甲信寺社宝鑑

甲信地方の寺院・神社建築を語る雑記。

【京都市】久我神社

今回は京都府京都市の久我神社(くが-)について。

 

久我神社は市北部の住宅地に鎮座しています。賀茂別雷神社(上賀茂神社)の第八摂社です。

創建は不明。『山城国風土記』の逸文に、当社と思しき記述があるようです。史料上の初見は『三大実録』の859年(貞観元年)の記事で、遅くとも平安前期には確立されています。平安時代の『延喜式』に記載された「久我神社」は当社と思われ、式内論社に比定されています。平安末期には賀茂別雷神社の摂社に列したようです。中世の沿革は不明。鎌倉以降、「氏神社」「大宮」と呼ばれていましたが、1872年に現在の「久我神社」に改められました。

現在の境内は、江戸前期の1628年に整備されたもの。本殿などの社殿は、同年に整備された賀茂別雷神社の境内社に準じた造りです。社叢は、かつて「大宮の森」と呼ばれ、現在もそのなごりをとどめていることから、境内全体が市指定の史跡となっています。

 

現地情報

所在地 〒603-8412京都府京都市北区紫竹下竹殿町47(地図)
アクセス 北大路駅または北山駅から徒歩25分
京都東ICから車で40分
駐車場 なし
営業時間 随時
入場料 無料
社務所 なし
公式サイト なし
所要時間 10分程度

 

境内

拝殿

久我神社の境内は南向き。

こちらは西側の鳥居で、大徳寺通という道に面しています。

木造明神鳥居。西向きで、扁額はありません。

右の社号標は「久我神社」。

 

こちらは東側の鳥居で、大宮通に面しています。

木造明神鳥居。東向き。西側の鳥居と同様に扁額はなく、貫の下にしめ縄がかかっています。

右の社号標は「史跡 賀茂別雷神社 摂社 久我神社」。

 

境内の中心部には、拝殿と本殿が南面しています。

拝殿は、梁間1間・桁行1間、切妻(妻入)、左右両側面向拝1間、檜皮葺。

1628年(寛文五年)頃の造営。「久我神社境内」として市指定史跡。

 

向かって左の側面(西面)。

左右の軒先には向拝のような庇がついています。

母屋の部分には低い床が張られ、左右の庇の部分は土間になっています。

 

正面の妻面。

母屋柱は角柱で、柱上は舟肘木。

妻虹梁の上には豕扠首。

破風板の拝みには梅鉢懸魚。

 

このあたりは、本社である賀茂別雷神社の社殿と同様の造りです。

 

屋根の破風を、左手前から見た図。

破風板は母屋の屋根の部分で途切れ、少し奥の筋から庇の縋破風が出ています。

私の知るかぎりでは類例のない、風変わりな構造です。

 

内部は格天井。扁額は「航空安全」。

奥には本殿が見えます。

 

右側(東)から見た図。

拝殿後方には銅板葺の低い屋根がつづき、奥(写真右)の本殿の軒先まで伸びています。

 

本殿

本殿は、一間社流造、檜皮葺。

拝殿と同様に1628年頃の造営で、市指定史跡。

祭神は賀茂建角身命(かもたけつねみのみこと)。

 

向拝は1間。

柱上は、いずれも舟肘木。舟肘木の木口には、飾り金具がついています。

向拝と母屋のあいだにはまっすぐな梁がわたされ、母屋の長押の上に取り付いています。

 

向拝柱は面取り角柱。

軒下には角材の階段が5段。向拝柱の下に、土台のような横木があるだけで、浜床はありません。

欄干は跳高欄。階段の欄干の親柱は、擬宝珠付き。

当社は賀茂別雷神社の第八の摂社ですが、飾り金具が多用され、ほかの摂社よりも少し格調のある造りに見えます。

 

母屋柱は円柱。柱間は長押が打たれ、頭貫木鼻はありません。

暗くて見づらいですが、妻飾りは豕扠首。

破風板には猪目懸魚が3つ下がっています。

 

背面および左側面。柱間は横板壁。

縁側はくれ縁が4面にまわされ、脇障子はありません。

 

背面の床下。

縁の下は、簡素な礎石に立てられた縁束で支えられています。

母屋部分は、礎石の上に土台を置いています。

 

最後に、本殿西側の枝垂れ桜と、社叢。

『雍州府志』によると、当社周辺は「大宮の森」と呼ばれていたようです*1。現在の境内周辺は住宅地となっており、社叢もかなり狭くなってしまったようですが、それでもなお往時の面影を残しているとのこと。

 

以上、久我神社でした。

(訪問日2023/02/23)

*1:境内案内板(京都市による設置)より