今回は長野県生坂村の五社宮(ごしゃぐう)について。
五社宮は松本-長野間を結ぶ国道19号の沿線にある集落に鎮座しています。
境内や社殿などはいずれも標準的な規模で、拝殿では立川流の彫刻を見ることができます。そして本殿は五間社というめずらしい様式になっています。
現地情報
所在地 | 〒399-7201長野県東筑摩郡生坂村下生野平3048(地図) |
アクセス | 安曇野ICから車で20分 |
駐車場 | なし |
営業時間 | 随時 |
入場料 | 無料 |
社務所 | なし |
公式サイト | なし |
所要時間 | 10分程度 |
境内
神楽殿と拝殿
五社宮の境内は西向きで、入口には両部鳥居が立っています。
両部鳥居は金属製で、前後の柱(稚児柱という)には小さな屋根が付いたタイプ。
左側に見切れているのが神楽殿、奥に見えるのが拝殿で、境内は非常にコンパクト。
神楽殿は拝殿とはす向かいの位置に立っています。
鉄板葺の寄棟(平入)で、正面1間・側面3間・背面5間。柱は角柱。
中央には一段高くなった台があり、このような神楽殿は松本近辺の神社でしばしば見られます。
拝殿は鉄板葺の入母屋(平入)。向拝なし。柱はいずれも角柱。
案内板(生坂村教育委員会)による拝殿の解説は下記のとおり。
一、拝殿は嘉永六年(1853)諏訪の有名な宮大工、立川和四郎の高弟石井佐兵衛の作。
一、石井佐兵衛は明科町潮の出身で、日光東照宮の普請にも参加したという。
一、波、亀の彫刻がすぐれ、木組みもしっかりしている。この設計図は現在豊科の浅川家に保存されている。
ここで言っている立川和四郎は、初代・和四郎富棟とみてまちがいないでしょう。
日光東照宮の普請にも参加、とのことですが、日光東照宮の主要な社殿は17世紀中ごろに造られたものなので、時代が一致しません。これはおそらく、日光東照宮そのものではなく、隣接する寺社(輪王寺など?)のことを指しているのではないでしょうか。
拝殿正面の軒下。
極太の虹梁(こうりょう)の上には、波に遊ぶ亀の意匠が見られます。亀の上では蟇股(かえるまた)が桁を受けています。
本殿
拝殿の裏には本殿が建っています。
本殿は銅板葺の五間社流造(ごけんしゃ ながれづくり)。正面の向拝は1間と思われます。
屋根には外削ぎの千木と、3本の鰹木。鬼瓦と大棟には、五七の桐と菊の紋がありました。
造営年と祭神については、案内板によると
天照大神など五座の祭神を祭ることから横に五つ並ぶ五間社相殿で、立派な彫刻を施しているが作者不明、江戸中期末の作と推定される。
とのこと。
本殿の右後方。
全体的に装飾は少なめでシンプル。作者不明の彫刻がありますが、正面側が建具でふさがれているためほとんど見えず。
屋根裏の垂木は、意外にも一重でまばらでした。
柱を観察すると、五間社なので柱の間の数が5つもあり、奥行きのわりに柱の間隔がせまいです。床下を見るかぎり、正面側も柱間は5つのようです。
神社本殿は一間社・二間社・三間社...といったふうに、正面の間口の数で規模を表します。9割以上の神社本殿は正面が1間(一間社)か3間(三間社)で、それ以外の間口をもつ本殿はごく少数であり、この五社宮のような五間社はとても珍しいです。
甲信地方にある五間社以上の神社本殿というと、五間社の日吉神社(青木村)や、十一間社の窪八幡神社(山梨市)くらいしか例がありません。
背面。柱は、床上は円柱ですが床下は角柱になっています。
本殿の母屋(建物の本体のこと)の柱は、円柱を使用するのが神社建築の作法です。しかし、工作機械のない時代に円柱を成型するのは手間がかかったため、床上だけ円柱にするという手抜き工作が室町時代に出現します。
たいていの神社本殿は床下を八角柱にしたところで止めるのですが、この本殿の床下はその手前の角柱(四角柱)の段階で止めており、さらに手を抜いています...
とはいえ、背面の床下まで見て、柱にあれこれ言うような意地の悪い人は少数かと思います。
なので目立たないところで手を抜き、その労力を派手で目立つ彫刻についやすのは、世俗的ですが合理的な考えです。手抜き工作というよりは、むしろ合理化・効率化とでも言うべきではないでしょうか。
社殿の解説は以上。
前述したように、五間社という様式はきわめて少なく希少なため、寺社建築好きなら一見の価値はあるでしょう。
以上、五社宮でした。
(訪問日2019/01/31)