甲信寺社宝鑑

甲信地方の寺院・神社建築を語る雑記。

【韮崎市】藤武神社

今回は山梨県韮崎市の藤武神社(ふじたけ-)について。

 

藤武神社は市北部の丘陵、新府城の跡地に鎮座しています。

創建は不明。山梨県神社庁によると徳川家康の命で再建されたとのこと。

社名は藤井庄と武田庄を見下ろせる丘にあることが由来とされます。別名として藤武稲荷神社、新府藤武神社とも言うようですが、神社庁の登録名は「藤武神社」。通称は「お新府さん」。

境内は国指定史跡の新府城跡そのもので、社殿はあまり古いものではないようですが武田氏の最期を偲ぶことができる場所となっています。

 

現地情報

所在地 〒407-0262山梨県韮崎市中田町中條4787(地図)
アクセス 新府駅から徒歩15分
韮崎ICから車で15分
駐車場 10台(無料)
営業時間 随時
入場料 無料
社務所 なし
公式サイト なし
所要時間 20分程度

 

境内

参道

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藤武神社の境内は東向き。入口は車通りの多い県道に面しています。

鳥居は丹塗りの両部鳥居。稚児柱に屋根が設けられています。扁額は「新府藤武神社」。

 

参道の石段は非常に急で、訪問時は陸上部らしき中高生が石段を駆け上がってトレーニングに励んでいました。

ウェブで新府城を検索すると心霊関連のサジェストが出てきましたが、新府城は目立った戦闘の記録はありません。それよりも、境内入口の県道は歩道がないうえ車もかなりスピードを出しているので、車のほうがよっぽど危険で怖いと思いました。

 

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参道左手には神楽殿。入母屋、銅板葺。

大棟の紋は武田菱。

 

拝殿

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急な石段を登った先には拝殿が鎮座しています。この辺りが新府城本丸の跡地のようです。

拝殿は入母屋、向拝1間・軒唐破風付、銅板葺。

山梨県神社庁によると“文化三年改築の棟札”があるため、江戸後期の1806年のものと考えてよさそうです。

 

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向拝柱は几帳面取り。柱上の組物は連三斗。

木鼻は唐獅子。

 

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虹梁は唐草が彫られ、中備えは蟇股。蟇股のはらわたには唐獅子の彫刻。小さいながらも睨みが利いていて、良い造形だと思います。

唐破風の下の小壁には板蟇股。鳳凰らしき題材が彫られています。

 

本殿

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拝殿の後方には本殿が鎮座しています。

桁行正面1間・背面2間・梁間2間、一間社入母屋、向拝1間、銅板葺。

拝殿と同様、1806年の改築と見て良いでしょう。

 

祭神はウカノミタマ、アマテラス、ツクヨミ、保食神、ワクムスビ、そして武田勝頼。

武田勝頼は新府城の築城主。躑躅ヶ崎館(現在の武田神社)から当地へ転居して新府城を武田氏の本拠地にしようとしますが、織田氏の甲州征伐を受け新府城を放棄して逃亡し、間もなく天目山の戦いで自害します。

 

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向拝柱は几帳面取り角柱。木鼻は象鼻。

柱上の組物は、基部に皿がついた出三斗。手挟は繰型がついたもの。

 

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正面の階段は、板を組んだ簡略的なもの。

縁側はくれ縁が3面にまわされています。欄干は擬宝珠付き。

 

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母屋柱は円柱。上部に長押が打たれ、頭貫木鼻は象鼻。

母屋正面は建具がなく、1間奥まった箇所に扉が設けられていました。甲府盆地周辺の本殿でよくある構造。

 

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背面。こちらは柱間2間。

母屋柱の床下は八角柱になっていました。

縁側の背面は脇障子でふさがれています。彫刻や装飾はありません。

 

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入母屋破風。大棟鬼板には武田菱。

破風板の拝み懸魚は雲の意匠。妻壁は豕扠首。

 

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本殿の裏手の北側には「武田勝頼公霊社」。

ほかにも戦死した武将を祀る祠が並んでいましたが、こられは祠であって墓ではありません。なお、武田勝頼の墓は甲州市の景徳院(田野寺)にあります。

 

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新府城の縄張り図。

新府城は武田氏の築城術の集大成と言える大規模なものだったようですが、未完成のまま武田氏は滅亡しています。武田氏滅亡後は、徳川氏が天正壬午の乱で拠点として使用したとのこと。

縄張りの南側(藤武神社の向かって左のほう)に土塁や堀などの遺構が集中しているようです。私には城跡について解説できるほどの知識はないため割愛。

 

以上、藤武神社でした。

(訪問日2021/01/30)