甲信寺社宝鑑

甲信地方の寺院・神社建築を語る雑記。

【大館市】玉林寺と一心院(伝 真田幸村の墓)

今回は秋田県大館市の玉林寺(ぎょくりんじ)一心院(いっしんいん)について。

 

玉林寺

所在地:〒017-0896秋田県大館市大館24(地図)

 

玉林寺(ぎょくりんじ)は大館の中心市街に鎮座する曹洞宗の寺院です。山号は鳳凰山。

創建は大永年間(1521-28)で、浅利則頼という人物によって開かれたようです。1612年に現在地に移転したとのこと。戊辰戦争の際は、新政府軍の沢為量(さわ ためかず)が当寺を本陣としました。境内伽藍は1939年(昭和六年)の再建です。

 

境内

玉林寺の境内は東向き。入口は北側にあります。

向かって右の石柱は「秋田第三十一番観音霊場」。

 

入口から進むと、鐘楼(右端)と山門があります。

 

鐘楼は、入母屋、銅板葺。

 

柱は面取り角柱。台輪には四角い木鼻がついています。

飛貫虹梁や台輪の上の中備えは、角柱の束。

軒裏は二軒まばら垂木。放射状の扇垂木になっています。

 

山門は、一間一戸、楼門、入母屋、正面背面軒唐破風付、銅板葺。

一間一戸ですが左右の柱間が狭く、楼門にしては小ぶりな造り。

 

柱は円柱。

写真左の木鼻は獏。右の木鼻は麒麟と思われ、斜め方向に突き出ています。

柱間の壁面には、火灯窓をアレンジした形状の窓がついています。おもしろい意匠だと思います。

 

正面の通路部分にわたされた虹梁。波間を飛ぶ竜が彫られています。

組物は二手先で、柱のない箇所にもびっしりと配置されています(詰組)。

 

内部には、後方に仁王像が安置されています。

 

上層。

こちらは3つある柱間が等間隔になっています。

柱間は中央が板戸、左右が火灯窓。

 

柱は円柱。頭貫と台輪が通り、頭貫に象鼻がついています。

組物は尾垂木二手先。中備えの蟇股に彫刻が入っていますが、遠くて題材がわかりません。

 

扁額は、私の知識では判読できず。

唐破風の小壁には笈形付き大瓶束。兎毛通は蕪懸魚。

 

山門の先には本堂。

入母屋、正面千鳥破風付、向拝1間 軒唐破風付、銅板葺。

 

向拝部分には多数の彫刻が配されています。

 

兎毛通には鳳凰の彫刻。

破風板の飾り金具や、棟の鬼板には雁金の紋。

 

向拝柱は几帳面取り。正面には唐獅子、側面には象の木鼻。

組物は、蟇股や大瓶束を組み込んだ風変わりな構造のものが使われています。

 

虹梁は菊の花が立体的に彫られています。

中備えは蟇股。

唐破風の小壁には笈形付き大瓶束。

 

向拝柱の上では、手挟が軒裏を受けています。

海老虹梁は緩やかにカーブした形状。

 

母屋の扁額は山号「鳳凰山」。

額縁には鳳凰の彫刻が入っています。

額縁を受ける部分には、象と唐獅子の木鼻が設けられています。

 

以上、玉林寺でした。

 

一心院(伝 真田幸村の墓)

所在地:〒017-0826秋田県大館市谷地町後91(地図)

 

一心院(いっしんいん)は大館の中心市街に鎮座する浄土宗の寺院です。山号は起行山。

創建は1555年(弘治元年)で、小場義忠という人物が父の菩提寺として開いたのが始まりとのこと*1。当初は常陸国(現在の茨城県)に開かれましたが、佐竹氏の転封を受けて1611年(慶長十六年)に現在地に移転しました。戊辰戦争では境内伽藍を焼失しています。現在の本堂は1965年のもの。

墓地の一画には、「真田幸村の墓」とされる墓碑が立っています。大坂の陣で活躍した真田幸村(信繁)は、大坂城付近で戦死したというのが史実・定説ですが、城から脱出して当地で亡くなったという伝説もあるようです。

 

境内

一心院の境内は北東向き。

境内の中心部には本堂が鎮座しています。

 

玄関の扉には花狭間の意匠。

 

左右の窓には火灯窓をアレンジした意匠が使われています。

 

墓地の一画には地蔵堂。

めずらしい六角形の堂。屋根の降棟がカーブしているのが印象的。

六角円堂、銅板葺。

 

扁額は「地蔵堂」。

欄間には干支を題材にした彫刻。写真左の面は子と丑、右は戌と亥。

柱は六角柱で、柱上は皿付きの大斗と実肘木。

軒裏は扇垂木。

 

「真田幸村の墓」は、墓地の中央あたりの桜の木の近くにあります。

真田幸村の墓とされる供養塔は全国に多数あり*2、そのひとつがこちらの墓碑です。おそらくここに遺体や遺骨は埋葬されていないと思われます。

左端のいちばん高い墓碑が真田幸村のもののようで、1958年に立てられたもの。右側の2つが本来の墓碑らしいですが、碑銘の風化がひどく判読不能。

 

墓碑の前面には“信濃屋長右衛門事 眞田左衛門佐幸村 之墓”とあります。

俗説の域を出ませんが、当寺には幸村生存説が伝わっています。それによると、大坂で討ち取られたのは影武者で、豊臣秀頼を護衛して鹿児島まで逃れたのち、徳川家に恭順した島津家に見切りをつけて嫡男の大助(真田幸昌)とともに東北地方を放浪し、当地で「信濃屋長左衛門」を名乗り酒と真田紐を売って余生を過ごしたとのこと*3。享年は75歳で、大助も当地で没したらしいです。

 

墓のまわりを囲う垣根には、このような紋が彫られていました。

真田の家紋というと銭を横3つ縦2つに並べた六文銭ですが、このように五角形に配置したものも六文銭の一種として存在するようです。六文銭の周囲には雁金の意匠があります。

 

以上、一心院でした。

(訪問日2022/04/10)

*1:境内案内板より

*2:代表的な場所を挙げると、京都市の龍安寺と妙心寺、長野市の長国寺など

*3:大館市公式ホームページより