今回も長野県佐久市の新海三社神社について。
前編ではアクセス情報と拝殿や西本殿・中本殿について述べました。
当記事は新海三社神社の東本殿と三重塔について述べます。
東本殿
東本殿は西本殿・中本殿とは少し距離を置いた場所に鎮座しています。後方に見えるのは三重塔。
東本殿は檜皮葺の一間社流造。重要文化財。造営年代は室町時代とのこと。
屋根には外削ぎの千木と3本の鰹木。
祭神はタケミナカタの子である興波岐命(おきはぎのみこと)。
具体的な年代は不明ですが、室町時代の本殿なので彫刻が少なくシンプルな外観。
手前の向拝柱のC面(エッジの面取り)は、面の幅が広め。向拝柱などの角柱のC面は、時代が下るほど幅が小さくなる傾向にあり、このような大きい面取りは古風と言えます。
虹梁の両端の木鼻は、なんとなく象のようなシルエットをしているものの、完全な象の意匠にはなりきっていません。象や唐獅子の彫刻が木鼻に使われ始めるのは安土桃山時代あたりであり、この木鼻は室町時代のものなので発展の過渡期といったところでしょう。
流造なので屋根は正面側が長く伸びており、破風板は「へ」の字。破風板からは懸魚と桁隠しが垂れ下がっています。
頭貫には拳鼻。妻虹梁は持出しされていません。妻飾りは豕扠首(いのこさす)。
縁側はくれ縁(壁面と平行に床板を張る)が3面にまわされており、欄干は跳高欄。
正面の扉の前には木階(きざはし:角材で造られた階段)が3段。木階の下には跳高欄のついた浜床が張られています。
背面を俯瞰した図。
屋根の檜皮は吹き直されてから日が浅いようで、表面がとてもきれい。
母屋の柱を観察すると、「床上は円柱だが床下は八角柱」という定番の手抜き工作が見られます。この工作は室町中期以降に出現するものです。
三重塔
東本殿の裏には、新海三社神社の最大の見どころといえる三重塔が立っています。
三重塔はこけら葺き、3間四方、3層。重要文化財です。
設置者不明の案内板(おそらく新海三社神社の設置)によると“風鐸の銘より永正12年(1515)の建立と考えられる”とのこと。
いっぽう、長野県教育委員会の案内板によると“様式、手法上から室町中期のものと推定されるので、おそらく文明(引用者注:1469-1487年)の頃再建されたものであろう”とのこと。
造営がいつなのか諸説あるようですが、いずれにせよ年代不明で、わかっているのは室町中期であるということだけの模様。
もとは新海三社神社に併設された神宮寺の塔だったようで、明治期の廃仏毀釈によって神宮寺は取り壊されたものの、この三重塔だけは「神社の宝庫」という名目で新海三社神社に保護され、破却を免れたとのこと(設置者不明の案内板より)。
余談ですが、知立神社(愛知県知立市)の多宝塔も同様のいきさつで廃仏毀釈を免れています。
各層を見上げた図。
最大の特徴は垂木の向き。1層目の垂木は放射状に延びている(扇垂木)のに対し、2層目と3層目の垂木は平行に延びています。
扇垂木は禅宗様の寺院建築の意匠であり、純粋な神社建築には使われません。
ちなみに、寺院の三重塔で扇垂木が使われる例はべつだん珍しくなく、県内だと貞祥寺(佐久市)や光前寺(駒ケ根市)の三重塔は3層目が扇垂木になっています。あと、例外的な存在ではありますが安楽寺(上田市)の八角三重塔は全層が扇垂木です。
1層目の母屋。
壁面の扉は桟唐戸(さんからど)。これも禅宗様の意匠。頭貫の木鼻は拳鼻。
軒を支える組物は三手先の出組。組物からは尾垂木が突き出ていますが先端が平らで、これは禅宗様ではなく和様の尾垂木です。
組物のあいだには巻斗が置かれ、桁の下には支輪が見えます。
1層目の軒裏。当然ですが二軒の繁垂木です。
垂木は二重ですが隅木は一体化しており、隅木からは前述の年代推定の根拠に挙がった「風鐸」(ふうたく:銅製のベルのような飾り)が垂れ下がっています。
2層目の母屋と軒裏。
縁側は跳高欄のついた切目縁(壁面と直交に床板を張る)。縁の下には組物。
軒裏の垂木が平行であるほか、1層目と大差ありません。3層目も同様の造り。
頂部の相輪。
裏山から見た図。
上層は一回り小さく造られており、逓減率がやや高め。どちらかと言えば、見上げたときに安定感を感じさせるプロポーションではないでしょうか。
以上、新海三社神社でした。
(訪問日2020/02/23)