今回は山梨県甲州市の景徳院(けいとくいん)について。
景徳院は市の南東の山間に鎮座する曹洞宗の寺院です。山号は天童山。通称は田野寺。
創建は1582年(天正十年)。当地で自害した武田勝頼や、それに殉じた家臣らの供養のため、徳川家康によって開かれました。1589年に伽藍が建立されたようです。江戸時代は住職が不在になるなどして衰微し、總寧寺(千葉県市川市)の末寺となりました。江戸後期から明治にかけて何度か火災に遭い、主要な伽藍を焼失しています。
現在の境内伽藍は、江戸後期の山門を除いていずれも明治以降のものです。当地は武田氏滅亡の地とされ、境内にある「武田勝頼の墓」や、境内全体が県指定文化財となっています。
現地情報
所在地 | 〒409-1202山梨県甲州市大和町田野389(地図) |
アクセス | 甲斐大和駅から徒歩40分 勝沼ICから車で20分 |
駐車場 | 30台(無料) |
営業時間 | 随時 |
入場料 | 無料 |
寺務所 | あり(要予約) |
公式サイト | なし |
所要時間 | 20分程度 |
境内
総門
景徳院の境内は北西向き。入口の総門は南西向きで、大菩薩初鹿野線という道路に面しています。
入口の総門は、一間一戸、高麗門、切妻、銅板葺。
右側面。
右の石碑は「武田勝頼公廟所」。
正面の軒下。
主柱から腕木を伸ばし、桁をわたすことで軒裏を受けています。
扁額は山号「天童山」。扁額のかかった梁は、柱のやや低い位置にわたされています。
背面から見下ろした図。
後方の控柱には低い切妻屋根がかかっています。
総門の向かいにある川沿いの駐車場には、甲州征伐にまつわる「姫ヶ淵」という石碑があります。
伝承によると、武田勝頼に最後まで付き従った侍女16人は、景徳院の向かいを流れる日川に身を投じて殉死したとのこと。
山門
総門をくぐって進むと参道が右手に折れ、境内は北西向きになります。
山門は、桁行3間・梁間3間、三間一戸、楼門、入母屋、銅板葺。
1779年(安永八年)建立*1とのことですが、現在の山門は1835年(天保六年)の再建です。県指定有形文化財*2。
下層。
正面3間、側面3間で、前方の2間が吹き放ちになっています。
ふつうの楼門は側面2間で造ります。側面3間の楼門は非常にめずらしいです。
向かって右手前の柱。
柱はいずれも円柱。頭貫には象鼻がついています。
柱上の組物は出三斗。
側面3間ですが内部は柱を1本飛ばし、空間を広く取っています。密教本堂のような造りです。
柱を飛ばした部分には太い虹梁がわたされ、中央に大瓶束が置かれています。
中央の通路部分にも太い虹梁がわたされています。
中備えは出三斗。
上層も側面3間です。こちらは右側面。
柱間は引き戸と横板壁。組物は出組。
背面。
中央の柱間が広く取られています。柱間は横板壁。
縁側の欄干は擬宝珠付き。
大棟には武田菱と花菱の紋が描かれています。
本堂と鐘楼
楼門の先には本堂が鎮座しています。本尊は釈迦如来。
本堂は、入母屋、向拝1間 向唐破風、銅板葺。
向拝は母屋の屋根の軒下から伸びています。
唐破風の兎毛通は猪目懸魚。
梁の上では、透かし蟇股が唐破風の棟木を受けています。
本堂のはす向かいには鐘楼。
入母屋、銅板葺。
正面の軒下。
内側に細い控柱が立てられ、飛貫を支えています。
内部は格天井。
柱は大面取り角柱。頭貫には大仏様木鼻。
飛貫と頭貫のあいだには、エの字型の蟇股が置かれています。
柱上の組物は出三斗。通肘木が使われています。
側面は2間。
頭貫の上の中備えは、透かし蟇股。
甲将殿と「武田勝頼の墓」
山門向かって右側の区画には甲将殿があります。武田勝頼とその妻子や、主君に殉じた家臣らを祀った霊廟です。
桁行3間・梁間3間、入母屋、向拝1間 向唐破風、鉄板葺。
明治時代の造営のようです。
向拝は1間。
虹梁中備えはありません。虹梁両端の木鼻は、見返り唐獅子。
唐破風の小壁には大瓶束が立てられています。
向拝柱は几帳面取り角柱。柱上は出三斗。
海老虹梁は母屋の頭貫の位置に取り付いています。海老虹梁の上では、唐破風の軒桁がわたされています。
向拝の内部は格天井が張られています。
母屋の正面中央の柱間には扉があります。桟唐戸のような外観ですが、扉の軸は藁座ではなく蝶番が使われています。
扉の上の欄間には、五三の桐や、唐草状の曲線が彫られています。
母屋柱は円柱で、柱間は横板壁。側面中央には窓が設けられています。
縁側は切目縁が3面にまわされています。
軸部は長押と貫で固定されています。頭貫には象鼻。
柱上には台輪が通り、中央の柱間は中備えに平三斗があります。
柱上の組物は出三斗と平三斗。
背面。
こちらは縁側がありません。
甲将殿の裏には3基の宝篋印塔が並んでいます。中央が武田勝頼の墓で、向かって右が北条夫人、左が嫡子・信勝のもの。
1775年(安永四年)、二百回忌に当寺の住職によって立てられたもので、「武田勝頼の墓」として県指定文化財に指定されています。
なお、ここに勝頼の遺体が埋まっているかどうかは不明。荻生徂徠の紀行文『峡中紀行』には、現在ある「武田勝頼の墓」がまだ造られていない1706年の当寺の様子が書かれています。その記述によると、勝頼が自害した数日後、僧侶が甲将殿の位置に多数の遺体を埋葬したが、どれが勝頼なのか判別できない状態だったため、勝頼の墓を特別に作るようなことはしていなかったようです。
武田勝頼の生涯や最期については、語ると長くなるうえ、ご存知のかたも多いと思うため割愛。
勝頼の法名(戒名)は「景徳院殿頼山勝公大居士」で、これが当寺の名前の由来です。
甲将殿の向かいには、勝頼と北条夫人が自害した場所とされる「生害石」なる石がありました。
以上、景徳院でした。
(訪問日2023/04/22)