今回は京都府宇治市の平等院について。
平等院は宇治川南岸の市街地に鎮座する単立の寺院です。山号は朝日山。
創建は平安中期の1052年(永承七年)。藤原道長の別荘地だった宇治殿を、子の藤原頼通が寺院化したのがはじまりです。開山は京都岡崎の平等院*1の明尊で、園城寺の末寺として開かれました。1053年には現在の鳳凰堂(阿弥陀堂)が建立されました。
創建以来、藤原氏の寺として隆盛し、1221年の承久の乱では北条泰時の本陣が置かれましたが、戦火を免れています。隆盛は鎌倉末期までつづいたようですが、南北朝時代に戦災で鳳凰堂以外の伽藍を焼失し、以降は荒廃しました。江戸時代には浄土院(浄土宗)と最勝院(園城寺円満院の末寺)の2寺院によって共同で管理されるようになり、現在に至ります。
現在の境内伽藍は、国宝の鳳凰堂は創建当初のもの、重文の観音堂は鎌倉時代のものが残りますが、ほかは近世以降のものです。鳳凰堂は平安時代の建築としてきわめて価値が高く、十円硬貨の図柄としても著名です。
当記事ではアクセス情報および鳳凰堂について述べます。
現地情報
所在地 | 〒611-0021京都府宇治市宇治蓮華116(地図) |
アクセス | 宇治駅から徒歩10分 宇治東ICから車で10分 |
駐車場 | なし(※周辺にコインパーキングあり) |
営業時間 | 08:30-17:30 |
入場料 | 700円(鳳凰堂内部拝観は300円) |
寺務所 | あり |
公式サイト | 世界遺産 平等院 |
所要時間 | 30分程度 |
境内
旧南門
平等院の拝観受付は、境内南側にあります。
拝観料を払って通路を進むと、南向きの旧南門があります。
薬医門、切妻造、本瓦葺。
案内板によると、桃山時代の建築で、伏見桃山城から移築されたらしいです。
向かって右の妻面。
側面には冠木が突き出ています。冠木の影になっていますが、梁の上には束が立てられ、棟木を受けています。
破風板の拝みには梅鉢懸魚。
背面。
門扉は板戸。内部の通路上には鏡天井が張られています。
鳳凰堂の概要
境内の中心部には、池に囲まれた鳳凰堂が東面しています。「平等院鳳凰堂」4棟として国宝*2。
もとは「御堂」「阿弥陀堂」と呼ばれていたようです。「鳳凰堂」の初出は堂内須弥壇の格狭間の飾り金具に彫られた1680年の銘で、江戸前期には鳳凰堂という呼び名が定着していたと考えられます。
鳳凰堂は中央の中堂、左右の翼廊(2棟)、中堂後方に伸びる尾廊の計4棟で構成されています。
4棟いずれも1053年(天喜元年)造営で、平等院の創建当初のものが現存しています。2012年~2014年の修理で屋根の葺き替えや柱の塗り直しが行われ、現在の姿になりました。
堂内に祀られた本尊は阿弥陀如来坐像。西方浄土を拝むため、像や堂は東向きに配置されています。浄土信仰や末法思想は平安時代に流行した宗教観で、鳳凰堂は浄土への往生や末法の救済を願って造られたとされます。
各部の構造や意匠は、住宅風の軽快な外観で、平安時代の貴族の邸宅である寝殿造の様式が採り入れられていると考えられます。また、鳳凰堂の手前の庭園や池も、寝殿造に通じる要素といえます。
鳳凰堂は、宗教的にも建築的にも平安時代の潮流が如実に反映された建築であり、現存する古建築のなかでもきわだって価値の高い遺構といえます。
鳳凰堂中堂
鳳凰堂の中央部に位置するのが中堂(ちゅうどう)。
桁行3間・梁間2間、一重、もこし付、入母屋造、本瓦葺。
下層正面。
母屋の正面は3間で、柱間は3間とも板戸。母屋の周囲1間通りに吹き放ちの庇(もこし)が設けられているため、下層は正面5間に見えます。
下層の屋根は厳密には屋根ではなく裳階(もこし)という庇で、堂内は単層の構造です。
正面中央の部分は、もこしを一段高く切り上げていて、中心性を強調しています。
もこしの軒先を支える柱は角柱。対して、母屋を構成する柱は円柱です。
もこしの柱間は飛貫と頭貫でつながれ、柱上の組物は出三斗と平三斗。中備えは間斗束。
母屋の周囲の吹き放ちの空間には、板床が張られています。
上層正面。
縁側は切目縁が4面にまわされ、跳高欄が立てられています。中央のもこしが切り上げられた部分は、縁側も一段高く造られています。切り上げられたもこしの側面には縋破風があります。
母屋の正面は上層も3間。組物は和様の尾垂木三手先、中備えは間斗束。
左側面。
側面は2間。こちらも中備えは間斗束です。
大棟には1対の鳳凰像が向かい合っています。こちらはレプリカで、原物は鳳翔館に収蔵されています。
原物の鳳凰像は鳳凰堂の建立時のもの。貴重な平安時代の工芸品で、歴史的な価値だけでなく造形も高く評価されています。「金銅鳳凰(鳳凰堂中堂旧棟飾)」1対として、工芸品の部で国宝指定されています。
「鳳凰堂」の名前は、この鳳凰像に由来するという説と、堂の配置を、鳳凰が翼を広げた姿に見立てたという説とがあります。
右後方(北西)から見た図。背面(写真右)には尾廊がつながっています。
下層右側面(北面)と背面(西面)。
正面と両側面はもこしの下がすべて吹き放ちでしたが、背面は左右両端の各1間を除く中央の柱間に壁が張られています。
下層の組物と軒裏。
組物は中央に木鼻のような部材が出ていて、木口は飾り金具で覆われています。
軒裏は平行の二軒繁垂木。垂木の断面は四角形ですが、下側の角が大きく面取りされています。
上層背面。
もこしや縁側の切り上げがないほかは、正面と同様です。
上層の軒裏。
下層と同様に、平行の二軒繁垂木。ただし垂木の断面形状がことなり、地垂木(母屋寄りの垂木)は円形断面、飛檐垂木(軒先寄りの垂木)は方形断面です。
このような垂木を地円飛角(じえんひかく)といい、平安時代以前の非常に古い建築で採用される意匠です。
左側面と入母屋破風。
大棟の端部には鬼板。破風板には猪目懸魚が下がっています。
妻飾りには間斗束らしき三角形の意匠。その左右には組物(平三斗?)が出て、軒桁を受けています。
鳳凰堂翼廊
鳳凰堂の左右に位置する棟は翼廊(よくろう)。向かって左側が両翼廊(南)、右側が両翼廊(北)です。
両棟とも、桁行折曲り延長8間・梁間1間、隅楼二重三階、宝形造、廊一重二階、切妻造、本瓦葺。
平面はL字型で、下層は土間床、上層は縁側を設けた板床。L字の屈曲部には隅廊という小屋が乗り、この部分だけ3層の構造となっています。
両翼廊(南)の、中堂寄りの部分。
柱はいずれも円柱。下層の柱間は腰貫、飛貫、頭貫でつながれ、右端の1間は腰貫が省略されています。上層の柱間は頭貫でつながれています。
背面。
廊が折れ曲がる部分の柱間は、ほかよりも広く取られています。
左側面(南面)。
柱はいずれも円柱が使われ、柱上の組物は二手先。頭貫の上の中備えは間斗束。
左端の折れ曲がった部分を、正面から見た図。
上層も円柱が使われていますが、下層よりも内寄りの位置に立てられていて、母屋がひとまわり小さいです。
上層の柱上の組物は、平三斗が使われています。
妻飾りは二重虹梁。大虹梁の上に蟇股が2つ置かれ、二重虹梁の上にも蟇股を置き、棟木を受けています。
破風板の拝みには蕪懸魚。
屈曲部の隅廊を、正面右(北東)から見た図。
母屋は正面側面ともに3間。
屋根は宝形造で、頂部に宝珠が乗っています。
左側面(南面)。
切目縁が4面にまわされ、欄干は跳高欄、縁の下には二手先の腰組。
母屋柱は円柱。軸部は長押と頭貫でつながれています。柱間は、中央が板戸、左右が連子窓。柱上の組物は出組。中備えはありません。
軒裏は二軒まばら垂木。こちらは尾垂木・飛檐垂木ともに方形断面。
向かって右に位置する両翼廊(北)の、背面(西面)と右側面(北面)。
構造は両翼廊(南)を左右反転させただけで、細部にも差異はないため詳細は割愛。
両翼廊(北)の北側には反橋と洲浜があり、堂内拝観の際の通路として使われています。
鳳凰堂尾廊
鳳凰堂の背面に位置し、中道後方へ伸びる棟は尾廊(びろう)。
桁行7間・梁間1間、切妻造、桟瓦葺。
上の写真は北面。
側面は7間で、左端の1間は中堂背面との接続部、右から2間目と3間目は池の上に設けられています。
柱間には格子の窓と火灯窓。これらの窓は室町時代の改変のようです。火灯窓は鎌倉時代に出現する禅宗様の意匠で、平安時代には存在しません。
柱は円柱で、柱上は平三斗。
軸部は貫と長押でつながれ、頭貫の上の中備えは間斗束。
背面(西面)は1間。板戸が設けられています。
妻飾りは二重虹梁。板蟇股で上の梁や棟木を受けています。
破風板の拝みには猪目懸魚。
鳳凰堂については以上。