甲信寺社宝鑑

甲信地方の寺院・神社建築を語る雑記。

【日野市】金剛寺(高幡不動) 前編 仁王門と不動堂

今回は東京都日野市の金剛寺(こんごうじ)について。

 

金剛寺は浅川南岸の市街地に鎮座する真言宗智山派の別格本山です。山号は高幡山。

通称は高幡不動(たかはた ふどう)新勝寺(千葉県成田市)とともに関東三大不動に数えられます。

創建は不明。寺伝によれば平安初期に円仁が開基したようですが、空海による開基とする伝説もあるようです。南北朝時代には1335年の台風で伽藍が倒壊し、室町初期から後期にかけて不動堂や山門が再建されました。江戸時代には庶民からの信仰も集めて隆盛しますが、1779年(安永8年)の火災で伽藍の多くを焼失しました。焼失した伽藍は、昭和後期に再建されています。

現在の境内伽藍の大部分は昭和後期のものですが、不動堂と山門は室町時代のもので、この2棟が国重文に指定されています。また、新撰組・土方歳三の故郷の菩提寺としても知られます。

 

当記事ではアクセス情報および仁王門と不動堂について述べます。

五重塔などの伽藍については後編をご参照ください。

 

現地情報

所在地 〒191-0031東京都日野市高幡733(地図)
アクセス 高幡不動駅から徒歩3分
国立府中ICから車で10分
駐車場 100台(無料)
営業時間 07:30-17:00
入場料 無料(奥殿は300円、大日堂は200円)
寺務所 あり
公式サイト 高幡不動尊金剛寺
所要時間 40分程度

 

境内

仁王門

金剛寺の境内は東向き。入口は高幡不動駅前を通る幹線道路に面しています。

駅からのアクセスもきわめて良好で、祈祷者や参拝客でにぎわっていました。

 

仁王門は、三間一戸、楼門、入母屋、茅葺型銅板葺。

国指定重要文化財

造営年は室町時代後期(文化遺産オンラインによると1467-1572)と考えられています。詳細は下記のとおり。

 仁王門は創建以来数度に及ぶ修理を経て近年まで単層切妻の8脚門であった。

 口碑によると仁王門は享徳4年(1455)の立川河原の合戦で兵が屯して上層を焼失したと伝えられており、江戸名所図絵(原文ママ)には単層茅葺、武蔵風土記稿には重層の門として描かれており時代によって変遷があった事が窺われる。昭和35年の金剛寺仁王門解体修理報告書によると、調査の結果火災の痕跡は認められず楼上の軸部を覆うような形で屋根が掛けられ外見上は単層となっていたが、仁王門が当初から楼門として計画された事はその木組から疑う余地がなく、茅葺形銅板葺・入母屋造りの楼門に復元された。

 仁王門の位置は背後の不動堂に対してやや南側にずれており、明らかに大日堂に向いている。この仁王門から大日堂への線が鎌倉期の寺の主軸線で、その後建武の大風で損壊した不動堂が別旅みち(現参道)に間向く形で移築された為に約7度のずれが生じたのである。仁王門は室町後期に再建されたがその際も旧礎石の上に建てられ位置訂正は行われなかった。

日野市教育委員会

 

下層、向かって右側。

柱は円柱。上部に頭貫が通り、拳鼻がついています。

組物は三手先。中備えは間斗束。

 

左側面(南面)。

柱間は縦板壁。

 

上層。扁額は山号「高幡山」。

扁額の下には板戸が設けられています。

 

こちらも円柱で頭貫が通っていますが、木鼻がありません。

組物は尾垂木三手先。中備えは間斗束。

組物で持ち出された桁の下には、軒支輪と格子の小天井が見えます。

 

側面。

組物や中備えは正面と同様。

軒裏は二軒繁垂木。

 

屋根は茅葺型銅板葺。箕甲が分厚く造られ、やわらかな曲面が空に映えます。

破風板の拝みには蕪懸魚。

入母屋破風には格子が張られています。

大棟の端部には、5本の鳥衾が突き出ています。

 

背面。

下層の背面側の空間には、大きなちょうちんが吊るされています。

 

手水舎

不動堂の手前、向かって左には手水舎。

切妻、銅板葺。

 

柱は面取り角柱。柱上は出三斗。

木鼻は、若葉をかたどった繰形が彫られています。

 

中備えは蟇股。

水にちなんでか、鯉が彫られています。

 

妻飾りは笈形付き大瓶束。

破風板の拝みには猪目懸魚。

桁の小口には、若葉の意匠の飾り金具がついています。

 

手水舎の向かいには社務所。「宝輪閣」という名前がついているようです。

二重、入母屋、正面千鳥破風付、本瓦葺、正面軒唐破風付 銅板葺。

2階の中央がせり出してポーチになっており、屋根に唐破風と千鳥破風がついています。左右対称の整ったファサード。

唐破風の部分だけは本瓦で対応できなかったのか、銅板で葺かれています。

 

不動堂

境内の中心部には高幡不動を祀った不動堂が鎮座しています。

屋根の軒先は隅に向けて優美な曲線で反り、後方には五重塔も控え、壮観の眺め。

 

不動堂は、桁行5間・梁間5間、入母屋、向拝1間、茅葺型銅板葺。

国指定重要文化財(附に勧進状)。

本尊は不動明王。堂内にあるのは新造された身代わりの本尊とのこと。

 

建武の新政の時代に造営され、室町前期に現在地へ移築し改修されたもの。都内最古の建造物のようです。詳細は下記のとおり。

 鎌倉時代創建の不動堂は、現在地の西南方の山中にあったが、建武2年(1335)8月4日の大風により、大木が倒れて損壊し時の住僧儀海上人が康永元年(1342)現在地に移築した東京都最古の文化財建造物である。儀海上人はこの間の経緯を不動明王像光背の下部に「・・・・重ねて修造し奉る本堂一宇幷びに二童子尊體・・・・」と刻み、更に昭和61年に発見された不動明王像胎内銘札にも「・・・・重ねて修造し奉る本堂一宇幷びに二童子尊體・・・・」と記されており、鎌倉時代の堂を修理したことは確実である。

 この不動堂は関東地方の中世密教建築の代表的遺構であり、昭和31年からの解体復元修理の際、後世の修理で付加された材はすべて取り除かれ創建時の豪壮・簡素な堂に蘇ったが、鎌倉時代様式の斗栱・木鼻・力強い曲線の垂木や康永移築時の丸柱7本が現存しており、簡素な和様を基礎に外陣の虹梁・大瓶束・木鼻・桟唐戸など一部に禅宗様式との折衷が見られる。不動堂はその後応永22年(1415)の勧進状(乗海発願・深大寺長弁文案)の通り建武以前の根本遺跡への復元が計られたが、その企画は実現せず康永移築時のまま現在に至っている。

日野市教育委員会

 

向拝は1間。

感染症対策として鰐口を叩く綱が撤去され、柱間に透明な板が立てられていました。

 

向拝柱は面取り角柱。室町の最初期のもののため、面幅が大きいです。

柱上は連三斗。向拝柱の側面に斗栱があり、連三斗を持ち送りしています。

 

向拝正面の虹梁は無地の材が使われ、非常に質素な趣。

中備えはシンプルな間斗束。軒桁は「凸」の字を逆さにした断面形状となっており、間斗束は肘木を介さずに軒桁を受けています。

 

向拝柱と母屋柱は、まっすぐな虹梁でつながれています。

向拝の縋破風の桁隠しには、鰭付きの蕪懸魚。

 

母屋の前面は5間。

柱間は、いずれも2つ折れの桟唐戸。

 

母屋柱は円柱。

軸部は長押と頭貫で固定されています。頭貫には拳鼻。

 

組物は、出三斗と鯖尾付きの平三斗が使われています。

中備えは間斗束。こちらの間斗束も向拝のものと同様に、肘木を介さずに桁を受けています。

桟唐戸の軸は、長押に開けた穴で受けています。藁座は使われていません。

 

左側面(南面)。側面は5間。

前方の2間は上下に開く蔀戸、後方の3間は横板壁。

 

背面中央には桟唐戸が設けられています。

縁側は、欄干のない切目縁が4面にまわされています。

 

破風板拝みには猪目懸魚。破風内部は格子。

仁王門と同様に、こちらも鳥衾が5本あり、意匠が統一されています。

 

仁王門と不動堂については以上。

後編では五重塔などの伽藍について述べます。