今回も京都府京都市の大徳寺について。
当記事では仏殿、法堂などについて述べます。
仏殿(本堂)
山門の後方には、大徳寺の本堂に相当する仏殿が鎮座していますが、訪問時は修理中でした。
建築様式は、桁行3間・梁間3間、一重、裳階付、入母屋、本瓦葺。
豪商・那波常有の寄進により、1665年(寛文五年)再建。こちらも「大徳寺 9棟」として国指定重要文化財*1。
本尊の釈迦如来像は、京の大仏*2を模して1/10スケールで作られたといわれます。
屋根は二重*3になっており、下層の軒下は正面側面ともに5間。
柱間には桟唐戸と火灯窓が使われています。縁側はなく、内部は土間。禅宗様建築の技法や意匠が多用されています。
正面中央の桟唐戸の上の、細い欄間部分には、菊や唐草の彫刻が入っています。
正面向かって左端の柱間。
柱は円柱で上端が絞られ、頭貫と台輪には禅宗様木鼻。
柱間の欄間には、波状の弓欄間があります。
柱上の組物は出三斗。中備えの詰組は、平三斗です。
背面。
中央の1間は桟唐戸。その左右の各2間は縦板壁。
内部は平屋で、鏡天井が張られています。室内の中央奥には本尊を安置する須弥壇があります。
上層については、工事用の足場や養生がついていて観察できなかったため割愛。
法堂
仏殿の後方には法堂(はっとう)が鎮座しています。
桁行5間・梁間4間、一重、裳階付、入母屋、本瓦葺。
小田原藩主の稲葉正勝・正則の寄進により、1636年(寛文十三年)再建。「大徳寺 9棟」として国重文*4。
左側面(西面)後方から見た図。
典型的な禅宗様建築である「一重、裳階付、入母屋」の様式で造られています。前述の仏殿と同じ様式ですが、こちらは桁行5間・梁間4間で、ひとまわり規模が大きいです。
左側面。
下層の側面は6間で、柱間は桟唐戸や火灯窓。
上層は木の影になって見えないですが、側面4間です。
下層の軒下。
柱は上端が絞られた円柱(粽柱)。頭貫と台輪には禅宗様木鼻。
頭貫の下には、波状の弓欄間。
組物は出組で、台輪の上の中備えは詰組として平三斗が置かれています。
いずれも典型的な禅宗様建築の意匠です。
上層の軒下。
こちらも粽柱が使われ、頭貫と台輪に木鼻がついています。
組物は尾垂木三手先で、柱間にもびっしりと詰組が配されています。
軒裏は上層下層ともに二軒繁垂木。
垂木は、下層が平行に延びているのに対し、上層は放射状に延びています。禅宗様建築でよく見られる技法です。
入母屋破風。
妻飾りは二重虹梁。蟇股や大瓶束が使われています。
破風板の拝みと桁隠しには、三花懸魚が下がっています。
下層の背面は7間。
柱間は桟唐戸と火灯窓のほか、縦板壁が使われています。
寝堂
法堂の後方には、寝堂(しんどう)という伽藍があります。
梁間3間・桁行2間、切妻(妻入)、檜皮葺。
長州藩家老の益田元祥により1630年(寛永七年)建立。「大徳寺 9棟」として国重文*5。
桟唐戸、火灯窓、弓欄間など、禅宗様の意匠が見えます。とはいえ詰組がなく、ほかの堂宇とくらべると禅宗様の要素は薄いです。
寝堂のほか、浴室、経蔵、庫裏、侍真寮が「大徳寺 9棟」に指定されていますが、見学や拝観のできない場所にあるため割愛。同様に、国宝の唐門や方丈・玄関も拝観できないため割愛。
大徳寺の主要な伽藍については以上。
周辺の塔頭
大徳寺のある区画には、多数の塔頭寺院が立ち並んでいますが、そのほとんどは非公開です。
今回は端から端まで見てまわる余裕がなかったため、目ぼしい塔頭を大まかに紹介するのみにとどめます。
こちらは勅使門の西側に東面する興臨院(こうりんいん)。能登の大名・畠山義総によって室町後期に建立され、前田利家の寄進で伽藍が修理されたとのこと。
入口の表門は、一間一戸、平入唐門、切妻、檜皮葺。
1533年(天文二年)頃の造営。「興臨院表門」として国重文。
屋根は切妻ですが弓なりにカーブし、唐破風の形状になっています。
主柱から前方に腕木を伸ばして軒裏を受けており、構造は薬医門に近いです。
興臨院の中庭と玄関。
奥に小さく見える唐破風の玄関は、国重文「興臨院本堂」の附となっています。
興臨院の南側には、瑞峯院(ずいほういん)が並立しています。1535年に大友義鎮(宗麟)が自身の菩提寺として開いたもの。宗麟はキリシタン大名として知られますが、境内には宗麟夫妻の墓があるようです。
入口の表門は、一間一戸、薬医門、切妻、檜皮葺。
室町末期の造営。「瑞峯院表門」として国重文。
外部および内部。
主柱の前後に控柱が立てられ、四脚門の構造になっています。
主柱は棟の近くまで伸び、組物を介して棟木を受けています。
興臨院と瑞峯院の近くからは、塀越しに黄梅院庫裏と龍源院本堂が見えます。
前者は安土桃山、後者は室町後期の建築。どちらも屋根葺きは檜皮が使われています。
境内の北側の区画には、真珠庵(しんじゅあん)が西面しています。
入口の門は、本堂の附として国重文に指定されています。
塀の向こうに見える屋根は「眞珠庵庫裏」として国重文。1609年(慶長十四年)の建築。
ほかにも多数の塔頭があり、かなりの数の文化財建築を見落としていますが、すべてを紹介しようとするときりがないため割愛。
以上、大徳寺でした。
(訪問日2023/02/23)