今回も山梨県山梨市の大井俣窪八幡神社について。
その2では高良神社、武内大神、若宮八幡神社について述べました。
当記事では窪八幡神社の拝殿および本殿について述べます。
窪八幡神社拝殿
境内の中心部には、壁のようにそびえる長大な拝殿が鎮座しています。
桁行11間・側面3間、切妻、檜皮葺。
1557年(弘治三年)造営。「窪八幡神社拝殿」として国重文*1。
武田晴信(信玄)による造営。村上義清の攻略を祈願した寄進だったとのこと。なお、村上義清は信玄を2度撃退していますが、この拝殿の造営後は信玄が勝利しています。
扁額の字は「神徳惟馨」(しんとく これ かぐわし)。
柱は大面取り角柱で、柱上は舟肘木。
向かって右の端の2間通りには壁が張られています。ほかの柱間は腰壁が縦方向に張られていますが、窓などはなく、吹き放ちです。
案内板(山梨市)によると“左右が対称ではない点、床が低い点などは神社拝殿としては特異であり、庁屋(現在でいう社務所)として使用されていたと考えられます”とのこと。
左側面。
妻飾りは豕扠首。破風板拝みには梅鉢懸魚。
室内は、柱を飛ばして内部空間を広く取っています。柱の省略された場所は、梁の上に束を立てています。
天井はなく、化粧屋根裏となっています。
拝殿の奥には、本殿の正面の扉が見えます。
窪八幡神社本殿
ここまで長くなりましたが、いよいよこの神社の中枢たる窪八幡神社本殿の登場です。
桁行11間・梁間2間、十一間社流造、向拝11間、檜皮葺。
武田信満により1410年(応永十七年)に再建されたもの。1531年(享禄四年)に武田信虎により修復、1557年(弘治三年)に武田晴信により扉が奉納されたとのこと*2。
「窪八幡神社本殿」として国指定重要文化財。
母屋の正面の間口は11間もあり、十一間社流造(じゅういっけんしゃ ながれづくり)という建築様式で、神社本殿として最大規模です。なお、十一間社は少数ながら例があり、石清水八幡宮本殿(京都府八幡市)が十一間社八幡造、広峰神社本殿(兵庫県姫路市)が十一間社入母屋となっています。
向拝は11間。柱間の腰の高さに、格子が張られています。
祭神は誉田別命などの3柱(八幡三神)。神座のある柱間には、紙垂のついた縄がかかっています。
向拝柱は黒い円柱。ふつう、ここは角柱を使います。
柱上は連三斗。軒桁を直接受けています。
柱の側面には大仏様木鼻が出て、組物を持ち送りしています。
中央付近の向拝柱。
向拝柱に円柱を使っている理由は、私の予想だと、他の摂社・末社との格のちがいを明示するためではないかと思います。ほかの説として、“八幡造の外殿を簡略化して庇にしてしまったことを、その柱の形の相違で表示した*3”という考察もあります。
ちなみに、向拝柱に円柱を使った例は当社殿のほかにも少数ながら存在し、甲信地方だと大宮熱田神社本殿(松本市)や雲峰寺本堂(甲州市)があります。
向拝柱と母屋柱のあいだには、繋ぎ虹梁がわたされています。母屋側は、頭貫の下に取り付いています。
母屋の組物は、連三斗と平三斗。
母屋の正面。写真に収めきれていませんが、3組の扉がついています。
母屋は、正面3間の本殿(三間社)3つを、あいだに1間おいて連結させたような構造で、つごう11間(3+1+3+1+3=11)となっています。
扉やその上の長押には金箔が貼られていたようですが、ほとんどはげてしまっています。ガラスで覆われている部分は壁画のようですが反射でよく見えず。
妻飾りは豕扠首。
縁側は3面にまわされ、欄干は跳高欄。背面側には脇障子。
脇障子には絵らしきものが見えますが、題材不明。
十一間社という様式や向拝の円柱など、特異な点が目立つ本殿ですが、屋根は流造に特有の美しい曲面で造り上げられています。
背面。こちらも11間あります。
柱間の幅は等間隔ではないようで、少し広くなっている間口は神座があるところなのでしょう。
背面の床下。
背面は縁側がなく、縁側の終端も脇障子でふさがれています。
母屋の柱は、横着せず床下までしっかりと円柱に成形されています。
その他の社殿など
最後に、境内の裏手にある社殿などについて。
こちらは境内の北、若宮八幡神社本殿の裏手にある如法経塔(にょほうきょうとう)。
写経した経文を納めるための塔で、内部は空洞、外部には銘文が彫られていたが明治期の廃仏毀釈で削り落とされてしまったとのこと。「その1」で述べた鐘楼とともに神仏習合時代のなごりをとどめる遺構です。
1532年のものとされ、県指定有形文化財です。
「その2」では国重文の摂社・末社が登場しましたが、それ以外の末社は境内の裏手の目立たない場所に追いやられています。
以上、大井俣窪八幡神社でした。
(訪問日2020/05/24,2023/04/22)