甲信寺社宝鑑

甲信地方の寺院・神社建築を語る雑記。

【塩尻市】永福寺

今回は長野県塩尻市の永福寺(えいふくじ)について。

 

永福寺は塩尻市の旧市街に鎮座する真言宗の寺院です。山号は慈眼山。

創建は室町後期ですが本尊の馬頭観音は行基の作と伝えられ、木曽義仲を弔うため開基されました。もとは長福寺といったようですが、9代将軍・徳川家重の幼名をはばかって1717年に永福寺と改名したとのこと。

伽藍は江戸後期から明治にかけてのもので、観音堂は立川和四郎(2代目)が、山門はその弟子が造営し、両者とも立川流となっています。

 

現地情報

所在地 〒399-0712長野県塩尻市塩尻町1223(地図)
アクセス みどり湖駅から徒歩15分
塩尻ICから車で5分
駐車場 10台(無料)
営業時間 随時
入場料 無料
寺務所 あり(要予約)
公式サイト なし
所要時間 10分程度

 

境内

山門(仁王門)

永福寺入口

永福寺の境内は南西向き。国道153号線の脇道のような道路に面しています。

寺号標は「高野山真言宗 慈眼山 永福寺」。

石造の冠木門の向こうには、多数の石仏と山門が見えます。

 

永福寺山門

山門(仁王門)は桟瓦葺の入母屋。正面3間・側面2間、三間一戸の楼門。柱はいずれも円柱。1階部分は前方の1間が吹き放ち。

案内板(総代会一同)によると1896年(明治29年)の造営、総工費3,850円。市指定有形文化財。

棟梁をつとめた立木音四郎は後述の立川和四郎の弟子で、代表作に大御食神社(駒ケ根市)があります。

 

山門1階部分

山門木鼻

山門木鼻

総欅造りのようですが、前方の柱は石材が使われています。

柱と柱のあいだには菊が彫られた虹梁(こうりょう)がわたされ、虹梁と柱をつなぐ持ち送りは菊水や牡丹が彫られています。柱の前面には唐獅子と象の彫刻。

明治期のものなので彫刻はいずれも曲線的で精緻な造形。

 

山門側面

1階部分の側面後方。

木材の柱は上端がすぼまった粽(ちまき)。柱上の組物は皿のついた大斗のベースとした出組となっています。組物のあいだには蟇股(かえるまた)。

壁板は横方向に張られています。

 

山門2階

山門側面

2階部分の軒下。

柱は粽でない円柱で、虹梁の上には長押(なげし)が打たれています。また、木鼻が使われていません。

柱上の組物は和様の尾垂木が突き出た三手先。組物のあいだには蟇股と巻斗、持ち出された桁の下には波の彫刻が見えます。

軒裏は二軒(ふたのき)の繁垂木で、放射状に伸びた扇垂木となっています。

 

本堂

永福寺本堂

本堂は銅板葺の入母屋(平入)。

造営年は不明ですが、山門よりも新しいものと思われます。

大棟の紋は丸に卍と笹竜胆。

 

本堂向拝

向拝の中備えには、2人の天女が彫刻されています。虹梁の両端の木鼻は、こちらを振り向く唐獅子。

奥の母屋の扁額は山号「慈眼山」。

 

観音堂

永福寺観音堂

永福寺観音堂

境内の最奥には観音堂が北西向きに鎮座しています。

観音堂は茅葺の入母屋(妻入)。正面3間・側面4間、向拝1間。母屋柱は円柱で、前方の1間が吹き放ちの外陣となっています。

1855年(安政二年)着工諏訪大社上社本宮などで知られる2代目和四郎こと立川和四郎富昌が棟梁をつとめましたが、用材の枝下ろしの際の事故で死去(享年74)しており、この観音堂は2代目和四郎の遺作になります。

 

建築様式は妻入の入母屋。正面から見ると春日造と似ていますが、背面側まで軒がまわされているので春日造ではなく入母屋です。前後に伸びた大棟は箱棟になっています。

 

観音堂向拝

向拝木鼻

正面の向拝の軒下。

軒先は2本の向拝柱(几帳面取り角柱)で支えられ、虹梁の上の中備えには竜。向拝柱の木鼻は正面が唐獅子、側面は象。いずれも立川流のお家芸といえる彫刻。

 

向拝内部

向拝を外陣から見た図。

柱上の組物に使われている斗(ます)はいずれも皿のついたもの(皿斗)。大斗の上に乗っている肘木(ひじき)は雲の意匠がついています。

向拝柱の上で垂木を受けている手挟(たばさみ)は、籠彫りで牡丹が彫刻されています。

 

観音堂外陣

前方は外陣となっており、土足であがることができます。

階段の欄干は擬宝珠付き。縁側は壁面と直交に板を張った切目縁(きれめえん)が前後左右の4面にまわされています。縁側には欄干はなく、床下は縁束で支えられています。

見えづらいですが、向拝柱と母屋柱をつなぐ海老虹梁は、母屋の頭貫の高さから降りています。

 

観音堂側面

観音堂側面軒下

右側面(南西面)。

軸部は貫と長押で固定されています。頭貫には雲状の木鼻。柱上の組物は一手先で、桁下には波状の彫刻があります。

前方の1間は吹き放ち、その次の1間は引き戸。後方の2間は横方向の壁板。

 

柱間の中備えには十二支の彫刻を配置する計画だったようですが、立川和四郎が造営中に死去したため叶わなかったとのこと(案内板より)。予定どおりに彫刻が配置されていればもっと豪華な堂になっていただけに、立川和四郎の不慮の死が惜しまれます。

 

観音堂背面

背面。

柱上の意匠は側面と同様ですが、こちらは壁板が縦方向に張られています。

なお、母屋柱の床下は八角柱になっていました。

 

境内社

永福寺境内社

最後に観音堂の左手にある境内社。銅板葺の一間社流造。

 

境内社の向拝

さほど古いものではないと思われますが、写真左端に見える蟇股や、右端の木鼻、向拝柱の面取りの幅などに古風な点が散見されます。

 

以上、永福寺でした。

(訪問日2020/07/26)