今回は長野県千曲市の粟狭神社(あわさ-)について。
粟狭神社は国道18号沿線の住宅地に鎮座しています。
創建は不明。平安時代の『延喜式』に記載がある式内社で、その頃には確立されていたようです。その後の詳細な沿革は不明ですが、真田氏など代々の領主から寄進を受けたとのこと。
境内は独特な外観のケヤキが立ち並び、社叢に覆われています。本殿は大規模な三間社流造で、立川流の宮大工の作。また、旧本殿は一説によると鎌倉時代のものらしいですが、真偽のほどは不明です。
現地情報
所在地 | 〒387-0006長野県千曲市大字粟佐1324(地図) |
アクセス | 屋代駅から徒歩15分 更埴ICから車で5分 |
駐車場 | なし |
営業時間 | 随時 |
入場料 | 無料 |
社務所 | あり(要予約) |
公式サイト | なし |
所要時間 | 15分程度 |
境内
参道
粟狭神社の境内は南向き。市街地の一画に社叢が茂っていて、遠目にもわかりやすいです。
入口には木造の両部鳥居。太いしめ縄がかけられています。
扁額は「粟狭神社」。上に唐破風の屋根がついています。
「狭」の字は、手へんの「挟」にも見えます。
社叢はケヤキ(欅)が中心のようです。
こちらは参道西側に生育しているケヤキを、拝殿のほうから見た図。
拝殿
拝殿は、入母屋、向拝1間、桟瓦葺。
向拝には太いしめ縄がかけられています。
向拝柱の組物は、大斗と花肘木。
虹梁は無地の材。
中備えは蟇股。巻斗と実肘木が一体化した材を介して、軒桁を受けています。
拝殿の右側面(東面)。右端に見切れているのは本殿。
拝殿の背面から、本殿のほうへ向かって入母屋の屋根が伸びています。
本殿
拝殿の後方には塀に囲われた本殿が鎮座しています。本殿は総欅造とのこと。
桁行3間・梁間2間、三間社流造、向拝1間 軒唐破風付、銅板葺。
祭神はタケミナカタ、事代主、スクナビコナ。
案内板(設置者不明)によると1866年(慶応二年)の造営。完成までに3年の歳月がかかったとのこと。
棟梁は妻科(長野市妻科)出身の池田文四郎。立川和四郎富昌(2代目和四郎)に弟子入りして建築や彫刻を学んだ工匠で、諏訪の立川流の一門です。
正面の向拝は1間。
向拝柱は几帳面取り。正面に唐獅子、側面に獏の木鼻がついていますが、金網のせいで詳細を観察できません。
虹梁中備えには竜の彫刻もありますが、こちらも金網に覆われています。
唐破風の兎毛通にも彫刻が入っています。題材はよく解りません。
鬼板には梶の葉の紋。諏訪神社の系統であることがわかります。
向拝の下には角材の階段が5段。やや横長の、長方形の断面の材が使われています。
階段の下には浜床が張られています。
海老虹梁は、母屋の頭貫の高さから出ていますが、柱筋からずれた半端な場所です。母屋と向拝の幅のバランスを考えた結果、このようになったのでしょう。
頭貫の位置には、唐獅子の木鼻がついています。この木鼻は母屋の正面だけについていて、側面や背面にはありませんでした。
母屋の正面には3組の桟唐戸が立てつけられています。案内板(設置者不明)には“一間社流れ造り”と書かれていましたが、この本殿は三間社流造です。
側面は2間。柱間は横板壁。
母屋柱は円柱。
縁側は、切目縁が4面にまわされています。欄干は擬宝珠付き。背面側は脇障子を立てています。
右側面(東面)の妻壁。
側面の軒下も金網がかかっていて、ちょうど朝日が反射してしまいました。
二手先の組物と、妻虹梁はなんとか観察できます。
破風板の拝みには鰭付きの懸魚。桁隠しはなく、木口が露出しています。
左側面(西面)の妻壁。
こちらはなんとか観察に耐えうる写真が撮れました。
妻飾りは二重虹梁。
大虹梁の上には出組と力神が置かれ、二重の虹梁をさらに一手持ち出しています。
二重虹梁の上の妻飾りは笈形付き大瓶束。
この部分は、すぐ近くにある武水別神社の本殿とよく似ています。武水別神社本殿は立川和四郎が1850年に造ったもので、この本殿は弟子の池田文四郎が1866年に造ったものなので、師匠の作を参考にしたのかもしれません。
背面は3間。
軸部は長押と貫で固定され、柱上には台輪が通っています。
組物は二手先で、桁下の支輪に浮彫りの彫刻が入っています。
中備えは蟇股。
旧本殿
本殿向かって右、東側には旧本殿が鎮座しています。
旧本殿は、一間社流造、向拝1間、銅板葺。
案内板(設置者不明)の解説は以下のとおり。
古本殿 権殿・宝蔵とも言われ 現本殿が御造営されるとともに この地に移された。
造営年代は 正応年中(1288)再興と棟側の鬼面に墨書され鎌倉時代である。
御修造を加えたといえども旧観を保っており その工法は工匠の驚く処であり貴重な文化財建築である。
なんと、鎌倉時代に造られた本殿だそうです。
ちなみに、長野県内にある鎌倉時代以前の木造建築は3棟だけ(安楽寺八角三重塔、中禅寺薬師堂、布引観音の宮殿)で、本当に鎌倉時代のものならば確実に国宝か重要文化財になっているはずです。なお、この本殿はとくに文化財指定はないようです。
私の個人的な見解になりますが、あくまでも鬼面に“正応年中(1288)再興”と書かれているだけであって、この旧本殿は江戸前期あたりの再建ではないかと思います。
案内板に書かれていた元号の正応(しょうおう)は、承応(じょうおう、1652-1655)の誤記なのではとも思ったのですが、『信濃宝鑑』(歴史図書社、1974年)に“正応年間(今を去る六百余年前)再建に書かれる権殿”とあり、誤記ではないようです。
向拝は1間。
派手な彫刻がなく、質素な外観。
向拝柱は角面取り。
面取りの幅は、年代推定の根拠となる箇所です。この面幅は安土桃山から江戸初期のものに見えます。
側面には、繰型がついた禅宗様木鼻。この木鼻に彫られた渦は巻き数が少なく、あまり古いものには見えません。
柱上の組物は出三斗。
虹梁中備えは透かし蟇股。幾何学的な意匠が平面的に彫られています。
蟇股の造形も、年代推定の根拠になる箇所です。この蟇股の彫刻は、室町時代以降の意匠に見えます。
向拝の下には角材の階段が3段。段数が少ないです。
階段の下には浜床。
母屋柱は円柱。
軸部は長押で固定され、頭貫木鼻はありません。柱上は舟肘木。ここは鎌倉時代らしい意匠です。
母屋の前面には桟唐戸が使われています。これは禅宗様の意匠。
母屋と向拝をつなぐ海老虹梁は、なんとも言えない微妙な曲線形状。
妻飾りは、豕扠首(いのこさす)の束の部分を大瓶束に置き換えた意匠が使われています。
ここは武水別神社の摂社・高良社本殿と同じ意匠です。高良社本殿の案内板によるとめずらしい意匠のようで、私もこのような例は数件しか見たことがありません。
縁側は切目縁が4面にまわされ、欄干擬宝珠付き。脇障子はありません。
背面にはとくに目立った意匠はありません。
縁の下。
母屋柱は床下が八角柱になっています。
これは角柱から円柱を成形する手間を減らすため、見えづらい床下の成型を八角柱で止めて横着したのでしょう。このような技法は室町時代から出現します。
向かって右(東面)の大棟。
大棟は箱棟になっており、鬼板には鬼面がかかげられています。これは甲信地方でよく見かける技法。
案内板によるとこの鬼面が年代推定の根拠とのこと。
あまり古いものには見えませんが、これは複製なのかもしれません。
以上、粟狭神社でした。
(訪問日2019/08/11,2022/04/02)