甲信寺社宝鑑

甲信地方の寺院・神社建築を語る雑記。

【京都市】大徳寺 前編(勅使門、山門)

今回は京都府京都市の大徳寺(だいとくじ)について。

 

大徳寺は市北部の住宅地に鎮座する臨済宗大徳寺派の大本山です。山号は龍寶山(竜宝山)。

創建は鎌倉末期で、1315年(正和四年)または1319年(元応元年)とされます。赤松則村(円心)の帰依により、禅僧・宗峰妙超が大徳庵という小堂を開いたのがはじまりとのこと。1325年に花園天皇の祈願所となり、この頃に寺院として確立されたようです。

鎌倉幕府滅亡後は後醍醐天皇の崇敬を受けますが、室町幕府の成立後は将軍家から冷遇されたようです。室町前期は火災や戦災で伽藍を焼失しますが、一休宗純や各地の大名らにより再建されています。安土桃山時代には、織田信長の葬儀が当寺で行われました。また、千利休によって現在の山門が完成しています。

江戸時代には当寺の出身である沢庵宗彭が紫衣事件で流罪となりますが、徳川家光によって赦免されました。その後は幕府の庇護を受け、最盛期は2000石以上もの寺領を有していました。明治の廃仏毀釈では多くの寺領を失いましたが、塔頭を統廃合することで存続しています。

 

現在の主要な境内伽藍は、安土桃山時代から江戸前期に整備されたもの。山門や仏殿は禅宗様の意匠と配置で造られ、国の重要文化財に指定されています。とくに、山門は千利休が切腹を命じられる原因となったとされます。国宝の方丈や唐門については非公開のようです。

周辺は多数の塔頭が並び立ち、いまもなお往時の禅林の雰囲気を色濃く残しています。塔頭も多くは非公開ですが、龍光院の茶室・密庵や大仙院本堂が国宝指定されています。

 

当記事ではアクセス情報および勅使門、山門などについてついて述べます。

仏殿、法堂などについては後編をご参照ください。

 

現地情報

所在地 〒603-8231京都府京都市北区紫野大徳寺町53(地図)
アクセス 北大路駅から徒歩15分
京都東ICから車で30分
駐車場 50台(2時間500円)
営業時間 10:00-16:30
入場料 境内は無料、堂内や塔頭の拝観は有料
寺務所 あり
公式サイト なし
所要時間 30分程度(※主要な伽藍のみ)

 

境内

南門と梶井門

大徳寺の境内は南向き。周辺は紫野大徳寺町という地区で、通りに囲われた区画のすべてが、大徳寺とその塔頭の敷地となっています。

区画の南側には南門が建ち、その先は塔頭が立ち並んでいます。

南門は、一間一戸、薬医門、切妻、本瓦葺。

 

柱は角柱で、柱上から腕木(梁)をのばして桁を持ち出し、軒裏を受けています。

標準的な構造の薬医門です。

 

南門をくぐらずに、北大路通を東へ行くと、境内南東端に梶井門が東面しています。

梶井門は、一間一戸、四脚門、切妻、本瓦葺。

 

手前の柱は上端が絞られた角柱で、木鼻や組物が確認できます。組物は、大斗と肘木を組んだもの。

 

総門

境内東側の旧大宮通のほうへ回り込むと駐車場があり、境内入口に総門が東面しています。

総門は、一間一戸、薬医門、本瓦葺。

 

内部、向かって左側の図。写真左が正面側です。

柱上から腕木のばして桁で軒裏を受ける点は標準的ですが、桁の部分に小天井が張られています。

 

妻飾りは間斗束。

後方は天井がなく、化粧屋根裏です。軒裏は一重まばら垂木。

 

勅使門

境内に入ると、主要な伽藍が鎮座しています。楼門や仏殿などの主要な伽藍は、南北方向を軸とした一直線上に並んでおり、典型的な禅宗寺院式の伽藍配置となっています。

こちらは総門をくぐった先に南面する勅使門。

一間一戸、四脚門、切妻、正面背面軒唐破風付、檜皮葺。

慶長年間(1596-1614)の造営。後水尾天皇により下賜され、1640年(寛永十七年)に現在地へ移築されたもの。「大徳寺勅使門」として単独で国指定重要文化財となっています。

 

四脚門という建築様式の門として規模が大きく、正面と背面に唐破風がついているのが特徴。細部は写実的な彫刻で飾られています。

 

柱はいずれも円柱で、上端が絞られています。正面と側面には木鼻。

柱上は出三斗。

 

虹梁の上には蟇股が2つ。どちらも花鳥が彫られています。

妻飾りは笈形付き大瓶束。笈形部分は花と唐草の意匠。江戸前期のものとは思えないくらい精緻な造形だと思います。

 

門扉とその上の妻飾り。

門扉は桟唐戸。

扉の上の欄間には蟇股。妻飾りは前述のものと同様の笈形付き大瓶束。

 

右側面(東面)。

主柱の側面には、冠木が突き出ています。主柱の前後には繰型のついた梁が出ており、斗栱を介して頭貫を受けています。

 

主柱および冠木の上の組物。出三斗で、台輪木鼻のような部材を受けています。

 

頭貫の上の欄間彫刻。

梅に鶯などの花鳥が題材です。

 

妻飾りは二重虹梁で、大瓶束や蟇股が使われています。

 

破風板の拝みと桁隠しには、鰭付きの三花懸魚。

鰭の部分は、牡丹や唐草の意匠。

 

門の左右には、短い築地塀がついています。

築地塀の屋根は、切妻、本瓦葺。

 

背面。

こちらにも軒唐破風が設けられ、ほぼ前後対称の造りとなっています。

 

山門(金毛閣)

勅使門の後方には、大きな山門が鎮座しています。

五間三戸、楼門、二重、入母屋、本瓦葺。

下層は1529年(享禄二年)、上層は1589年(天正十七年)造営。「大徳寺 9棟」として国指定重要文化財*1

 

五間三戸という大規模な様式で造られた門。各所の意匠は禅宗様をベースとしています。

下層は連歌師の宗長の寄進で造られたもの。その後、千利休の寄進で上層が造られ、現在の形式になりました。この功績により、上層には利休の木像が置かれたようですが、これが豊臣秀吉の怒りを買うこととなり、利休が切腹させられる原因になったといわれます。

 

下層。

木の影になって分かりにくいですが、正面は5間。中央の柱間は広く取られ、前面に建具はありません。

内部は中央の3間が通路となっており、赤い板戸が入っています。

 

柱は円柱で、上端が絞られています。頭貫と台輪には禅宗様木鼻。

柱上の組物は出組。

 

左側面(西面)および背面。

正面側(写真)の1間通りには壁が張られていますが、背面側の通りは側面も吹き放ち。

組物は柱間にも配され、詰組になっています。

下層の軒裏は、平行の二軒繁垂木。

 

上層の正面。扁額は「金毛閣」。

下層と同様に正面は5間で、中央の1間は広くなっています。

柱間は、5間すべてに桟唐戸が入っています。

 

左側面。

前方(写真右)の1間は桟唐戸、後方の1間は白壁。

軒裏は二軒繁垂木。下層が平行垂木だったのに対し、上層は扇垂木です。

 

上層も円柱で、上端が絞られ、頭貫と台輪に木鼻が付いています。

組物は尾垂木三手先。柱間にも詰組が配されています。

縁側の欄干の親柱には逆蓮がつき、禅宗様の意匠。

 

左側面の妻面。

破風板の拝みには三花懸魚。

懸魚の影になっていますが、破風内部の妻飾りは虹梁と大瓶束が使われています。

 

背面。

上層の背面は、いずれの柱間も白壁です。

 

山門の左右には、このような小屋が並んでいます。

桁行2間・梁間2間、切妻、本瓦葺。

柱は角柱、柱上は舟肘木。妻飾りは間斗束、破風板には拝み懸魚。

 

勅使門、山門などについては以上。

後編では、仏殿、法堂などについて述べます。

*1:附:棟札2枚、旧土居葺板4枚、鬼瓦4箇