今回は山梨県昭和町の義清神社(よしきよ-)について。
義清神社は昭和町の中心市街の住宅地に鎮座しています。
境内は平安期の甲斐源氏の拠点があった場所とされ、源義清(みなもとのよしきよ)が祀られています。本殿はおそらく江戸期のもので造りや規模は平凡ですが、細部の意匠は他社で見られない独特なものがあり、地味ながら個性ある本殿となっています。
現地情報
所在地 | 〒409-3866山梨県中巨摩郡昭和町西条4265(地図) |
アクセス | 国母駅から徒歩15分 甲府昭和ICから車で10分 |
駐車場 | 10台(無料) |
営業時間 | 随時 |
入場料 | 無料 |
社務所 | なし |
公式サイト | なし |
所要時間 | 10分程度 |
境内
参道と拝殿
義清神社の境内は南向き。
境内の前には川が流れており、橋から少し奥まったところに鳥居が立っています。
鳥居は石製の明神鳥居で、扁額は「義清神社」。
参道の左手の案内板には義清神社の社名の由来などについて書かれていました。義清というのは平安時代の武将である源義清(1075-1149)のことです。
Wikipediaによると源義清は別名を武田冠者といい、常陸国の武田郷(現 茨城県勝田市武田)出身。常陸での抗争に敗れて甲斐国へ配流され、ここを拠点にして勢力を伸ばし、後世の甲斐源氏の基盤をつくりました。この義清神社は、源義清の晩年の住居があった場所と伝えられています。
源義清の末裔には、言わずと知れた甲斐武田氏や、信州松本(深志)を本拠地にした小笠原氏などの有力な武家が派生しています。
拝殿は桟瓦葺の入母屋(平入)。向拝なし。
虹梁(こうりょう)のような意匠はあるものの、そのほか神社らしい箇所はとくになし。
賽銭箱には武田菱が描かれていました。
本殿
拝殿の裏には塀に囲われた本殿が鎮座しています。
本殿は銅板葺の一間社流造(いっけんしゃ ながれづくり)、軒唐破風(のき からはふ)付きの向拝1間。
造営年不明。おそらく江戸初期以降の造り。
祭神は武田冠者こと源義清です。
正面の唐破風の中央には、鳳凰と思しき彫刻がついています。その両脇には波のような意匠の彫刻。
破風板そのものはこれといった装飾がなく、少々のっぺりとした印象。
軒下の虹梁は陰になっていて見づらいですが、中備えにも彫刻(題材不明)、両端の木鼻は正面側に唐獅子、側面には獏の彫刻が施されていました。
側面の破風板についている桁隠しは、波のような意匠が透かし彫りされています。
こういった意匠は他の神社では見かけないので、非常に個性的だと感じました。
向拝柱と母屋柱をつなぐ海老虹梁(えびこうりょう)は、流麗な曲線を描いて柱を連絡しています。
海老虹梁の上のほうで垂木を受けている手挟(たばさみ)にも波のような透かし彫りがあり、こちらもまた個性的。
母屋の正面は桟唐戸(さんからど)。武田菱がついています。
縁側は壁面と直交に板を張った切目縁が3面にまわされていて、欄干は擬宝珠付き。床下は組物で支えられ、背面側は脇障子でふさがれています。
母屋の柱上の組物は二手先の出組。
組物によって持ち出された梁の上では、豪華な波の意匠のついた笈形付き大瓶束(おいがたつきたいへいづか)が大棟を支えています。この笈形の波もまた透かし彫りになっていて、非常に華やか。
組物の下の貫には唐獅子の木鼻がついており、組物のあいだには蟇股などのかわりに斗(ます)がびっしりと横並びで配置されています。
また、破風板には題材不明の桁隠しもついています。
背面の桁も出組で持出しされています。
縁側は3面なので、背面にはまわされていません。
床下の腰組もちょっと変わっています。
腕木を伸ばし、そこに斗や平三斗(ひらみつど)を置いて縁側を受けるといった感じの妙な造り。
母屋の柱を観察すると、床下の成形が八角柱で止められていました。
以上、義清神社でした。
(訪問日2020/01/24)