今回は長野県諏訪市の法華寺と神宮寺跡について。
法華寺
所在地:〒392-0015長野県諏訪市中洲神宮寺856(地図)
法華寺(ほっけじ)は諏訪大社上社本宮の南に鎮座する臨済宗の寺院です。山号は鷲峰山。
創建は815年(弘仁六)で、最澄による開基とのこと。もとは天台宗の寺院でしたが、鎌倉期に諏訪氏によって臨済宗に改められたようです。明治期の神仏分離で廃寺になるものの学校として存続し、1916年に法華寺として復活しています。現在の境内伽藍はいずれも昭和期以降のもので、楼門があるほか本堂裏には吉良義周の墓があります。
境内
法華寺は上社本宮の境内とほぼ隣接しています。写真右は本宮の南側出入口。
参道の右手には蠶玉神社。四囲には御柱が立てられています。
神明造風の覆い屋の内部には、一間社流造、こけら葺の小さな本殿が鎮座しています。
山門は楼門になっています。下層の正面の柱が省略されており、信州よりも甲州でよく見るタイプの楼門です。
三間一戸の楼門、桁行3間・梁間2間、入母屋(平入)、銅板葺。
1931年の造営。
柱は下層・上層ともにいずれも角柱。
柱に肘木を挿すことで、上層の縁側を受けています。
上層。扁額は山号「鷲峰山」。
柱間は火灯窓になっています。頭貫木鼻は拳鼻。
軒裏は二軒繁垂木。
本堂は入母屋(平入)、銅板葺。2005年再建。
再建前の旧本堂は江戸中期に大隅流の伊藤儀左衛門が造ったものだったようですが、1999年に放火によって焼失したとのこと。
本尊は釈迦三尊。
妻壁は木連格子。破風板の拝みには、鰭のついた蕪懸魚。
大棟の鬼板の紋は諏訪梶。
本堂の裏には吉良義周(きら よしちか)の墓があります。
吉良佐兵衛義周(1686-1706)は吉良上野介の養子として吉良家を継いだ人物。
赤穂浪士の討ち入りを受けた件を幕府に咎められて改易処分を受け、諏訪高島藩の預かりとして幽閉されています。配流から3年後に病死し、当地に埋葬されました。
神宮寺跡
所在地(跡地の池):〒392-0015長野県諏訪市中洲(地図)
神宮寺跡(じんぐうじ あと)は諏訪大社上社本宮の南側にあった寺院です。
創建は不明。江戸期には多数の宿坊や伽藍があったようですが、明治維新の直前の神仏分離令によってすべてが破却されています。
現在はその参道と一部の礎石と池だけが残されているだけの状態です。
境内
神宮寺跡の境内は東向き。
写真は上社本宮の南側出入口の鳥居から数十メートルほどの距離にある「神宮寺下り仁王門跡」。
参道の石段だけが辛うじて残っている状態。
石段の先は「普賢堂跡」。
上社本宮の本地仏が普賢菩薩であったことを考えると、ここは神宮寺の中枢たる場所だったと考えていいでしょう。
現状は六角形の台座(灯篭の礎石)と池が残っているだけで、ほかは信州名物(?)のマレットゴルフ場になっています。
境内の案内板に掲載された古図を信用するなら、普賢堂は入母屋、裳階付きの仏堂だったようです。
また、普賢堂跡と法華寺のあいだには五重塔があったようですが、他の伽藍と同様に破却されています。
五重塔の造営年は不明ですが、建立は1308年、それ以降しばらく記録がなく、江戸初期以降は屋根葺き替えなどの記録が残っているとのこと。よって安土桃山あたりかそれ以前のものだったと見て良さそうです。
歴史的価値や希少性(長野県には現存の五重塔がない)を考えると、残っていれば確実に国重文クラスの文化財に指定されていたでしょう。廃仏毀釈という短慮によって破却されてしまったことが惜しまれます。
以上、神宮寺跡でした。
(訪問日2020/11/16)