甲信寺社宝鑑

甲信地方の寺院・神社建築を語る雑記。

【京都市】豊国神社

今回は京都府京都市の豊国(とよくに-)について。

 

豊国神社は東山区の住宅地に鎮座しています。祭神は豊臣秀吉。

創建は1599年(慶長四年)。豊臣秀吉(1598年没)の遺体は阿弥陀ヶ峰に埋葬されましたが、1599年に朝廷から「豊国大明神」の神号が下賜され、豊国神社として祭祀されました。1615年に豊臣氏が滅びたあとは、徳川家康の命により豊国神社は廃絶され、法広寺の鎮守社となりました。社殿は北政所の要望によって破却を免れますが、修理が許可されなかったため荒廃し、明治に至るまで再建・再興されませんでした。

現在の豊国神社は明治天皇の勅命で再興されたもので、1880年に現在の境内や社殿が整備されました。唐門は南禅寺の金地院から移築されたもので、桃山時代から江戸前期の建築と考えられ、国宝に指定されています。また、境内周辺には、文禄・慶長の役の際に豊臣秀吉の命で造営された耳塚や、豊臣氏滅亡の一因となった法広寺の梵鐘があります。

 

現地情報

所在地 〒605-0931京都府京都市東山区茶屋町530(地図)
アクセス 七条駅から徒歩10分
駐車場 15台(無料)
営業時間 随時
入場料 無料
社務所 あり
公式サイト 豊國神社
所要時間 15分程度

 

境内

参道

豊国神社の境内は西向き。入口は大和大路通に面し、はす向かいに耳塚公園があります。

入口の鳥居は石造明神鳥居。扁額は「豊国大明神」。

 

鳥居をくぐると、参道左手に手水舎があります。

入母屋、檜皮葺形鉄板葺(?)。

 

柱は角柱が使われ、柱上は舟肘木。破風板には懸魚が下がっています。

あまり目立った意匠のない、簡素な造り。

 

手水盤には豊臣氏の紋である五七の桐。

樋の先には豊臣秀吉の馬印として知られるひょうたんがつき、その先端から水が出ています。

 

唐門

参道の先には唐門が鎮座しています。

一間一戸、四脚門、向唐破風、檜皮葺。

桃山時代から江戸初期の造営国宝

 

この唐門は当初二条城にあったようで、1627年に以心崇伝によって南禅寺の塔頭・金地院に移築され、明治時代の豊国神社再興にあたって当地に再移築されたとのこと。一説によれば、二条城に移築される前は、伏見城にあったとも言われているようです。

 

正面の唐破風の軒下。

梁の中央には大きな蟇股が置かれ、唐破風の棟木を受けています。蟇股の彫刻は五三の桐。梁にも桐の紋があしらわれています。

 

正面向かって右手前(南西)の柱。

柱は面取り角柱で、上端は金具でカバーされています。

柱の手前や、梁の端には木鼻があります。

 

唐破風の懸魚と茨垂木。軒裏の茨垂木にも、小さな彫刻がついています。

軒裏は二軒まばら垂木。

 

右側面(南面)。

主柱(中央の柱)は円柱が使われています。

 

破風板の拝みは鰭付きの蕪懸魚。

入母屋破風には木連格子が張られています。

 

右側面を内側から見た図。写真右が正面側です。

門扉は桟唐戸で、羽目板には桐の紋や雲の彫刻が入っています。

 

内部の扉筋には太い梁がわたされ、中央に神号「豐國大明神」(豊国大明神)の扁額が掲げられています。

扁額の裏には蟇股がありますが、額の影になってしまい観察できず。

扁額および蟇股の左右の欄間には、松に鶴(あるいは松竹梅に鶴?)の彫刻があります。

 

唐門の先には拝殿があり、そのさらに奥には本殿などの社殿があります。唐門より先は、一般の観光客は進入禁止となっています。

こちらの社殿は明治時代の再建時のもので、1880年造営とのこと。

 

方広寺

豊国神社の北側には、方広寺(ほうこうじ)という天台宗の寺院が隣接しています。

豊臣秀吉によって開かれた寺で、かつては「京の大仏」の祀られる大仏殿があったようですが、大仏も大仏殿も幾度もの火災で焼失しており現存しません。

現在は本堂と鐘楼など、ごく一部の伽藍のみが残っています。

 

上の写真は鐘楼。明治時代の再建のようです。

桁行3間・梁間3間、入母屋、本瓦葺。

 

柱はいずれも円柱で、柱間の連結に貫を多用しています。

 

柱の上端が絞られ、頭貫と台輪に禅宗様木鼻があります。

柱上の組物は、大斗と実肘木を組んだもの。

 

破風板の拝みには、鰭のついた蕪懸魚。

奥の妻飾りは、笈形付き大瓶束。

 

内部は格天井で、仏画らしきものが描かれています。

 

吊るされている梵鐘は1614年(慶長十九年)鋳造。国指定重要文化財。

この梵鐘は、1614年の方広寺鐘銘事件で問題となった梵鐘で、銘文には「国家安康」「君臣豊楽」というくだりがあります(上の写真は問題となった銘文の書かれた面の反対側です)。この銘文は大坂の陣が勃発する原因のひとつとなり、結果的に豊臣氏の滅亡を招きました。

 

耳塚(鼻塚)

豊国神社入口のはす向かいには、耳塚公園があります。

公園の一画は石垣で囲われ、その中央に塚があり、石造五輪塔が立っています。この塚は1597年に豊臣秀吉の命で築造されたもので、石垣で囲われた一帯が「耳塚」として国の史跡に指定されています。

 

周囲の石柵は1913年に造られたもの。川上音二郎をはじめ、当時の芸能界の著名人らの寄付のようです。

 

耳塚(鼻塚)は、桃山時代の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)で討ち取られた朝鮮兵の耳や鼻を供養するために造られたものです。武士は戦功のあかしとして敵兵の首級を持ち帰るのが慣例ですが、すべての首級を朝鮮半島から持ち帰るのは困難だったため、鼻と上唇*1を切り取って代替としたようです。

その由来から考えると「鼻塚」のほうが適当かと思うのですが、林羅山が著書で「耳塚」としたことで、この表記が現在でも定着しています。

 

中央の石造五輪塔は建立年不明ですが、1643年の絵図に描かれているようで、おそらく築造当初(1597年)のものと思われます。

 

以上、豊国神社でした。

(訪問日2023/11/18)

*1:ひげの有無で成人男性かどうかを判断したらしい