒下。

冠木から腕木と軒桁を出し、軒裏を支えています。

前述の大宝寺山門と同じ構造ですが、こちらは装飾がほとんどなく質素な趣。

 

妻飾りも角柱の束が立てられているだけで、装飾はありません。

 

山門の先には本堂。

入母屋(妻入)、桟瓦葺。

1866年再建。

 

本堂向かって左手前には鐘楼。

入母屋、銅板葺。

 

四隅の主柱は円柱が使われています。

主柱の内側には面取り角柱が添えられ、飛貫虹梁を支えています。

 

飛貫、頭貫、台輪には禅宗様木鼻。

組物は出三斗で、台輪上の中備えは間斗束。

軒裏は二軒繁垂木。

 

長泉寺の東側には神明宮があります。

入口には木造神明鳥居。

 

階段の先には、拝殿を兼ねた本殿覆いがあります。

 

内部の本殿は、一間社神明造、こけら葺。

手前の階段は8段もあり、段数が多いです。母屋柱は円柱、縁側の欄干は擬宝珠付き、室外には棟持柱があります。

千木は屋根を突き破って伸びた正式なもので、先端は水平に切り落とされています。大棟には鰹木が5本。さらに千木と鰹木の上には、棟と平行の棒材が置かれています。

 

鎮神社

所在地:〒399-6303長野県塩尻市奈良井68(地図)

 

奈良井宿の街並みの南端には、鎮神社(しずめ-)が鎮座しています。

伝承によると創建は平安末期で、当地の豪族・中原兼遠が鳥居峠に神社を祀ったのがはじまりとのこと。安土桃山時代には、木曽氏の奈良井義高によって現在地に遷座されたらしいです。1618年(元和四年)には、流行病を鎮めるため香取神宮が勧請され、現在の社号に改められました。

 

境内入口には木造明神鳥居。

扁額は「鎮神社」。額の上には唐破風の庇がついています。

 

鳥居の先には、拝殿とも神楽殿ともつかない社殿。

切妻、銅板葺。

柱は角柱で、柱間は格子でふさがれています。神楽殿にしては閉鎖的な造りなので、おそらくこれは拝殿かと思います。

 

内部。

周囲1間通りは外陣のような空間となっています。

天井は、内陣外陣ともに格天井。

 

拝殿(?)の先には、拝所を兼ねた本殿覆いがあります。

内部の本殿は江戸前期の造営で市指定文化財なのですが、登壇禁止となっていたため覗いて見ることはできませんでした。

 

手前の庇部分の柱は、面取り角柱。正面には唐獅子、側面には象の木鼻。

柱上は出三斗。

 

境内の南端には境内社が並んでいます。

 

以上、奈良井宿の寺社でした。

(訪問日2023/03/08)

*1:https://tokimeguri.jp/guide/suginamiki/、2023/07/28閲覧

*2:境内案内板(専念寺による設置)より