甲信寺社宝鑑

甲信地方の寺院・神社建築を語る雑記。

【会津若松市】厳島神社

今回は福島県会津若松市の厳島神社(いつくしま-)について。

 

厳島神社は若松市街の飯盛山中腹に鎮座しています。

創建は社伝によると永徳年間(1381~1384)で、当地の豪族が宗像社の分霊を祭祀したのがはじまりとのこと。創建後は神仏習合により弁才天と同一視されたほか、別当寺として正宗寺が開かれました。創建以来、歴代の領主の崇敬を受けて隆盛し、江戸中期には松平氏によって現在の社殿が再建されました。江戸後期には正宗寺にさざえ堂が造営されています。明治初期には廃仏毀釈で正宗寺が廃寺となり、社号を「厳島神社」に改めて独立の神社となっています。

現在は旧正宗寺やさざえ堂が管轄から外れたため、境内は飯盛山の一部の区画だけとなっています。社殿は拝殿のないめずらしい構成で、本殿は東日本ではあまり見かけない大型の春日造となっています。また、境内の水路には白虎隊が会津戦争のさいに通った弁天洞穴があります。

 

現地情報

所在地 〒965-0003福島県会津若松市一箕町大字八幡弁天下甲1405(地図)
アクセス 会津若松駅から徒歩40分
会津若松ICから車で10分
駐車場 なし(※飯盛山に無料駐車場あり)
営業時間 随時(※夜間は入山禁止)
入場料 無料
社務所 なし
公式サイト なし
所要時間 15分程度

 

境内

境内

厳島神社の境内は西向き。境内入口は幹線道路から少し坂をのぼった場所にあります。

入口には石造明神鳥居。扁額は「厳島神社」。

左の標柱は「奥州会津飯盛山本参道」。この参道の50メートルほど南側には仲見世やエスカレーターのある参道が平行していて、現在はそちらが表参道といった趣ですが、おそらく白虎隊の墓が観光地化される前はこちらが主要な参道だったのでしょう。

 

参道を進むと境内の中心部に到着し、二の鳥居があります。

二の鳥居は木造両部鳥居。

右の社殿は子育地蔵尊。入母屋(妻入)、向拝1間、銅板葺。

 

鳥居をくぐると左手に手水舎があります。

切妻、鉄板葺。

木鼻や舟肘木、格天井といった意匠が使われています。

 

参道の先には本殿が鎮座しています。たいていの神社は本殿の前に拝殿がありますが、当社には拝殿がありません。

祭神はイチキシマヒメ。神仏習合の時代は弁財天と同一視されていて、この本殿は弁天堂の別名でも呼ばれていたようです。私の想像になりますが、拝殿がないのは当社が神社・寺院の中間的な性質の霊場だったためではないかと思います。

 

本殿は、梁間正面1間・背面3間・桁行3間、一間社春日造、向拝1間、銅板葺。

1700年(元禄三年)再建。藩主・松平正容の寄進とのこと。

 

正面の破風。

破風板の拝みには鰭付きの蕪懸魚が下がっています。

妻飾りは虹梁と大瓶束。

 

向かって右の向拝柱。面取り角柱が使われ、江戸中期のものですが面取りの幅がやや大きく造られています。

向拝柱の側面には象鼻。柱上の組物は連三斗。

 

虹梁中備えは蟇股。雲状のシルエットで、中央には宝珠のような彫刻が入っています。

 

海老虹梁は向拝柱の組物の上から出て、母屋側は頭貫の木鼻と一体化しています。海老虹梁は大きく湾曲した形状で、軒裏の桁に接触しているほか、上側のすきまは板を張ってふさいでいます。

建築様式は春日造*1で、切妻の母屋(写真左)の正面に庇(写真中央)がついた形式です。この本殿は母屋と庇の軒裏の垂木の直交を、桁を仕切りにすることでさばいています。また、仕切りとなる桁が海老虹梁の上で途切れているのを隠すため、海老虹梁の上のすきまに板を張っています。

 

母屋側面は3間。

前方の1間(写真右)は外陣と思われ、柱間に舞良戸が入っています。後方の2間(写真左)は内陣と思われ、柱間は横板壁。

縁側は切目縁。左側面と右側面の2面に設けられ、外陣部分と内陣部分とで床や欄干の高さに差がつけられています。欄干は擬宝珠付き。縁側の終端は脇障子を立てています。

 

後方の内陣部分。

内陣部分を構成する柱は円柱が使われています。上の写真には写っていないですが、外陣の前方の柱は角柱が使われていました。

柱間は貫と長押で固められ、頭貫には木鼻があります。柱上の組物は出組。中備えは蟇股。

 

背面は3間。柱間は横板壁。

こちらは頭貫の上の中備えに、蟇股と撥束が使われています。

妻飾りは二重虹梁。大虹梁の上には大きな蟇股があり、二重虹梁の上では大瓶束が棟木を受けています。

破風板には猪目懸魚が3つ下がっています。

 

本殿後方には水路が通っており、境内の北側にはこのような洞穴があります。

この水路は戸ノ口堰といい、猪苗代湖の水を会津盆地へ引くために造られたものです。水路の一部である洞穴は全長150メートルあり、1835年の工事で開通したようです。当社が弁財天と同一視されていたことから、弁天洞穴という名称がついています。

1868年の会津戦争では、戸ノ口原(猪苗代湖の西岸)から敗走する白虎隊(士中二番隊の20人)がこの弁天洞穴を通り、当社境内から飯盛山に登って自害したとのこと。

 

弁天洞穴の近くには戸ノ口堰水神社が南面しています。

入母屋、向拝1間、銅板葺。

柱はいずれも角柱で、簡素な木鼻や組物が使われています。

 

水路に沿って本殿南側へ行くと、石段の先に会津さざえ堂が見えます。

会津さざえ堂については当該記事にて紹介しているため、当記事では割愛。

 

以上、厳島神社でした。

(訪問日2024/08/11)

*1:春日造は純粋な春日造と隅木入り春日造に大別でき、この本殿は前者に属する。春日造は東日本ではあまり多くないが、そのほとんどは隅木入り春日造で、この本殿のような純粋な春日造は少ない。純粋な春日造は奈良県の周辺でよく見られる。