甲信寺社宝鑑

甲信地方の寺院・神社建築を語る雑記。

【美浜町】野間大坊(大御堂寺)

今回は愛知県美浜町の野間大坊(のま だいぼう)について。

 

野間大坊は知多半島の西岸の集落に鎮座する真言宗豊山派の寺院です。山号は鶴林山。正式名は大御堂寺(おおみどうじ)

創建は不明。寺伝によると天武天皇の時代で、役小角によって開かれ、のちに行基によって中興されたとのこと。『吾妻鏡』の1186年(文治二年)の記事に源義朝の墓に小堂を建てたという記述があり、1190年(建久元年)の記事では源頼朝が当地に立ち寄って寄進をしたとあり、確立されたのは鎌倉の最初期のようです。以降、鎌倉幕府や徳川家康の庇護を受けました。

現在の境内伽藍は江戸中期以降のもの。梵鐘は鎌倉中期の銘があり、国重文に指定されています。また、境内には源義朝の墓のほか、織田信孝の墓もあります。

 

現地情報

所在地 〒470-3235愛知県知多郡美浜町野間東畠50(地図)
アクセス 野間駅から徒歩15分
南知多ICから車で10分
駐車場 200台(無料)
営業時間 随時
入場料 無料
寺務所 あり(要予約)
公式サイト 大御堂寺 野間大坊|源義朝公最期の地
所要時間 30分程度

 

境内

大門

野間大坊の境内は南向き。境内は寺町の一画にあります。

南側の入口にある大門は、一間一戸、四脚門、切妻、銅板葺。

鎌倉時代の建立とのことですが、現在の大門は江戸中期以降のものと思われます。美浜町指定文化財。

 

前方の柱は角柱。上端が絞られています。

柱の上部を通る頭貫と台輪には、禅宗様木鼻がついています。

柱上の組物は出三斗。

 

台輪の上の中備えは蟇股。

 

前後の控柱が角柱であるのに対し、中央の主柱は円柱が使われています。

主柱の上の組物は平三斗。

 

主柱の上には冠木がわたされ、中備えには風変わりな意匠が置かれています。

下部は透かし蟇股と束を組み合わせた形状で、その上に花肘木と平三斗が乗って、棟木を受けています。

 

右側面(東面)。

側面には冠木が突き出ています。

妻虹梁の上には大瓶束。

 

破風板の拝みと桁隠しには、鰭付きの蕪懸魚。

 

本堂

境内の中心部には本堂。

桁行5間・梁間5間、入母屋、向拝1間、本瓦葺。

1754年(宝暦四年)造営。美浜町指定文化財。

本尊の阿弥陀如来は平安後期の作と推定されていますが、鎌倉時代の快慶の作とする説もあるようです。

 

向拝は1間。

母屋は前方の2間通りが吹き放ちの外陣で、内陣と外陣の境に格子戸が立てられています。

 

向拝柱は几帳面取り角柱。

正面には唐獅子、側面には獏の木鼻。

柱上は連三斗。獏の頭上の巻斗で持ち送りされています。

 

虹梁中備えは蟇股。唐獅子が彫られています。

 

向拝柱の上には手挟。菊と思しき花が彫られています。

縋破風の桁隠しにも菊の彫刻。

 

母屋柱は円柱。軸部は頭貫と長押で固定され、柱上に台輪が通っています。

正面は5間。中央の扁額は「大御堂寺」。

 

組物は出三斗。中備えは蟇股。

組物も蟇股も実肘木がなく、一本の通し肘木を共有して、桁を受けています。

 

柱の上端はわずかに絞られています。

頭貫と台輪には禅宗様木鼻。

 

側面も5間。後方の3間通りは内陣で、横板壁が張られています。

軒裏は二軒繁垂木。

縁側は、欄干のない切目縁が4面にまわされています。

 

側面の入母屋破風。

妻壁には虹梁と組物が見えます。

破風板の拝みには、鰭付きの三花懸魚。

 

外陣の天井。写真右が正面側です。

母屋の中央部は格天井、正面側と両側面の1間通りは化粧屋根裏となっています。

空間を広く取るため、中間の柱(格天井と化粧屋根裏の境目に立つ柱)が省略され、虹梁の上に組物だけが置かれています。

 

鐘楼堂

境内の東側には鐘楼堂があります。

桁行3間・梁間2間、入母屋、本瓦葺。

造営年不明。美浜町指定文化財。

 

下層。柱は角柱。

楼門のような形式ですが、柱間の腰に貫が通っているため、門のように通行することはできません。また、周囲は柵で囲われ立入禁止となっています。

 

柱の上部には長押が打たれています。

柱上には、繰型のついた板状の部材が使われ、上層の縁側を受けています。

 

上層。柱は円柱。

軸部の固定には長押が多用されています。頭貫木鼻はなく、古風な造り。

縁側の欄干は擬宝珠付き。

内部に吊るされている梵鐘は、鎌倉幕府5代将軍・藤原頼嗣の寄進で1250年(建長二年)の銘があるとのこと。国指定重要文化財のようです。

 

組物は出三斗と木鼻付きの平三斗。

中備えは蟇股。

 

側面の意匠は正面とほぼ同じ。

軒裏は二軒まばら垂木。

 

源義朝の墓

本堂向かって右側(東)には、源義朝などの武将たちの墓があります。

こちらは源義朝の墓。

 

源義朝(1123-1160)は平安末期の武将。源頼朝、義経、範頼の父で、源氏の棟梁だった人物。

平治の乱に敗れて都から落ち延び、当地で死亡しています。『平治物語』によると、義朝は入浴中、家臣の長田忠致・景致父子が放った刺客に暗殺されたとのこと。

墓の周囲には刀の形をした木片が供えられています。これは丸腰の状態で襲撃された義朝が、「我に木太刀の一本でもあれば」と嘆いて息絶えたという伝説によるもの。

ちなみに、義朝を暗殺した長田父子は、義朝の嫡男・頼朝の「美濃尾張をくれてやる」という甘言に釣られて捕縛され、「身の終わりをくれてやる」と言われて処刑された逸話も著名です。

 

こちらは義朝の重臣、鎌田政家とその妻の墓。

彼もまた、長田父子に討たれたようです。

 

こちらは池禅尼の塚(供養塔)。

池禅尼は平清盛の継母で、義朝の子らの助命を嘆願した人物。なぜここに供養塔があるのかは不明。

 

織田信孝の墓

義朝の墓の近くには、織田信孝の墓もあります。こちらは平安鎌倉ではなく安土桃山時代の人物です。

 

織田信孝(1558-1583)は織田信長の三男。別名は神戸信孝(かんべ のぶたか)。

兄の信忠に仕えて戦功を挙げましたが、本能寺の変ののち清洲会議で豊臣秀吉と対立し、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家に味方したため、当地で切腹させられます。

辞世の句は“昔より 主(しゅう)を内海(うつみ)の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前”。

自身を源義朝(主)、秀吉(羽柴筑前)を長田父子になぞらえた句。秀吉の行いは主家への裏切りで、いずれ長田父子のような最期が待っているだろうという怨念が込められています。なお、この句は江戸時代の軍記物*1が出展のため、本当にこのような辞世を詠んだかは不明。

 

客殿

境内の東側には客殿があります。

 

客殿入口の蟇股。鳳凰と思しき鳥が彫られています。

欄間には禅宗様の波連子。

 

客殿の庭には、枯山水と四国八十八か所のお砂踏みがありました。

 

客殿と鐘楼堂のあいだには悠紀殿(ゆきでん)。

寄棟、向拝1間 切妻(妻入)、桟瓦葺。

昭和の大嘗祭*2の折に、京都御所内に建てられたもの。手前にある案内板によると、1929年(昭和四年)に当寺に下賜され移築したとのこと。

 

中備えは横長な形状の板蟇股。

妻飾りは豕扠首で、その手前に竜の彫刻がかかげられています。

 

以上、野間大坊でした。

(訪問日2022/05/02)

*1:『太閤記』と『勢州軍記』。

*2:天皇即位後、最初に行われる新嘗祭のこと。