甲信寺社宝鑑

甲信地方の寺院・神社建築を語る雑記。

【成田市】新勝寺(成田山) その4 額堂、光明堂、薬師堂

今回も千葉県成田市の新勝寺について。

 

その1では総門、仁王門について

その2では大本堂、三重塔、一切経蔵について

その3では釈迦堂と出世稲荷について述べました。

当記事では額堂、光明堂、薬師堂などについて述べます。

 

額堂

大本堂と釈迦堂のあいだを進んで境内の奥へ向かうと、途中に額堂があります。東側(写真右)が正面で、屋根は平入です。

桁行正面3間・背面5間・梁間2間、入母屋、桟瓦葺。

1861年(文久元年)造営。「新勝寺 5棟」として国指定重要文化財。

 

この堂は「第二額堂」で、「第一額堂」は三重塔の近くにありましたが、1970年に放火で焼失しています。第一額堂は7代目市川団十郎の寄進で造られたものだったとのこと。

 

正面は3間。

母屋の下半分は建具がなく吹き放ち。上半分は扁額や寄進者の名簿などがびっしりと掲げられ、組物や中備えといった意匠が隠れてしまい、ほとんど観察できず。

 

柱はいずれも几帳面取り角柱。

中央部の柱には唐獅子の木鼻。柱と虹梁の接続部の持ち送りには、「梅に鳳凰」「波に亀」の彫刻。

 

向かって右手前の隅の柱。

木鼻は見返り竜。持ち送りは波に鯉。

 

右側面(北面)は2間。

軒裏は二軒まばら垂木。

 

背面(写真左)および左側面(写真右)。

背面は柱間が5間あり、木鼻や持ち送りなどの彫刻は省略されています。

 

網がかかっていて見づらいですが、頭貫には象鼻、柱上には台輪がまわされ、組物は出三斗です。

 

入母屋破風。

破風板には、法輪と唐草の意匠の飾り金具。拝みには、波の意匠の鰭が付いた懸魚。

妻飾りは虹梁の上に力神(あるいは風神?)の彫刻がありますが、懸魚に隠れてよく見えず。

 

開山堂

額堂の向かいには開山堂が西面しています。成田山新勝寺を開いた寛朝を祀った堂です。

桁行3間・梁間3間、宝形、向拝1間、本瓦葺。

1938年造営。

 

向拝は1間で、向拝柱は几帳面取り角柱。

木鼻は拳鼻。柱上の組物は出三斗。虹梁中備えは蟇股。

 

海老虹梁はゆるやかにカーブした形状。向拝の虹梁の高さから出て、母屋の頭貫の位置に取り付いています。

向拝柱の上の手挟は、板状の部材に繰型がついたシンプルなもの。

 

母屋の手前には角材の階段が4段。階段は角材が使われ、木口には飾り金具。

階段や縁側の欄干は擬宝珠付き。

向拝柱の下端には、銅製の金具がついています。

 

母屋正面。

中央は板戸で、宝輪の紋が描かれています。左右の柱間は連子窓。

 

正面中央。

頭貫の上の中備えは蟇股。

 

正面向かって右の柱間。

窓の上には長押が打たれ、柱の上部には頭貫が通っています。頭貫には大仏様木鼻と禅宗様木鼻の中間的なものが使われています。

組物は木鼻のついた出組。中備えは間斗束。

軒裏は二軒重垂木です。

 

右側面(南面)。側面も3間です。

柱間は板戸、連子窓、横板壁が使われています。

 

背面。縁側に閼伽棚らしきものがついています。

背面の柱間は、いずれも横板壁。

縁側は、切目縁が4面にまわされています。

 

光明堂

額堂の先には光明堂(こうみょうどう)が鎮座しています。

桁行5間・梁間5間、入母屋、桟瓦葺。

1701年(元禄十四年)造営、1742年と1768年に改修。「新勝寺 5棟」として国指定重要文化財。

 

もとは当寺の本堂として使われ、現在の大本堂の位置にあったとのこと。新しい本堂(現在の釈迦堂)の造営にともなって本堂後方に移築され、現在の大本堂の造営にともなって現在地に再度移築されたようです。すなわち、2代前の本堂です。

案内板によると、安政年間(釈迦堂が造営された1858年頃)の移築の際、縁側と外陣の床を撤去して土間とする改造が施され、現在の形態になっています。

 

柱間は正面側面ともに5間。

向拝はなく、前方の2間通りが土間床の外陣となり、風変わりな構造。この時代のこの規模の仏堂は、正面の軒先に向拝をつけ、外陣の床は板張りにするのがふつうです。

 

柱の上部の欄間には唐草の彫刻がありますが、退色で白っぽくなってしまっています。

柱上の組物は尾垂木三手先。柱間にも組物がびっしりと並べられ、禅宗様の詰組です。

 

柱はいずれも円柱。上端がわずかに絞られています。

柱上には頭貫と台輪が通り、頭貫には麒麟(あるいは怪鳥?)の彫刻。

 

向かって左手前の隅の柱。

こちらの頭貫木鼻は、正面が唐獅子、側面が象。

 

向かって左側から、外陣の内部を見た図。

前方の2間通りが外陣となっていますが、内部は中間の柱をひとつ飛ばし、大きな虹梁をわたして大瓶束を立てています。

 

後方の母屋部分も正面5間。柱間は格子状の引き戸が使われています。

虹梁の下では唐獅子の木鼻が持ち送りとして使われ、柱間の欄間には牡丹など花鳥の彫刻が配されています。

内陣正面の組物は、尾垂木のない二手先。

 

右側面(東面)の母屋の全体図。

後方の3間は高床の内陣で、建具は桟唐戸が使われています。

縁側はありません。当初は周囲に縁側がまわされていたようですが、移築時の改造で省略されたとのこと。

 

側面の軒下。

組物のあいだには草木の彫刻が入り、組物で持ち出した桁の下の支輪板には雲の彫刻と紗彩形の紋様。

軒裏は平行の二軒重垂木。

 

破風板の拝みには蕪懸魚。

妻飾りは二重虹梁で、大虹梁の上には蟇股と出三斗が見えます。

 

光明堂の周辺

光明堂向かって左手前には、三社という境内社が東面しています。

三間社流造、向拝3間、銅板葺。見世棚造。

左から白山神社、金毘羅神社、今宮神社の3社が祀られているとのこと。

 

向拝と母屋をつなぐ梁はありません。

母屋の周囲には縁側がなく、見世棚造となっています。

 

母屋は後方の半分が神座で、前方の半分には階段が設けられています。

ふつうの神社本殿では、階段は室外に設けて地面の一歩手前まで降ろします。

 

光明堂の裏には「奥之院」なる洞窟。

内部には大日如来の像が安置され、石造の桟唐戸の隙間からのぞき込むことができます。

 

光明堂右側(東)には清滝観音堂がありますが、訪問時は工事中でした。

 

醫王殿と平和大塔

境内の最奥部には、醫王殿(左)と平和大塔(右)が鎮座しています。

醫王殿(医王殿)は、桁行5間・梁間5間、宝形、向拝3間 軒唐破風付。

平和大塔は、RC造、五間多宝塔、銅瓦葺。ただし内部は5階建てで、資料室として利用されています。

 

正面の向拝は3間。中央の唐破風のある部分は、虹梁が省かれて竜の彫刻がついています。

 

虹梁中備えは蟇股。木鼻は拳鼻。

向拝の組物は出三斗で、組物の上から海老虹梁が出て母屋の組物に取り付いています。

母屋柱は円柱で、柱上の組物は出組。実肘木はなく、桁を直接受けています。

頭貫の上の中備えは間斗束。

 

柱間は、連子窓や桟唐戸が使われています。

軒裏は二軒重垂木。

 

つづいて平和大塔。

下層は柱間が5間あり、五間多宝塔(大塔ともいう)の外観になっています。

柱間には板戸や連子窓が使われています。

 

下層の柱は面取り角柱。

軸部には長押が多用され、頭貫木鼻はありません。中備えは蟇股と間斗束。古風な和様を意識した意匠です。

組物は出組。

軒裏は二軒重垂木。

 

上層。

多宝塔のため、母屋や縁側は円形の平面となっています。

組物は尾垂木四手先。

 

軒裏は上層下層ともに二軒繁垂木。

二重の垂木のうち、母屋側の地垂木は円柱状の部材が、軒先の飛檐垂木は角柱状の部材が使われ、いわゆる「地円飛角」の造りになっています。

これは非常に古風な造りですが、採用されるのはごく一部のきわめて古い建築か、そうでなければ近現代の擬古的な建築くらいです。

 

平和大塔の手前には成田山公園。

新勝寺境内の主要な伽藍については以上。

 

薬師堂

所在地:〒286-0032千葉県成田市上町496-1(地図)

 

成田駅から成田山新勝寺へ向かう途中には、新勝寺の飛び地があり、薬師堂が鎮座しています。

宝形、向拝1間、桟瓦葺。

1655年(明暦元年)造営、1855年(安政二年)移築。市指定有形文化財。

現在の光明殿が新勝寺の本堂となる前に使われていた旧本堂とのことで、すなわち3代前の本堂です。新勝寺の伽藍のなかでは最古のもののようですが、当初の部材はあまり残っておらず、そのせいか市の文化財にとどまっています。

 

薬師堂手前の手水舎。

切妻、銅板葺。

 

向拝は、屋根の軒先を伸ばす形式ではなく、屋根の軒下から庇を出しています。

屋根の軒裏は一重まばら垂木。

建具は正面側面ともに舞良戸。

 

向拝柱は几帳面取り角柱。側面には象鼻。

柱上に組物はありません。

 

向拝(庇)には垂木がなく、板軒。

母屋の正面中央には虹梁が使われ、唐草の絵様が入っています。

 

以上、新勝寺でした。

(訪問日2022/11/19)

【成田市】新勝寺(成田山) その3 釈迦堂と出世稲荷

今回も千葉県成田市の新勝寺について。

 

その1では総門、仁王門について

その2では大本堂、三重塔、一切経蔵について述べました。

当記事では釈迦堂と出世稲荷について述べます。

 

釈迦堂

大本堂向かって左、境内西側の区画には、釈迦堂が南面しています。

釈迦堂は、当寺の旧本堂として使われていた建物です。現在の大本堂の建設にともない、1964年に現在地へ移築されました。

桁行5間・梁間4間、入母屋、正面千鳥破風付、向拝1間 向唐破風付、瓦棒銅板葺。

1858年(安政五年)造営。「新勝寺 5棟」として国指定重要文化財。

 

向拝は1間。

堂の規模が大きいため、向拝も広く取られています。

 

向拝の軒唐破風。飾り金具には宝輪の紋があしらわれています。

破風板から下がる兎毛通は、牡丹の彫刻。金網がかかっていて観察しづらいのが惜しいです。

 

向拝柱は几帳面取り角柱。

正面には唐獅子、側面には獏の木鼻。虹梁の下面には波の意匠の持ち送り。

 

向拝柱の下端には、銅製の飾り金具。

紗彩菱の紋様と、唐獅子の彫金があります。

 

虹梁中備えは竜の彫刻がありますが、日光が金網に反射してしまい、まともな写真が撮れませんでした。

 

向拝を内部から見た図。

向拝の組物は出三斗が2つ並んだもの。手挟は、植物の意匠の籠彫りされたものが、2つ並んでいます。

海老虹梁は、向拝の虹梁の高さから出て、母屋の頭貫の位置に取り付いています。

 

海老虹梁の母屋側には竜の彫刻が乗り、軒桁を受けています。

ここに大瓶束を立てる例は江戸中期あたりの大型仏堂でときどき見かけますが、このような彫刻を置いているのは初めて見ました。

 

屋根正面の千鳥破風。

妻虹梁の下には平三斗と竜の彫刻。上には力神らしき彫刻がありますが、陰になってしまいよく見えず。

 

母屋は正面が5間、側面が4間。柱間は、引き戸と桟唐戸が使われています。

縁側は切目縁が4面にまわされ、4面いずれも階段が設けられています。欄干は擬宝珠付き。

 

母屋柱は円柱。柱間には馬や麒麟を題材にした彫刻があります。

柱の上部に頭貫と台輪が通り、頭貫木鼻は唐獅子の彫刻。

柱上の組物は尾垂木三手先。組物のあいだの中備えにも彫刻があります。

 

正面中央の軒下。

こちらは虹梁がわたされ、中央に間斗束が置かれています。

柱間にも組物が置かれ、禅宗様の詰組になっています。

 

背面は5間。

背面側の柱間には長押が打たれ、窓の位置に彫刻がはめ込まれています。

 

背面中央。

正面と同様に、海老虹梁がわたされ、大瓶束が立てられています。

 

背面の桟唐戸の羽目板の彫刻。

左の縁側に立っている女性が、老婆に乳を飲ませているように見えるので、題材はおそらく二十四孝の「唐夫人」。

 

窓の位置の欄間彫刻には、大勢の人物像が描かれています。案内板(設置者不明)によると題材は「五百羅漢」で、“狩野一信の下絵に基づき、松本良山が十年の歳月を費やして彫刻したもの”とのこと。

 

側面の入母屋破風。

破風板の拝みには、鰭付きの懸魚。

妻飾りは二重虹梁。大虹梁の下には竜の彫刻。大虹梁の上では、力神が片膝をついたポーズで梁を支えています。

 

釈迦堂の周辺

釈迦堂のはす向かいには、手水舎が北面しています。

切妻、正面背面軒唐破風付、銅板葺。

 

柱は几帳面取り角柱。四隅の主柱に各2本の控柱が添えられ、つごう12本の柱が使われています。

 

主柱は内に転びがつけられています。頭貫と台輪には禅宗様木鼻。柱上の組物は出三斗。

控柱は、短い貫で主柱と連結され、内側には拳鼻がついています。柱上は、巻斗で頭貫を受けています。

 

正面中央の唐破風の部分の軒下。

台輪の上の中備えは蟇股。若葉のような意匠が彫られています。

唐破風の小壁では、短い大瓶束が棟木を受けています。

 

側面。

台輪の上の中備えに蟇股が使われている点は、正面と同様。

妻飾りは笈形付き大瓶束。

 

釈迦堂の手前の参道両脇には、灯篭の覆い屋があります。参道の右側と左側とで同様の造りをしています。

切妻、銅板葺。

 

柱は几帳面取りで、正面側面ともに唐獅子の木鼻。

 

組物は出組で、柱間にも詰組が置かれています。

妻飾りは大瓶束。

 

破風板の拝み懸魚は、波に亀の彫刻。

 

釈迦堂向かって左には、土蔵のような外観をした聖天堂が南面しています。

宝形、向拝1間 向唐破風、桟瓦葺。

 

向拝は1間。扁額は「歓喜天」。

破風板の兎毛通は猪目懸魚。

 

虹梁は白地に黒色の絵様がつき、両端の下部には波の意匠の持ち送りが添えられています。

中備えの彫刻は竜。

唐破風の妻飾りは、蟇股か笈形付き大瓶束。扁額の影になっていて、どちらなのかわからず。

 

向拝柱は面取り角柱。側面には見返り唐獅子の木鼻。

柱上は出三斗。

向拝と母屋のあいだには海老虹梁がわたされています。

 

側面。

母屋はしっくい塗りの白壁となっています。

軒の出がほとんどなく、仏堂にしてはモダンな趣。

 

出世稲荷

釈迦堂の南側の丘には、出世稲荷という神社が東向きに鎮座しています。

創建は不明。案内板(設置者不明)によると、佐倉藩の初代藩主・稲葉正往(丹後守)が宝永年間(1704-1711)に寄進した神像が本尊とのこと。

入口の鳥居は石造の明神鳥居。扁額は「だ枳尼天尊」*1

 

鳥居のはす向かいには手水舎。

切妻、銅板葺。

 

柱は几帳面角柱で、虹梁と台輪がわたされています。虹梁には木鼻と持ち送りがついています。

組物は出三斗。台輪の上の中備えは平三斗。

妻飾りは笈形付き大瓶束。

破風板の拝み懸魚は波の意匠。

 

参道を進むと本殿があります。拝殿はありません。

一間社流造、正面軒唐破風付、銅板葺。

造営年不明。私の推測になりますが、その2で述べた三重塔や鐘楼と似た彩色や彫刻が使われているため、1700年代(18世紀)前半のものかと思います。

 

正面の軒唐破風。

破風板には飾り金具が付き、兎毛通は鳳凰の彫刻。

 

向拝の軒下、虹梁中備えは竜の彫刻。

その上の唐破風の小壁には、松の木の下で琴を弾く女性の彫刻があります。

 

向拝柱(写真左)は几帳面取り。正面と側面に、唐獅子と獏の木鼻がついています。

柱上の組物は出三斗。組物の上の手挟は派手な籠彫りとなっており、題材は梅の木と鳳凰。

向拝柱と母屋のあいだには海老虹梁がわたされ、向拝側は波の持ち送りが添えられています。

 

紫色の垂れ幕には、五円玉の意匠とよく似た抱き稲の紋。側面には鳥居が置かれています。

母屋の周囲4面には切目縁がまわされ、欄干は跳高欄。背面側は脇障子を立てています。

 

縁の下は三手先の腰組で支えられています。

土台の上の柱間には、窓のような格狭間があります。

 

側面の軒下。

組物は木鼻のついた出組。柱間にも詰組があります。組物のあいだには花鳥の彫刻。

 

こちらは右側面後方にある「柏にミミズク」。めずらしい題材です。

 

妻飾りは笈形付き大瓶束。

大瓶束の結綿の部分は、獅噛になっています。

 

背面。

こちらも組物のあいだに花鳥の彫刻があります。

頭貫木鼻は、斜め方向に唐獅子の彫刻が出ています。

 

釈迦堂と出世稲荷については以上。

その4では額堂、光明堂、薬師堂などについて述べます。

*1:「だ」の字は、口へんにモ

【成田市】新勝寺(成田山) その2 大本堂、三重塔、一切経蔵

今回も千葉県成田市の新勝寺について。

 

その1では総門と仁王門について述べました。

当記事では大本堂、三重塔、一切経蔵などについて述べます。

 

大本堂

仁王門をくぐって石段を昇った先には大本堂。右手には三重塔がそびえ立ちます。

 

大本堂は、RC造、桁行5間・梁間5間、一重、裳階付、入母屋、銅板葺。

正面95.4m、側面59.9m、高さ32.6m*1

1968年竣工。大林組による施工とのこと。

本尊は不動明王。

 

正面には、階段を覆う庇がついていますが、向拝柱はありません。手前(写真左)に見える柱のようなものは雨樋です。

 

柱は円柱。柱間には貫や長押のような材が通っています。

柱上の組物はありません。そのかわりなのか、腕木のような部材を伸ばして桁をわたし、軒裏を受けています。腕木は「1本、2本、3本」と軒先に向けてリズムよく配置されています。桁は3本通っていて、組物で言う三手先のような構造。

軒裏は一重の繁垂木。

 

右側面(東面)。

柱間は板戸や白壁。

上層も、下層と同様に腕木や桁で軒裏を受けています。

入母屋破風に、妻飾りや懸魚といった意匠はありません。

 

三重塔

大本堂向かって右手前には三重塔。

三間三重塔婆、銅板葺。全高25メートル。

1712年(正徳二年)造営。「新勝寺 5棟」として国指定重要文化財。

 

三重塔としては標準的な規模。頂部の宝輪がやや小ぶりで、全体のバランスはとくに良くも悪くもないと思います。華やかな極彩色の彫刻が各所に配され、全体のバランスよりも細部の意匠に技巧を凝らした建築といえるでしょう。

 

初重の正面(南面)。

いずれの重も正面側面ともに3間。

 

柱は円柱。軸部の固定には長押が多用され、頭貫木鼻はありません。

中央の柱間は桟唐戸。左右の柱間は、本来なら窓を設ける部分に、素木の彫刻が入っています。

縁側は切目縁で、欄干の親柱は擬宝珠付き。

 

桟唐戸の詳細。

枠の部分には飾り金具がつき、羽目板には植物を題材とした彫刻。

 

左右の柱間の、窓の部分の彫刻。

題材は、案内板によると十六羅漢とのこと。

 

柱上の組物は、木鼻のついた三手先。

組物のあいだには彫刻が配されています。

 

桟唐戸の上の彫刻。こちらは右側面(東面)のもの。

題材不明ですが、人物像が彫られています。

また、彫刻の上の通し肘木には、花と唐草が描かれています。

 

組物には、尾垂木のかわりに竜の頭の彫刻が入っています。

そして軒裏には垂木がなく、二重の板軒となっており、雲と波が彫られています。このような彫刻された板軒は、江戸中期以降の建築でときどき見かける技法ですが、国重文クラスの文化財となっている例はめずらしいと思います。

 

二重。

見づらいですが、こちらは柱間に桟唐戸などの建具はありません。

組物は、初重が極彩色だったのに対し、二重は黒漆を金色で縁取った重厚なカラーリング。

縁側の欄干は跳高欄。

 

二重の縁の下の彫刻。

松に鷹などの花鳥が題材。

 

組物は、構造は変わりませんが、彩色は初重と対照的な黒漆。

中備えに立体的な彫刻はなく、そのかわりに壁面に雲や波が彫られています。

 

三重は、二重とほぼ同じ構造。

 

各重を見上げた図。

極彩色の板軒が3つも連なり、壮観の軒裏です。

 

鐘楼

三重塔のとなり(東)には、鐘楼と一切経蔵があります。こちらは鐘楼。

入母屋、銅板葺。袴腰付。

1701年(元禄十四年)造営

 

軒裏は二軒重垂木。

組物や彫刻は、前述の三重塔と同様の極彩色。

 

柱は円柱。上部に頭貫と台輪が通り、唐獅子の木鼻が斜め方向に出ています。

組物は二手先。中備えは蟇股。

 

縁側の軒下の中備えや支輪板にも彫刻。題材は、波や花鳥など。

 

下層は袴腰で、黒塗りの下見板が張られています。

 

破風板の拝みには懸魚。

妻飾りは、見えづらいですが虹梁と大瓶束があります。

 

一切経蔵

鐘楼のとなりには、一切経蔵が西面しています。

桁行3間・梁間3間、宝形、向拝1間 軒唐破風付、銅板葺。

1722年(享保七年)造営。市指定有形文化財。

堂内の輪蔵*2には2000冊におよぶ経典が収蔵されているとのこと。

 

正面の向拝の屋根の上には、鳳凰の彫刻が乗っています。

唐破風の兎毛通は、紅白の牡丹の彫刻。

 

向拝柱は几帳面取り。正面には唐獅子、側面には獏の木鼻。

 

虹梁の上には台輪が通っています。中備えには、なんらかの故事を題材にしたと思われる彫刻があります。

唐破風の小壁には小さい妻虹梁がわたされ、その上では板蟇股が唐破風の棟木を受けています。

 

向拝柱の上の手挟は、牡丹と思しき花が籠彫りされています。

向拝と母屋をつなぐ海老虹梁はありません。

 

向拝柱は下端がわずかに絞られ、飾り金具がついています。

 

母屋正面。扁額は「一切経蔵」。

堂内に八角形の輪蔵が見えます。輪造は三重塔と同様の極彩色で、桟唐戸の羽目板には花鳥や人物像の彫刻が入っています。

 

左側面(北面)。

内部が土間床のため、縁側はありません。

母屋柱は円柱。柱間は桟唐戸と火灯窓。

 

こちらは左側面後方の火灯窓の彫刻。

題材は、その1で述べた仁王門の欄間にもあった「司馬温の甕割り」。

 

反対側、右側面の火灯窓の彫刻。

こちらの題材は、寒山拾得。両人とも、唐時代の伝説に語られる高僧です。寒山は巻物をひろげたポーズ、拾得はほうきを持った姿で、たいてい2人1組で描かれます。

 

母屋柱には頭貫と台輪が通り、斜め方向に唐獅子の木鼻がついています。

柱上の組物は出組。桁下には軒支輪。

 

組物のあいだの中備えは、蟇股。こちらにも人物像の彫刻がありますが、題材は不明。

 

背面(東面)。

こちらは中央の柱間に扉がありません。

 

母屋柱は下端が絞られ、碁石状の礎石の意匠がついています。

建物に基壇はなく、簡単な石製の土台の上に建てられています。

 

聖徳太子堂

大本堂向かって右の、境内東側の区画には聖徳太子堂が西面しています。名前や様式からして、法隆寺夢殿を意識したと思われる建築です。

八角円堂、本瓦葺。

造営年不明。

 

正面(西面)。

柱間は板戸。

母屋の周囲には縁側がまわされ、欄干の親柱は擬宝珠付き。

 

柱間には彩色された頭貫が通っています。扉の上には長押が打たれ、長押の上の間斗束が頭貫を受けています。

 

頭貫の上の中備えは蟇股。

幾何学的な曲線を発展させて、花のような意匠にしています。建物は近現代のものと思われますが、この蟇股は室町後期から安土桃山時代の作風で作られています。

 

母屋柱はいずれも八角柱。

柱上の組物は、八角形の平面構造にあわせて出三斗を変形させたもの。

 

軒裏は二軒繁垂木。

垂木や隅木の先端の木口には、飾り金具や黄色い彩色があります。

 

南東面。

柱間は2つに分けられ、緑色の連子窓が設けられています。

 

南西、南東、北東、北西の柱間は、頭貫の上に蟇股がなく、かわりに笈形のついた束が置かれています。

 

頂部の宝珠は八角形の路盤の上に置かれ、水煙の意匠がついています。

 

大本堂、三重塔、一切経蔵などについては以上。

その3では、釈迦堂と出世稲荷について述べます。

*1:Wikipediaより

*2:回転式の書架のこと

【成田市】新勝寺(成田山) その1 総門、仁王門

今回は千葉県成田市の新勝寺(しんしょうじ)について。

 

新勝寺は成田市街に鎮座する真言宗智山派の大本山です。山号は成田山。通称は成田山新勝寺。

創建は940年(天慶三年)。朱雀天皇の勅命を受けた寛朝が、平将門の乱の鎮圧を祈願するため当地で祈祷をしたのがはじまり。平安時代から鎌倉時代は源氏の庇護を受けて隆盛しましたが、室町後期には戦乱の中で荒廃したようです。江戸時代には江戸幕府や水戸徳川家の庇護を受けて復興し、江戸中期に初代市川團十郎が当寺に深く帰依したことで、江戸の庶民からも広く信仰を集めました。現代に至っても、国内でもっとも参詣者の多い寺院とされます。

現在の境内伽藍は江戸後期から近現代にかけて整備されたもので、広大な境内には多数の伽藍が点在しています。伽藍は彫刻で満たされた派手な三重塔をはじめとする5棟が国重文のほか、本尊の不動明王像も国重文に指定されています。

 

当記事ではアクセス情報および総門と仁王門について述べます。

大本堂、三重塔、一切経蔵については「その2」

釈迦堂と出世稲荷については「その3」

額堂、光明堂、薬師堂については「その4」をご参照ください。

 

現地情報

所在地 〒286-0023千葉県成田市成田1(地図)
アクセス 成田駅から徒歩15分
成田スマートICから車で10分
駐車場 なし(※周辺にコインパーキング多数あり)
営業時間 06:00-16:00
入場料 無料
寺務所 あり
公式サイト 大本山成田山新勝寺
所要時間 1.5時間程度

 

境内

総門

新勝寺の境内は南向き。成田駅から新勝寺までの道中は歩行者天国で、観光客向けの店が立ち並んでいました。

境内入口には総門。

五間三戸、楼門、入母屋、正面背面軒唐破風付、銅瓦葺。

2006年竣工。大林組と金剛組による施工とのこと。

 

柱の配置で判断すると五間三戸(柱間が正面5間で、うち3間が通路になっている)という建築様式なのですが、左右両端の1間が狭いため、規模的に三間三戸や三間一戸の門と大差ありません。

 

下層。柱は円柱が使われ、中央の3間が通路となっています。

柱間には虹梁がわたされ、中備えは蟇股。柱から挿肘木の斗栱が出て、虹梁を持ち送りしています。

台輪の上には組物がびっしりと並び、上層の縁側を受けています。

 

柱の上部には頭貫と台輪が通り、頭貫には唐獅子の頭の彫刻。金網がかかっていて彫刻が見づらいのが残念。

柱上の組物は二手先の出組。

 

側面は2間。

こちらも台輪の上に詰組が並んでいます。

 

柱は八角形の礎石の上に立ち、飾り金具がついています。

 

内部は小組の格天井。

こちらも虹梁中備えに蟇股があり、挿肘木の持ち送りがついています。

 

上層も正面5間。柱間は桟唐戸や火灯窓。

中央の軒先に唐破風が設けられています。その下の扁額は山号「成田山」。

 

上層の組物は和様の尾垂木三手先。詰組です。

縁側の欄干は擬宝珠付き。親柱の擬宝珠は禅宗様の逆蓮。

 

上層の側面。

軒裏は二軒繁垂木。禅宗様の扇垂木です。垂木の先端には飾り金具。

 

背面の全体図。

各所の意匠は正面とほぼ同じ。こちらも中央の軒先に唐破風がついています。

 

仁王門

総門の先には急な石段があり、その上に仁王門が建っています。

三間一戸、八脚門、入母屋、正面千鳥破風付、正面背面軒唐破風付、銅板葺。

1830年(文政十三年)造営。「新勝寺 5棟」として国指定重要文化財。

 

正面は3間で、中央の1間が通路。

 

中央の通路部分には巨大なちょうちんがかかっています。扁額は山号「成田山」。

柱間には虹梁がわたされ、虹梁両端の下部には、彫刻の入った持ち送りが添えられています。

金網がかかっていて彫刻が観察しづらいのが惜しいです。

 

正面中央の軒唐破風。

唐破風の虹梁には若葉の絵様。その上の小壁は、花鳥らしき彫刻。

 

向かって左の柱間。

柱はいずれも円柱。上部に頭貫と台輪が通り、頭貫には唐獅子の彫刻。

飛貫と頭貫のあいだの欄間には、故事を題材とした彫刻が入っています。彫刻は後藤亀之助という工匠の作とのこと。

組物は二手先で、柱間にも詰組が置かれています。詰組のあいだには鳥獣を題材とした小さな彫刻が入っているのですが、金網に阻まれてよく見えず。

 

右側面(東面)。

側面は2間。柱間は板壁で、柱の根元には黒い金具がついています。

 

側面の軒下にも彫刻。側面中央の柱は、唐獅子ではなく獏の彫刻。

 

右側面後方の欄間の彫刻。

題材は「司馬温の甕割り」。水がめに落ちて溺れている子供を助けるため、かめをたたき割るという話。よく見かける題材です。

 

こちらは背面向かって右の欄間の彫刻。

題材は『捜神記』の「北斗星と南斗星」。早死にを宣告された若者が、死をつかさどる北斗星(碁盤の左に座る老人)に延命を頼み込む場面。

ほかの柱間にも欄間彫刻がありましたが、私には題材がわからなかったので割愛。

 

正面だけでなく、背面にも軒唐破風がついています。

兎毛通は、竜の顔をした怪鳥の彫刻。

 

軒裏は二軒繁垂木。垂木が放射状に伸び、扇垂木となっています。

 

通路上の、ちょうちんがかかっている場所を、後方から見た図。

内部の通路部分には虹梁がわたされ、両端には波の意匠の持ち送り。

 

内部の左右の欄間にも彫刻。上の写真は鳳凰。

 

後方から全体を見下ろした図。

 

仁王門の周辺

仁王門の手前、参道左手には手水舎。

切妻、銅板葺。

象鼻、組物、蟇股、懸魚などの意匠が使われています。軒裏は一重の吹き寄せ垂木。

 

仁王門の手前、参道左手には光輪閣。信徒向けの斎場のようです。

光輪閣の門は、一間一戸、四脚門、切妻、桟瓦葺。

 

正面の軒下。

柱は円柱。柱の上部には頭貫と台輪が通り、組物は尾垂木二手先。

軒裏は二軒重垂木。

 

頭貫には見返り唐獅子の彫刻。手に持った鞠は、輪違の文様の透かし彫りで、かなり力の入った造形に見えます。

 

反対側、正面向かって右の見返り唐獅子。

こちらは鞠のかわりに牡丹の花を持ち、その茎を口にくわえています。

 

妻飾りは二重虹梁。

大虹梁の下の支輪板には、菱形の文様。

暗くて見えないですが、二重虹梁の上には束が立てられています。

破風板の拝みには鰭のついた懸魚。

 

背面。

こちらも柱の側面に見返り唐獅子がありますが、正面のものほど凝った造形ではありませんでした。

 

門の先には光輪閣。

RC造、二重、入母屋、銅板葺。正面の車寄せは向唐破風。

1975年竣工。

 

仁王門の先の石段を参道左手にそれると、こわれ不動堂なるものがあります。

何度修理しても壊れることが名前の由来で、現在の堂は明治期のものらしいです。

梁間1間・桁行1間、向唐破風、銅板葺。

 

屋根は向唐破風。

破風板の兎毛通には鶴の彫刻がありますが、金網で厳重に保護されています。

 

母屋正面には桟唐戸。扉の上下左右の欄間にも彫刻。

軒下は詰組が並んでいますが、金網でよく見えず。

 

向かって左の側面。

壁面には唐獅子の彫刻。

 

総門と仁王門については以上。

その2では、大本堂、三重塔、一切経蔵について述べます。

【上田市】高仙寺(小泉大日堂)

今回は長野県上田市の高仙寺(こうせんじ)について。

 

高仙寺は市の北端の山中に鎮座する真言宗智山派の寺院です。山号は驚覚山。

創建は寺伝によると806年(大同元年)。坂上田村麻呂が蝦夷征伐の折に当地に堂宇を建立したのがはじまりで、当寺は大日堂の別当として開かれたとのこと。当初の伽藍は“方十二間四面の伽藍及朱門十二坊仁王門”*1の立ち並ぶ大規模なものだったらしいです。室町時代に現在の大日堂が再建され、1548年(天門十七年)には武田氏の侵攻(上田原の戦い)で諸堂を焼失したものの、大日堂は延焼を免れました。

現在の高仙寺の境内伽藍は戦後のものと思われますが、境内の裏手に建つ大日堂は室町時代の造営とされる大規模な堂宇であり、市の文化財に指定されています。

 

現地情報

所在地 〒386-1106長野県上田市小泉2075(地図)
アクセス 西上田駅から徒歩1時間
坂城ICから車で20分
駐車場 20台(無料)
営業時間 随時
入場料 無料
寺務所 なし
公式サイト なし
所要時間 20分程度

 

境内

本堂など

高仙寺の境内は南東向き。境内は丘陵の斜面に立つ集落の最奥部にあります。

山門などはとくにありません。

 

本堂入口の塀。

壁はかまぼこ状に盛られ、屋根は垂木のない化粧屋根裏の切妻。

 

本堂は、入母屋、向拝1間 向唐破風、銅板葺。

本尊は大日如来。

 

向拝の中備えは板蟇股。

唐破風の妻飾りは大瓶束。

破風板の兎毛通には猪目懸魚が下がっています。

 

向拝柱は几帳面取り。正面と側面には象鼻。

柱上の組物は出三斗で、実肘木を使わずに妻虹梁の眉欠きの部分を受けています。

 

向拝と母屋の柱のあいだには、まっすぐな梁が渡されています。中備えには間斗束が立てられ、こちらも実肘木を使っていません。

向拝の軒下には格天井が張られています。

 

母屋前面には、桟唐戸や舞良戸のデザインの引き戸が使われています。

扁額は寺号「高仙寺」。

 

母屋柱は角柱で、柱上は舟肘木。

妻壁には束が立ち、豕扠首のような三角形になっています。

破風板の拝みは猪目懸魚。

 

本堂の手前、参道右手には鐘楼。

入母屋、銅板葺。

 

柱は面取り角柱。頭貫と台輪には禅宗様木鼻。

柱上は出三斗。

 

飛貫虹梁の上の中備えは蟇股。台輪の上の中備えは平三斗。

内部は格天井。

 

参道

本堂の西側には並木の参道が伸び、大日堂へとつづいています。

趣のある並木道がふもとから伸びてて、本来はそちらが表参道なのですが、それとは別に車道や駐車場が整備されているため、表参道で登ってくる人は少数かと思われます。

参道および並木は「高仙寺参道並木」として市指定記念物。参道の全長は350メートル、樹種はスギが主で、樹齢300年程度とのこと。

 

参道右脇にはこのような小屋があり、内部に化石が保存されています。

化石は「小泉のシナノイルカ」として県指定天然記念物。

当地は海からかなり距離のある場所ですが、1000万年前の長野県周辺は海面下にあったようで、長野市や松本市の山中でもクジラの化石が見つかっています。

 

大日堂(小泉大日堂)

境内の最奥部には大日堂が鎮座しています。

桁行5間・梁間5間、宝形、銅板葺。

室町時代中期の造営と考えられています*2。市指定有形文化財。

 

宝形(ピラミッドのような四角錐の屋根形状)の堂として、県内最大規模とのこと。宝形は小規模な開山堂などでよく採用される様式のため、これだけの規模のあるものは国内でもそう多くないと思います。

 

右側面(東面)。

正面側面ともに5間ですが、前方2間は吹き放ちの外陣です。そして左右両側面(脇陣)と背面の1間通りも、外陣とひとつづきの空間となっています。内陣は正面3間・側面2間だけです。

平面構造は中世の密教本堂の典型と言ってよさそうですが、壁や建具が内陣周辺にしかなく、きわめて開放的な造りとなっている点は、密教本堂として特異だと思います。

 

規模・構造ともに特筆するものがあり、もし成立の過程や造営年がわかる資料があったなら、国指定かそれに準ずる文化財になれるのではないでしょうか。

 

正面は5間。中央の柱間には、大きな鰐口が吊るされています。

前面と側面背面を吹き放ちの外陣としていますが、見かたを変えれば「屋根を大きくして縁側にも柱を立てた」*3とも解釈できるかもしれません。

 

柱は円柱。頭貫には繰型のついた木鼻。

柱上の組物は出三斗と平三斗。中備えは間斗束。

 

正面中央の部分だけ、中備えは特別に蓑束が使われています。

 

外陣内部の柱も円柱。こちらも頭貫木鼻、間斗束があります。

正面側面5間のうち、周囲1間通りは庇というあつかいのようで、その部分は天井がなく化粧屋根裏です。

 

内陣部分の柱間には、縦板壁が張られています。

扁額は「遍照閣」。

頭貫の上の中備えは透かし蟇股。

 

当然ながら内陣にも円柱が使われています。

頭貫に木鼻が付き、中備えに間斗束がある点も同様。

 

背面。こちらは目立った意匠がなく簡素。

 

大日堂の北西の隅の軒下には、回向柱が立てかけられていました。写真中央手前の回向柱には1981年(昭和五十六年)の墨書があります。

当寺の檀家のかたの話によると、御開帳が30年に一度あり、善光寺のように堂の前に回向柱が立てられるとのこと。

 

以上、高仙寺でした。

(訪問日2022/12/02)

*1:案内板(信州小泉大日堂 別当高仙寺の設置)より

*2:案内板(上田市教育委員会の設置)より

*3:長野県内だと盛蓮寺観音堂(大町市)や松尾寺本堂(安曇野市)が代表例