甲信寺社宝鑑

甲信地方の寺院・神社建築を語る雑記。

【長野市】川中島古戦場八幡社(八幡原史跡公園)

今回は長野県長野市の川中島古戦場八幡社(かわなかじま こせんじょう はちまんしゃ)について。

 

川中島古戦場八幡社は八幡原(はちまんぱら)史跡公園の一画に鎮座しています。

創建は不明。社伝によると平安時代、信濃に配流された村上顕清が当地に八幡宮を祀ったのが始まり。第4次川中島の戦い(1555年、別名は八幡原の戦い)では、当社近辺が激戦地となりました。後世では、信玄・謙信の一騎討ちの舞台として伝説に語られています。川中島の戦いののち、高坂弾正によって社殿が再建され、江戸期は松代藩真田家よって維持されました。明治期には諏訪神が合祀されています。

現在の境内や周辺は公園や博物館として整備されています。社殿は近現代の再建で、旧本殿は江戸期のものと思われます。境内は一騎討ちの像をはじめ、川中島の戦いにまつわる石碑が多く残されています。

 

現地情報

所在地 〒381-2212長野県長野市小島田町1362(地図)
アクセス 今井駅から徒歩1時間
長野ICから車で5分
駐車場 100台(無料)
営業時間 随時
入場料 無料
社務所 あり
公式サイト なし
所要時間 15分程度

 

境内

参道

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川中島古戦場八幡社の境内は南向き。八幡原史跡公園の北西の区画にあります。

入口の鳥居は木造の両部鳥居。扁額は「八幡社」で、唐破風の庇が設けられています。

 

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参道左手には手水舎。

切妻、銅板葺。

 

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参道を進むと、旧本殿が納められた覆い屋に行き当たります。後方に見えるのは拝殿。

旧本殿の覆い屋は、鳥居と拝殿をむすぶ線から少し左にずれた位置に建っています。

 

旧本殿

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旧本殿は一間社流造、こけら葺(とち葺?)。

造営年不明。私の予想になりますが、江戸初期以降のものかと思われます。

簡素かつ簡略的な造りで、年代推定の根拠になるような部材があまり見当たりません。

 

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向拝柱は几帳面取り角柱。

母屋柱は床上も八角柱になっていました。

母屋の軸部は長押で固定され、頭貫木鼻はありません。

 

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柱上は舟肘木を組んだものが使われています。

中備えはありません。

妻飾りは大瓶束。こちらも八角柱の造形。

破風板の拝みには蕪懸魚のようなものが下がっています。

 

拝殿

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旧本殿を迂回して進むと、拝殿があります。

拝殿は、入母屋、正面千鳥破風付、向拝1間 軒唐破風付、銅板葺。

造営年不明。おそらく明治以降のもの。

 

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向拝の全体図。

 

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向拝の軒唐破風。

鬼板には三つ巴の紋。

破風板の拝みから下がる兎毛通は、蕪懸魚になっています。

 

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向拝柱は几帳面取り。

木鼻は正面と側面に象鼻のようなものがついています。

柱上の組物は出三斗。

 

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虹梁には唐草の絵様が彫られています。

虹梁中備えは蟇股。くり抜かれていない板状のもので、幾何学的な模様が彫られています。

その上の唐破風の小壁には、笈形付き大瓶束が置かれています。

 

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向拝柱と母屋は、ゆるやかにカーブした海老虹梁でつながれています。

海老虹梁の母屋側は、頭貫の高さ。向拝側は虹梁や木鼻の高さに取りついています。

母屋の扁額は「八幡社」。

母屋の前面は格子の引き戸になっています。白い幕には三つ巴の紋。

 

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屋根正面の千鳥破風。

鬼板には三つ巴の紋、破風板の拝みには鰭付きの蕪懸魚、破風には木連格子が張られています。

 

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拝殿の母屋柱は角柱が使われています。柱上や中備えの意匠はありません。

軒裏は二軒のまばら垂木。

 

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右側面(東面)。目立った意匠はありません。

入母屋破風には、鰭付きの蕪懸魚と木連格子が使われています。

 

本殿

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拝殿の裏には幣殿(切妻、妻入の建物)がつづき、その先に本殿が鎮座しています。

本殿は、桁行3間・梁間2間、三間社切妻、銅板葺。

造営年不明。拝殿と同年代のものと思われます。

祭神は誉田別命などの八幡神のほか、タケミナカタ(諏訪大社の祭神)も祀られています。

 

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左側面(西面)。

前方(写真右)には幣殿があり、向拝のような箇所が見当たりません。よって流造ではなく切妻造りと呼ぶのが適当でしょう。

 

側面は2間。母屋柱は円柱で、柱上の組物は大斗と実肘木。

妻飾りには、上下につぶれた感じの豕扠首が使われています。

軒裏は一重の繁垂木。

 

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頭貫木鼻はΣ字状のシルエットのもの。

シルエット的には大仏様木鼻に見えるのですが、繰型がついている点では禅宗様木鼻に見え、どちらともつかない微妙な外観です。

 

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背面は3間。

おそらく正面も3間と思われます。よって三間社だろうと判断しました。

こちらもとくに目立った意匠はなく、柱間は壁板が横方向に張られているだけです。

縁側は正面と両側面の計3面にまわされています。欄干は組高欄。背面側は脇障子を立ててふさいでいます。

 

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破風板の拝みには蕪懸魚。

大棟には千木と鰹木。

千木は外削ぎ(先端を垂直にカット)で、風穴が空いて先端が二股になっています。

鰹木はゆるやかな紡錘形のものが7本載っています。

 

境内の石碑など

境内には川中島の戦いにまつわる石碑などが多く点在しています。内容は、どちらかといえば武田氏にまつわる物件が多めです。

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こちらは信玄・謙信一騎討ち像。拝殿向かって左手前にあります。

 

武田信玄と上杉謙信の一騎討ちは川中島の戦いを象徴する一幕で、戦国時代の竜虎として名高い両名が一対一でぶつかる名場面。浮世絵や浄瑠璃の題材になることも多く、おそらく歴史上もっとも有名な一騎討ちかと思われます。

ただしこの一騎討ちは、『甲陽軍艦』など信憑性に疑問符のつく資料が出展のため、史実かどうかは不明です。あくまでも伝説として楽しむくらいに留めておくのが無難でしょう。

 

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向かって右は上杉謙信。

馬にまたがり騎乗のまま刀で切りかかっています。頭には布を巻いていて、僧形の姿。馬も迫真の表情です。

 

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向かって左は武田信玄。

几帳に座っていたところを急襲され、とっさに軍配で刀を受けようとしています。信玄は肖像画によっては痩せ型のものもありますが、この像は多くの人がイメージする恰幅の良い姿です。

 

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拝殿左手前にある「執念の石」。

信玄の側近の原大隅守(原虎吉)が、上杉謙信を討ち取る好機を逃してしまったことを悔しがり、この石を槍で貫いたとのこと。

 

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拝殿右手には「逆槐」(さかさえんじゅ)。

陣地の造営のために打った杭が、月日を経て根を張り成長したものらしいです。

 

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逆槐のとなりには「三太刀七太刀之跡」(みたち ななたち の あと)の石碑。

前述の一騎討ちがここで行われたらしいです。謙信は刀で3回斬りかかりましたが、それを受けた信玄の軍配には7つの傷ができていたとのこと。

 

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境内西端には首塚。

武田方の春日虎綱(高坂弾正)が、敵味方の区別なく死者を葬った塚です。上杉謙信はそれに感心して武田氏に塩を送ったとのこと。諸説ありますが、「敵に塩を送る」の語源と言われています。

 

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最後に参道の横にあった盛り土。

前述の逆槐の案内板によると、これは武田方の陣地の跡だそうです。

 

以上、川中島古戦場八幡社でした。

(訪問日2022/02/17)