今回は福島県磐梯町の恵日寺(えにちじ)について。
恵日寺は磐梯町市街の北側の山際に鎮座する真言宗豊山派の寺院です。山号は磐梯山。
前身の慧日寺(えにちじ)は807年(大同二年)、徳一によって法相宗の寺院として開かれました。当時の慧日寺は数千もの僧兵と子院をかかえる大寺院で、徳一は最澄や空海に対して書面を通して法論を行っていました。平安後期には越後の城氏の庇護を受けましたが、城長茂が横田河原の戦いで大敗して没落し、庇護者や寺内の有力者を失って衰退しました。鎌倉時代から室町時代は歴代の領主の崇敬を受けて再興しますが、摺上原の戦い(1589年)で伊達政宗の攻撃を受け、境内伽藍を焼失しました。江戸時代は1626年に金堂を焼失し、伽藍の規模を縮小して存続していましたが、廃仏毀釈により1869年(明治二年)に慧日寺は廃寺となりました。
恵日寺としての創建(再興)は1904年(明治三十七年)。塔頭であった観音院という寺院が政府の許可を受けて慧日寺の後継となり、「恵日寺」の表記で真言宗寺院として再興されました。戦後には慧日寺跡の発掘調査が行われ、創建当初の伽藍の痕跡が検出されています。
現在の恵日寺は明治の再興ですが、伽藍は前身の慧日寺のものを引き継いでおり、江戸中期の本堂と山門が県の文化財に指定されています。慧日寺跡は広大な領域が国指定史跡となっており、平成期に復元された金堂と中門が公開されています。
当記事ではアクセス情報および慧日寺跡について述べます。
薬師堂、不動堂、恵日寺山門および本堂については後編をご参照ください。
現地情報
所在地 | 〒969-3301福島県耶麻郡磐梯町磐梯数万堂(地図) |
アクセス | 磐梯町駅から徒歩20分 磐梯河東ICから車で5分 |
駐車場 | 慧日寺資料館に多数あり(無料) |
営業時間 | 随時 |
入場料 | 無料 |
寺務所 | なし |
公式サイト | なし |
所要時間 | 30分程度 |
境内
慧日寺跡
慧日寺および恵日寺の境内は南向き。境内は南向き斜面の住宅地の北端にあります。
慧日寺跡は3地区に分かれており、こちらは旧慧日寺の中心部にあたる「本寺地区」です。かつての本寺地区には中門、金堂、講堂、食堂といった伽藍が南北方向に一列に並んでいたようで、発掘調査の結果にもとづいて中門と金堂が復元されています。
中門は、三間一戸、八脚門、切妻、とち葺。
2009年復元。
当初の建築様式や細部意匠は発掘調査では判らないため不明ですが、同年代(平安時代)の現存する遺構や、地域性(地質や気候)を考慮に入れて推定し復元しているようです。
正面中央の柱間。
柱は円柱で、上部に頭貫が通っています。中備えはありません。
柱上の組物は平三斗。大斗の上から鯖尾が出ています。実肘木はなく、組物の巻斗で軒桁を受けています。
向かって左手前の隅の柱。
隅の柱も、組物は平三斗が使われています。
軒裏は二軒繁垂木で、四角い断面の部材が使われています。奈良時代以前の建築の軒裏は、地垂木だけ円形断面の部材を使うこと(地円飛角)が多いですが、平安以降の建築では地垂木・飛檐垂木ともに四角断面の部材を使います(地角飛角)。
側面は2間。
柱上の大斗の上には虹梁がわたされています。虹梁は蟇股と一体に成形されています。
組物の上から突き出る桁は、円形断面となっています。軒桁は四角断面のものでも丸桁(がぎょう)と呼ぶことがありますが、古風な建築ではじっさいに円形断面のものが使われていて、これが丸桁という用語の由来とされます。
破風板には平板な形状の切懸魚が下がっていて、棟木や桁の木口を隠しています。
背面。
屋根の様式については、当初の様式は不明ですが、切妻で復元されています。門の屋根に切妻以外の様式*1を採用した遺構は多いですが、楼門形式でない単層の門に切妻以外の様式を採用する例はあまりない*2ため、切妻で復元するのは順当だと思います。
屋根葺きは、厚めの板を使用した「とち葺」。
パンフレットによると発掘調査では瓦の破片がまったく見つからず、植物性の素材で屋根が葺かれていたと見てまちがいないとのこと。当地に現存する寺社建築の遺構は茅葺のものが多いですが、近世以前の地方の山間部の建物はとち葺が多かったらしく、この点を考慮してとち葺を採用したようです。
中門の奥には金堂が鎮座しています。
桁行7間・梁間4間、寄棟。
2008年復元。
中門と同じく、様式や意匠は時代や地域性を手がかりに推定・復元されたものです。
正面の軒下。
中央の5間は板戸。長押に穴をあけて軸を挿し、扉を吊っています。
左端の柱間。
左右両端の各1間は連子窓が設けられています。
柱はいずれも円柱で、軸部は長押で固められ、上部に頭貫が通っています。頭貫に木鼻はなく、中備えに間斗束が入っています。
柱上の組物は出三斗と平三斗。組物と間斗束は、巻斗で軒桁を受けています。
組物は、三手先のように軒桁を大きく持ち出すものが使われた可能性もありますが、雪深い当地で軒の出を深くするのは強度的に難があると思われるため、持ち出しのない組物で復元されています。
右側面および背面。
側面は4間あり、前方の1間に板戸が設けられています。
母屋の周囲に縁側はありませんが、内部は板張りの高床となっています。
背面は中央の1間に板戸が設けられています。
屋根は寄棟、とち葺。
屋根葺きについては、中門と同様の理由でとち葺が採用されています。
寺院建築の本堂(金堂)の屋根は、ほぼ例外なく寄棟か入母屋が採用されます。この本堂の屋根がどちらの様式だったかは不明ですが、当寺の創建者の徳一は平城京で法相宗を学んだと考えられ、奈良の寺院建築の遺構には寄棟のものが多いことから、寄棟で復元されています。また、中世の会津地域の寺院建築は寄棟のものが多かったらしいです。
内部。
正面(桁行)7間・側面(梁間)4間の平面のうち、外周の1間通りは庇の空間となっています。そして、中央部の正面5間・側面2間の空間が母屋です。正面5間の母屋の4面(前後左右)に庇がつくため、このような平面を五間四面といいます。
母屋の中央には薬師如来像のレプリカが置かれ、その後ろに来迎壁が張られています。
薬師如来像は旧慧日寺の本尊で、創建以来何度か復興(再建)されていますが、いずれも火災で喪失していて現存しません。堂内のレプリカは、同県湯川村の勝常寺にある東北最古の薬師三尊像(平安前期)を参考にして復元したようです。
内陣の前後方向には長い梁がわたされ、中間の柱を省略しています。梁の上には豕扠首から束を抜いたような部材(扠首竿?)が使われ、斗栱を介して棟木を受けています。
外陣は化粧屋根裏となっていますが、内陣も天井はなく化粧屋根裏です。
来迎壁の後方の庇。
こちらも母屋柱と側柱(外周の柱)のあいだに虹梁がかかっています。
金堂の後方には、講堂および食堂と推定される堂の跡がありますが、建物は復元されていません。
講堂は七間二面*3の切妻、食堂は桁行5間・梁間3間で庇のない母屋だけの切妻だったと考えられています。
金堂の北東には「仏堂跡」。古絵図には「中堂」と記されているだけで、どのような使われかたをした堂なのか判っていません。
創建当初の堂は桁行5間・梁間4間、寄棟だったと考えられており、その堂が廃絶したのちに礎石を再利用して三重塔が建てられたようです。当然ながら、三重塔も現存しません。
写真中央の石碑の立っている場所が三重塔の中心部付近だったとのこと。
慧日寺跡については以上。